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おまえだれ?(俺史概論)

はじめまして!これからイケてる人もすなるnoteなるものをやってみようと思う龍垣です。



おはようオハイオ。

さて、私生まれがアメリカのオハイオ州というところでして、、、

ここでごぜえますな。んでここで生まれて1歳くらいで帰る予定だったのが「同時多発テロ」とやらでぜんっぶの飛行機の便がなくなって帰れなくなってしまい、4歳までおりました。
周りにいた日本人は皆女の子だったので今でも女友達が多くて、未だに女性だからと緊張することはないですねえ。かわいい子とかは除いて、、、

きゃんわわわわい〜ですね!




凱旋、帰国子女へ。

そこからは両親の地元の山口県に住み、カルチャーショックをちょくちょく受けながら幼稚園を生きます。この頃は逆に日本語の発音が変で、風船が綺麗に言えず、ffぅせんって言ったり、gray(灰色)を日本語でなんと言うかわからず、ぐううぇ〜いって言ってましたね〜。

まだかわいいですね!



デブ・ストーリーは突然に、、、。

そしてそれまで少食だった帰国子女の少年は、小学校からふとっちょガキ大将として過ごすことになりました(!?)
日本の飯美味すぎたのもあるんでしょうけどこの頃から父親の虐待がモーレツになりましてね。今思えばそのストレスもあったかと思います。習い事で水泳をやってたのですが、まあ痩せないこと痩せないこと。

そしてこの頃私は親のパソコンからインターネットとかいう魔窟に触れてしまい、MADを死ぬ程見たり、ボカロを聞き倒したり、夜更かしして深夜アニメリアタイしてた訳ですね。

まあ太ってキモオタ化した、と。帰国子女から最悪の分岐進化でしたね〜。なんとなくおもろいからという理由で偉そうにふんぞり返ってたわけですが、キモオタに玉座は相応しくないですよね。美しいほど都落ちです。

あぁ…。



ヤンキー、邂逅。ねじれねじまき。

キモオタデッブモンにワープ進化後、中学校に進学。バカだからそれなりに期待した中学生活でしたが、入学数日でヤンキーに絡まれてしまいました…。
もうどんな因縁なのかは覚えてないですが、でっかいヤンキーに胸ぐらをすげえ勢いで掴まれて、石段に押し付けられました。
やり場のない怒りとか、トラウマとか、次の日も引きずってでも学校に行かせようとする母親に狂気を感じましたね〜。
ただのデブでキモオタにこんなことする奴なんか小物オブ小物なんですが、このときの僕はこう思いました。

強くなってぶっ殺してやる。

と。

悲しいですねえなんか。かわいい頃の俺はもういません。あ、それはとっくの前からそうか。まあこうして彼は剣道部に入ることを決め、日々稽古に励んだわけです。

するとこれがみるみる痩せた!中身は依然としてクソ気持ち悪いんですがね!(時はボカロ黄金期、初代ラブライブ、艦これも襲ってきていた恐ろしい時代)

スラッッ!!

そこそこの戦闘力を手に入れたはいいものの、剣道部は臭いです。デバフ「デブ」を解除し、「悪臭」を手に入れました、、、クサキモオタみたいな感じですかね。そんな僕を支えてくれたのが今でも世界一大好きなバンド、マキシマム ザ ホルモンでした。

部活との兼ね合いで陽キャとも少々つるんでた俺はもちろん「三代目」やら「湘南乃風」やらも聞いてたわけですが、一番自分に馴染んだのはホルモンの音楽でした。

ちゃーんと陰キャ。ちゃんと厨二。だから超攻撃的で暴力的なものが欲しい!でも、怖いお兄さんたちがやってるのはちょっと、、、陰キャの味方でいて、、、あとロックとか全然わかんないからキャッチーさも欲しい、、、あとちょっと笑えるような歌詞があったり、、、できれば曲もライブも面白くて、、、でもかっこいいみたいな、、、

そんな陰キャ中学生の夢。
全部かなえてくれるドラえもんだった。

僕にとって。

別にこの時にロックに目覚めたわけではない。でも、この出会いが間違いなく何かを狂わせた。

さてさて、ホルモンと竹刀で武装する彼も受験のことを考えなければなりませんでした。
公立高校に…いぎだい!だったので暴力沙汰は絶対起こさないと決め、それからどれだけ喧嘩を売られようが買いませんでした。
なかなか一生懸命勉強もして、大嫌いな算数にも逃げませんでした。結果は、、、





落つ〜👍🏻

いやあ見事な落ちっぷり。まあまあの私立高校一校以外すべて落ちました。何故かそこよりはるか下のレベルも。

なあに原因はわかっていたさ、内申、さ。

後に判明するのですが私かなりのADHDでして、提出物をほとんど出さなかったり、音楽の授業じゃ合唱中に隣の男のケツを蹴ったり、なんか通知表の「音楽」の欄には1がついてましたね。

この時に太宰府天満宮へ合格祈願もしてたのですが、こんな落ちっぷりだったため、菅原道真クソやな!ざあこざあこ!状態で進学しました、、、


春と女とロックと毒と。

色々我慢して、我慢して我慢したのに、ここしか受からなかった。クソ。そんな荒んだ気持ちで門をくぐりました。

しかしそこは、なんかそんな境遇のやつばっかりで、かなり居心地がよかった。

僕はここで初の近距離恋愛をしました。女という存在を「女の子」として認識しはじめたのもこのあたりでしょう。
一緒に夏フェスに行ったり、剣道部も継続し、とっても楽しかったみたいですね。前半は。

