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王朝美人夫婦喧嘩考 後編

「なげきつつ」の歌以降、道綱ママと兼家の夫婦喧嘩は果てしなく続きます。

意地っ張りは前編で書きましたので、
駆け引き、家出、精神不安定。
夫婦喧嘩のオンパレードですよ。


①駆け引き。
兼家の正室の時姫との手紙のやり取りの歌。
今で言うメールのやり取りでしょうか❓

道綱ママ
そこにさへ かるといふなる まこもぐさ
いかなるさわに ねをとどむらむ
(時姫さまの所から離れている兼家さまは、
いったいどこにいらっしゃるのでしょう?)

時姫
まこもぐさ かるとはよどの さわなれや
ねをとどむてふ さわはそことか
(あーら。私はてっきりあなたの所に通っていると思ったましたが、あなたの所じゃなかったのね。)

時姫は反発をあらわにしています。
「自分の所に兼家様が来なくなったから、仲良くしましょうって💢 何様‼️」



藤原兼家は藤原氏繁栄を盤石にした豪胆な人物です。
時姫には道隆、家兼、道長、超子、詮子と子が沢山いる。
藤原道長は
このよをば わがよとぞおもふ もちづきの かけたるかとも なしとおもへば
と歌いこの世を謳歌した人物である。

道綱ママの子の藤原道綱は道長と異母兄弟にあたる。官位は大納言まで上がる、あともう少しで大臣の所を道長に阻まれる。
大人しく性格であったが、弓の名手でもあり、文武両立した男前と思われる。まあ美人ママの子だからかもね。



②家出
家出は彼女の逃げの非常階段です。
道綱ママ「急に世の中が嫌になりました」と言い、山寺にこもってしまうのだ。
出家でもするのかと思い兼家は慌てて駆けつけるが、追い返される。
息子の道綱が仲立ちしてもダメ、兼家が「もう一度戻って来い」「迎えを出す」と下手に出ても返事もしない。
最後は兼家は実力行使に出る。突然やって来て、強引に連れて帰った。
形は道綱ママが折れたみたいにみえるが、兼家は内心どう思っていたのだろう?
この時の兼家の地位は中納言で閣僚クラスである。これから政治に深く関わる時である。
「やれやれ、人騒がせな人だ。」

平安時代きっての豪胆な政治家の兼家が彼女の前では下手に出ていることである。

兼家はこれから太政大臣、摂政、関白まで昇りつめる大人物である。大人物には古今、恐妻家が多い。
道綱ママにしてみれば、私に目を向けない兼家が悪いばかりに、相手を謝らせ、うっぷんを晴らしていたとすれば、少し世間知らずなのか?


③精神不安定。
この時代は通い婚で夫が妻の家で暮らしていた。一夫多妻制の時代なので、妻が沢山いるとそれぞれの家で寝ていたのであった。どれだけの頻度で来るかが愛情を測る目安でもあった。

行っても入れてもらえないとか話してもくれないことが続くと兼家はそのうち、道綱ママの所へ来なくなりました。
道綱ママは美人で才女であったが、それをしても夫を繋ぎ止めることが出来なかった。
第二夫人の立場から息子の道綱くんの行く末も心配です。

道綱ママは精神不安定になり、遺書を書いている。嫌がらせとかではなく大真面目な遺書である。
「あなたはちっとも来てくれない。私の命は惜しくないけど、我が子、道綱のことが気がかりです。私が死んだ後も、道綱を放ったらかしにしないでね。」

この時の夫の言い分は
「大したこともないのに、死ぬ、死ぬなんて大げさな!」

妻の言い分は
「私の気持ちも体のことも何にもわかってくれない❗️」

このような悪循環が続いていた。
実際は死んでませんが。


彼女が書いた「蜻蛉日記」はリアルな夫婦喧嘩を書いた告白本だ。平安時代の女流文学の中でリアルな心理描写は群を抜いていると思います。

夫の不実、妻の嫉妬、夫婦喧嘩の顛末であるが、こんな見方もあります。
「天下の藤原兼家様が、私の為にこんなに気を使ってくれたのよ〜」
好きじゃない‼️兼家のこと。

男には理解できない。夫婦仲の謎はまだ解けそうにもない。

(終わり)





◯登場人物(安和二年(962年))
・右大将道綱の母
(うだいしょうみちつなのはは)
 34歳 藤原兼家 第二夫人、
    30日間訪問無し。

・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)
 41歳 従四位下兵部大輔(ひょうぶたいふ)
   順調に出世。最終的に天皇補佐役の関白。

・藤原道綱(ふじわらのみちつな)
  15歳 元服であるが、直前でキャンセル。
    実はイケメン。文武両立。
 








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