鬼放置【掌編小説】
※本作品はフィクションです。
本編2401字。
節分に邪気を取り払うって、何も夫婦関係にまで躍起にならなくて良いんじゃ・・。夫のヒロシはそうつぶやくと幻の終わりの様な刹那さに囚われた。
実は、節分に離婚を突きつける風習は日本に存在していた。妻の節子は鬼の形相で夫に三行半を突きつける。
「ハタチに結婚して20年。ずっと、アンタのことが気に入らなかってん」
ヒロシに世の悪運の全てが降りかかったように真昼の斜光が突き刺さる。まるで居所を失った彼は何が起こったのか分からない無の表情だ。
「無職なのに、博打に散財。一体どれだけ人を阿呆にしたら気が済むんや?」
もじゃもじゃ頭の最愛妻の問いかけに一番答えられないのがダメ亭主の典型例で、どうしてこうなったかも分からない。
「元々こうだったから・・・」唯一の抵抗は居直るしかない程度の虚しさが家中に轟く。
「節分の日に鬼じゃなくて、アナタが家から去って下さい」
節子は丁寧御礼なのか、慇懃無礼なのかよく分からないセリフを吐くと何かを投げる仕草をした。気だったか。それとも、長年連れ添った情念だったか。
ヒロシは敢えて何かを当てられたように苦悶の表情をした。心は傷ついたと言わんばかりのささやかなリアクションだった。
「じゃあ、スーパー行くから」
妻はこう言うと、車の鍵をヒロシに投げた。彼は元野球部でキャッチャー経験がありチーム内では「正妻」と呼ばれていた。
「ナイスキャッチ。」妻がこう言うとニヤリとヒロシは笑った。「顔、キモ・・・」たった一言が彼の心に突き刺さり感傷的になった。
いつも通り、運転手ヒロシの助手席に座らない節子は斜め後ろ席に偉そうに乗り込んだ。
「はよ行けよ。夜まで時間ないんやから」
シニカルな関西弁が車内を支配した。
運転中のヒロシは頭が真っ白だった。やっぱり、今晩11時59分59秒に自分は捨てられてしまうのか。もう、ダメなのか。フロントガラスから見える赤鬼のコスプレをした全員が妻に見えた。
近くのスーパーに到着した。
節子はオウと一言だけ言うとそそくさと店内に消えて行った。ヒョウ柄の上下服は異様なオーラを放っていた。「行ってらっしゃい」聞こえないはずの囁きは愛妻に届いただろうか。
待てど暮らせど妻は戻って来ない。何かあったのだろうか。
心配になったヒロシが車から降りると携帯電話がけたたましく鳴った。節子からだ。
「豆は、赤か黒か白か?」
ヒロシはハァと叫ぶと同時に「色は何でもいいから」と吐き捨てた。どうせ赤を選べば「血を見るぞ」とか、黒なら「お前は企んでいるのか」とか、白なら「嘘をつくな」などと圧力をかけてくるのだろうから。いずれにせよ気が引けた。
大きなスーパーの袋を両手に持った節子が戻ってきた。すると突然、携帯電話が無いと言い出した。
「さっきまで持っていたんでしょうが」
ヒロシは思わずこう叫ぶと、斜め後部座席に座った節子と入れ替わるように店内に向かって駆け出した。
スーパーのインフォメーションコーナーにニコリと笑う20代の女性が立っている。
「すっ、すいません」
ヒロシはハアハアと今にも息が切れそうだ。
「お客様、いかがいたしましたか?」
そのキャビンアテンダント並みの優しさに少し心が落ち着いた。
「いや、その、うちの妻が携帯電話を無くしたのです」
「けっ、携帯電話ですか?」
焦るミナシロと言う若い店員は世の中を何も知らないような表情をヒロシに向けた。不安になった彼はひたすらに前のめりになった。
「とにかく、携帯を探したいのです」
「はいっ!」店員はこう言うと、承知した様に目の前にある小さなマイクめがけて店長を呼び出した。
「赤穂店長、赤穂店長。先ほどのお客様の身内の方のご携帯電話が店内にて紛失しました」
こう言った途端、50代の小太りの男性が魚か何かのパックを片手に走ってきた。
店長は若い女性店員に入れ替わるようにヒロシに話し掛けてきた。男性は何も悪いことをしていないのに、まるで自らに全責任がのしかかったような表情だ。
全身汗だくの、その姿にヒロシも一抹の申し訳なさを感じるしかなかった。
すると、遠くの鮮魚コーナーから別の店員が携帯電話片手にこちら側へ走る姿が見えた。
ピンクだ、節子の携帯だ。ヒロシは思わずそう叫んだ。
「お客様、鮮魚コーナーに鯖の横に置かれて、お忘れになられたようです」
青魚の横に、なんでそんな所に。ヒロシはこうつぶやくと思わず両手で顔を覆った。豆の色をどうのこうの言っている場合では無かった。
「ありがとうございます」背骨が折れ曲がるほど深くお辞儀をした後、ひらすら店長と店員に謝った。いや、お店にも。
「お客様。スマートフォン見つかって何よりでした。またのご利用をお待ち致しております」
店長はそう言うと、片手に持っていたイワシと手巻き寿司用の大きな海苔をビニール袋に詰め始めた。またお店に来て欲しいと言わんばかりに懇願するような表情でヒロシに渡した。
「いやいや、皆さんが悪いわけではなく・・・」
そんな声はお構い無しと店長の顔には書いてあった。むしろ、これくらいのことは当たり前だと聴こえてきそうだった。サッとヒロシは受け取った。スーパーが乱立する時代にこれぐらいの対応は当たり前なのだろう、とフト思った。
「携帯あったよ」
そう優しくピンクの携帯電話を妻にそっと手渡した。目の前の節子は涙声でヒロシの両手を強く握った。車中に取り残された約30分間、節子はさぞ淋しく虚しい思いをしただろうとヒロシは慮った。
「じゃあ、出発するよ」
まだ小太り店長の温もりが残るビニール袋の取っ手を惜しむように助手席に商品を手放した。ヒロシは鍵を勢いよく差し込んで、いつものようにハンドルを握った。
「ありがとう」は、確かに車内に優しく響いた。日曜日の夕暮れ時は夫婦が夫婦であり続けるための幸せなひとときになった。
【了】