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鎌倉殿夫婦喧嘩考 後編

◯登場人物(鎌倉幕府成立時)
源 頼朝(みなもとのよりとも)
 39歳 源氏の棟梁 征夷大将軍
北条政子(ほうじょうまさこ)
 29歳くらい 北条時政の娘
北条時政(ほうじょうときまさ)
 49歳くらい 執権



源頼朝が浮気するのは、決まって政子の妊娠中か鎌倉にいない時だそうです。
長女大姫誕生後、頼家と実朝が生まれるので、少なくとも2回は浮気していたことになる。


浮気相手の大進局が男の子を妊娠した時は、大進局を幕府の御所から追い出された。
子供は大進局のゆかりの者にかくまわれて育てたられた。
政子はその男の子を武士にすることを許さず、出家させて京都に追いやってしまった。
頼朝はその男の子が京都に出発する前に、こっそり会いに行き、太刀を渡している。

この時の歴史書の『吾妻鏡』にも、政子の激しい怒りと嫉妬が記載されている。

この夫婦喧嘩はお互いの育ってきた環境の違いも大きいと思う。
頼朝は京都出身の名家の出、
政子は地方豪族の娘。

当時の京都では、男が女のもとに通い、自由恋愛が当たり前であった。
頼朝が平治の乱で京都から追放される時、14歳である。今でいう成人前の男性である。
頼朝にとっては政子以外の自由恋愛は自然なのかも知れない。

政子の方は受取り方が違っていたようである。
東国武士も自由恋愛は変わらないが、北条氏のような無名豪族は二人も三人も妻がいなかったようである。
政子の父の北条時政は前妻が亡くなったあと、後に問題となる牧の方と再婚している。

政子は複数妻がいる生活に慣れていなかっのである。頼朝の浮気を見ると、悔しくて、嫉妬して、相手の女性を憎んでいた。

頼朝の方は、
「何でそんなに怒ってるの⁉️」って感じだと思います。

平安時代から鎌倉時代になる激動の時代だったので、平和な時には、絶対に結ばれない二人である。
不釣り合いの二人か結婚したことがこの悲喜劇を産んだかも知れない。

政子にしてみれば、
「ただでさえ、ややこしい時代なのに、他の女の子供が出てくると、源氏にとってさらにややこしくなるわ❗️」
と真剣に考えていたようだ。

元に源頼朝と源義経の兄弟の争いや源実朝と公暁との叔父と甥との争いが耐えなかったので、政子の気持ちもわかる気がします。

「鎌倉幕府を成立する為には、将軍たる者はよそで子供を作ってはならない」
「夫たる者、妻が妊娠、出産中は浮気をすべきでない。」

政治的、道徳的にも政子の言うことは正しい。
正論の政子は強気であり、大義名分を持っている。
なので頼朝はタジタジである💦

でも、大義や正義だけでは成り立たないのが、この世界です。
人の世界はひどく矛盾していて、複雑で、一筋縄ではいかないのです。

頼朝は日本史の中、いや世界史の中でもピカ一の政治力を持つ政治家だと思っています。
英雄、色を好むではないですが、浮気癖は治らなかった。

「わかっちゃいるけど、やめられない」

ただ「俺のすることに、口出しするな!」
と政子には言えなかったようです。
頼朝も政子に言われて、かなり自粛していたようで、父の源義朝に比べても愛人の数も子供の数も少ない。

頼朝と政子は夫婦というより、同志という感じだったのかも知れない。お互いは愛しあってたと思います。

現代に当てはめるとこんな感じでしょうか?

政子
「ねえ、聞いてよ。私のいう事間違ってると思う?そんなことないでしょ。なのに頼朝ちゃんたらね…」

僕たちの祖先は、良いことばを残してくれています。

「夫婦喧嘩は犬も食わぬ❗️」

終わり


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