僕が近年、ゲームに思うこと

 こんにちは禅ちゃんです。僕は辛い過去が現実にありますが僕自身の心の中には出会ってきた素敵な物語が本として心の本棚に置いてあります。と言っても僕は周りの人よりRPG派で、撃ち合いゲームには全く興味ありません。物語がプレイヤーの心が動かし、どうあるべきか、あるいはここからはプレイヤーの判断にといった感じの内容の方が直接こちらにも本心に語りかけてきているように思えるからです。ですがここで強調しておきたいのはゲームの中でのこと‥‥ではなくこの世界が今自分が生きている世界で問いかけてきているのはプログラムではなく世界で生きている人間、あるいは一つ存在が語りかけてきているということを楽しむこと。現実としてではなく、感じて考えること物語とはそうやってプレイするものです。
 
ではなぜそんなことを言い出すのかというと現実の人間は死につつあるあるいは死んでいると思うからです。というのは最近聞く「厨二かよ!?」とか「きもい」とか「ロマンチスト嫌いなんだよね」とか平気でものを言う人が増えたからです。でもそんな人たちがかたや人を虐めたり、攻撃したり、いがみあったり、時には派閥ができてそんな人たちは勉強できて卒業し、教える立場になってからこんな世の中になった気がします。効率重視とか。勘違いしているのは「教える」と言うのをいち早くイメージしていただくのは会社見学とかではなく映画です。僕が見たのはベストキッドです。1〜4作までありますが、全て現実に起こることそのものです。何も知らない主人公は練習の日々のある日、自分の練習メニューに疑問を持ったり、ただ単に理解できなくってただ淡々とこなしていくのに嫌になったり。そんな時に師匠が初めて口を開いて、なんで?ではなくどんなもの?ことに繋がっているのかを示してくれます。僕たちが人間が目下の人に伝えるべきことの一番は技術ではなくそれを成す、そのために何をするのか、そのために何をしていくのかというのを例えば日本人で言えば三ヶ月、あるいは一年たってもまだ覚えないのかとかよく聞くセリフではありますが、理解、生理、人間関係やら複雑なことを抱え仕事をしていく中で制約?みたいなもの作るは教えると言うことそのものに負担をかけると思います。

では、ゲームや映画に置き換えると、いろんなキャラが起承転結な物語のなか挫折を味わい、強くなっていく過程で何ヶ月でとか、何年でこれくらいとかあまり聞かないです。むしろみんなで乗り越える、乗り越えようとする団結力さえ見られる。見ている視聴者側もハラハラ半分、自分の心もこうでありたいと思ったことがある人は少なからずいたはずです。それこそ夢と言うのではないでしょうか?現実で言えば警察官になりたいですとか飛行機操縦士とか。けなすわけではありませんがそれは夢ではなく、目標です。夢は叶わないことを願うべきです。願うから夢なんです。
 今まで経験してきたゲームでもやはり人として出てくる大半のキャラは、今の人間そのものを描いてると言っても過言ではないものがありました。それでも支えようと思うキャラや主人公に寄り添うキャラ、といったことで物語は進むといったシーンもありました。僕たちはこの温かな心を持った人でなくてはなりません。現実世界は悪人ばっかです。貶し、見落とし、見下し、スキあらば踏み台。人はどこまで言っても人を敵にするのは間違ってます。相対的存在に強さを求めてどうするのでしょうか。強さは護るために使うべきです。競うためでも貶したり、虐めるためにあるのではない。僕たちの手や足、拳は仲間、人間を傷つけるためにあるのではない。悪を貫くために使われてこそ力。

すいません、話が長くなりましたが、撃ち合いゲームよりより一層RPGや推理ものとかの配信者さんを見て欲しいと思います。心の在り方と立ち位置の差で人間は変わると思います。僕もより多めにそういったゲームをしていこうと思います。

あと余談ですがここからさきサバイバルが思いのほか楽しくなってきました。サバイバルの協力ゲームをどんどんやっていきたいですね。

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