しかしどちらも大クセ人間、免れられぬ最後を迎えます。

そして交友関係の広かったこの二人の徹底的破局は、クラスの男女を冷戦に突入させます。アンチ龍垣もたくさんいました。

そして彼は毒されていき、そのはけ口として激しいロックをどんどん聞くようになりました。
最初はSiM、MAN WITH A MISSION、WANIMA、などなどフェスによく出てくる若手を聴いていたのが、飽くなきこの毒男、フェスに出てくる中堅〜大御所あたりも気になり始めます。Hi-STANDARD、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、ELLEGARDEN、そしてRIZE。
僕はそれまで親が流す曲やらホルモンやらでロックは知っていました。

しかし初めて見たRIZEの衝撃、これを俺は自分がロックとバンドに目覚めた瞬間だと思います。

彼はRIZEのカバーの「ピンクスパイダー」からhideを知り、どハマり、ズブズブとそれからも90年代の日本のロックへ沈みこんでいくのでした…。


そして受験のシーズンを迎えます。
私はここで尖ることを覚え、学校をサボって家で勉強していました。受験のアドバイス的なこともいずれnoteにしたいですね。夜中〜朝の静かな時間に勉強し、昼間のうるさい時間はストイックに寝る。
そしてそのお供としてここで洋楽と出会い、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、オアシスなど90、00年代からビートルズ、チャック・ベリーまで遡って聴き、周りといよいよ音楽の話が合わない感じに仕上がってきました。

そうして彼は自称進学校のレベルにしては割と頑張って

立命館大学に合格しました!


私の行きたかった公立高校に受かれば恐らく、いや確実に不可能なレベルだったと思います。そして住むことになった場所は北野天満宮の真裏、菅原道真のお膝元のような場所でした。あぁ、参ったと思いましたね。菅公のドヤ顔が目に浮かびました、、、



そして最後のページには


1回生、大学では一人も友達ができず病み散らかし、学業も身が入りませんでした。もしかしてと思いメンタルクリニックに行ったところADHD、それも強めだと診断されました。

僕は嬉しかったです。この怠け癖は自分がどうしようもない甘えた人間だと思い込んでいたのが病気だったなんて。少し前を向けました。

それになんと言っても大学ではいよいよ音楽を始めました。それまでなんの楽器も触ったことのない音楽ペーペーが作詞作曲、ボーカルをとったのです。
中学じゃ通知表の音楽の欄に1が付けられて、そのせいで高校の選択科目の芸術では音楽を受けられず、美術をやっていたこの男が、自分で音楽を作って奏でているではありませんか!!
くそわろけるな。うん。それに、
当てにならねえな。紙の上の数字なんて。

髪あっっか!!そりゃ友達できん!
あと貴様、さては受験で太ったな。

そして次の年にはコロナ禍が到来。
もともと友達などいなかった彼は学業や京都の雑踏から解放され、何か生まれ変わったような気分でした。この時期にGotoキャンペーンや補助金を活用して各地で遊びまくります。それまで京都に居ても引きこもってばっかだったのが、ほんとバカらしく思えるくらい楽しかった。

お!痩せたね〜!
(一人だと食うのめんどくさい。
コロナで店どこも開いてない。)


私はくるりらを排出したRockCommuneというサークルに所属していたのですが、そこでの活動もストップ。しかし音源を録ったりはしましたね。

その時に録ったのが「テール」という楽曲。
ドラムの子が作ってくれたリフにアレンジを加え、メロディを載せて、編曲しました。
そのうち配信する予定です。

大学に入って知った音楽、好きになった音楽も数多くあり、レコードで聴いて衝撃的だったキング・クリムゾンからプログレやらサイケにハマったり(マジで電流走った)、90年代の日本のロック、THE YELLOW MONKEY、BLANKEY JET CITY、もうちょっと降って銀杏BOYZとか、もうちょっと遡ってBOØWYとか、、、かなり音楽を聴く幅は広がりましたね。
他アーティスト名を割愛すると昭和歌謡、HIPHOP、アニソン、電波系、アイドル系もここで深めましたね。
音楽を一緒に聴く友がいると、自分の中の音楽はますます深く、面白くなります。そんな存在に僕もなれたらなあとか考えてます。

大学生としてのあり方を覚えた彼は教授にイジめられてゼミを変えたり、大学で初めての彼女ができたり、1週間で卒論を書き上げたり、なかなか書ききれない密度の濃い時間を過ごしました。
そして半期留年して秋、卒業しました。

就職はしてないし、バンドも散り散りになって動いていません。そして私はどう生きるのでしょう、、、

最後に、19歳の頃の自分とコラボして書いた曲、「花一華」をお聴き願いたい〜!
虐待に悩んでいる子ども。虐待された過去に呪われている大人たち。自分を含めて何か後天的な自分というものを信じられない人に向けて19歳の頃書いたのですが、後半の激しいパートの歌詞は22の私が書きました。
各種サブスクで配信されてますが、ここでは誰でも聴いていただけるようにYouTubeの方を。

では皆さん、あけましておめでとう。これからよろしくお願いします。

能登半島の方々の無事を願っています。

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