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奈良朝 妻ファーストの夫婦喧嘩考 後編

平城京へ戻りましょう!

平城京は藤原氏の勢力圏です。

藤原氏が力を失いつつある中、生き残りの光明皇后は藤原氏の唯一の代表選手。実家の危機なので、ここは私の出番という事です。

光明皇后
「奈良に戻りましょう!都は奈良をおいて他にござませんわ」

聖武天皇
「いや奈良は困る。そんな事したら、私は祟りで死んでしまう」

光明皇后
「そんな事ございませんわ♡」

精神的に病んでいた天皇に対し、皇后はかなりしっかりしていて、男性的でやり手であった。


この頃の二人の書いた物を見ると、聖武天皇は優雅ではあるが、弱々しく、光明皇后は力強さが見られます。


光明皇后は焦っていた。実は紫香楽宮では大仏建立の計画まであったのでした。

皇后は時には、なだめ、時には脅し、夫である天皇を連れ出そうとしますが、中々言うことを聞かない。そこで、紫香楽宮で相次ぐ不審な火事が起こり、僧や貴族がやっぱり平城京に都を移すべきだと声があがり、ようやく奈良へ戻ることとなりました。

光明皇后はやっと私の家に戻ってきたわと凱旋気分であったかもしれない。
ようやく光明皇后の勢力圏の奈良へ戻り、自分好みの大仏建立を始めました。

まるで、奥様が戻ってきた気に入りの家で自分好みのインテリアや内装をするように。
正に皇后の勝利です。

聖武天皇は奈良に戻ってからも体調は優れなかった。ひとつに安積(あさか)親王の死であった。天皇の別の妃の子で、藤原氏のライバルであったので、藤原氏の手で暗殺されたのではないかとの説もあり、おそらくその可能性は高い。

天皇にしてみれば祟りがある戻りたくない奈良と我が子の死と精神が病んでいたので、かなりショックであったと思います。

平城京へ戻った翌年、安倍内親王へ攘夷派されます。
安倍内親王は光明皇后との子どもで女性です。安積親王亡き後の皇太子です。
孝謙天皇です。


孝謙天皇は推古天皇から六人目の女帝誕生日です。実は孝謙天皇は一度譲位し、再び称徳天皇となりますが、これ以降、江戸時代の明正天皇までの約850年間女帝が立つことは有りませんでした。


光明皇后は我が娘が天皇になったので、悲願達成でした。

天平勝宝四年(752年)、東大寺大仏開眼供養が行われました。
しかし天皇はこの頃は病気が進行しておりました。
大仏建立は天皇の念願でありましたが、素直に喜べない。
奥様本位で建てられたマイホームはどこと無く居心地が悪く、落ち着く場所では無かったのかもしれませんね。



この夫婦は必ずしも仲が良かったわけでもありません。

聖武天皇と光明皇后は同い年で、16歳で結婚しました。数年後、基王が生まれました。藤原氏の横暴か生まれての子を皇太子にしたのです。
しかし基王は病気で1歳で亡くなります。
その後、別のお妃との間に安積親王が生まれます。天皇はその子を可愛がります。

どことなく心情の一致が得られず、微妙な食い違いがあったのかも知れません。



光明皇后の万葉集の歌が残ってます。

わがせこと ふたりみませば いくばくか
このふるゆきの うれしからまし
(天皇と二人きりでこの雪を見れたらどれだけ嬉しい事でしょう❣️)


この歌に対する天皇の返歌はありません。

それどころか万葉集の聖武天皇の歌は別の女性との想いの歌は残っています。
光明皇后とのすれ違いが万葉集に現れています。

文武天皇の子どもで天皇になることが決まっていた聖武天皇ですが、病弱で危機があるともろく、弱かったのかもしれません。
支える光明皇后も悩みがあったのかもしれませんね。


次回は平安時代を書きます。
お楽しみに。

終わり

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