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遠くへ行きたい

物理的に遠くへ行くなら、ちょっとした気晴らしとか、旅行とか、思い切って環境を変えるとか。精神的に遠くへ行くなら、夢や願望、ネット上のやり取り全般。

物心が付いた頃から、当たり前のようにインターネットを触っている世代なら、ネット上のやり取りでも、距離をそこまで感じないのかもしれない。現実とは違う、という認識でさえも、VRやメタバースが普及すれば、どこかで崩れてしまいそうだ。

それらを現実逃避と言う人もいるだろうけれど、頭の中がゴチャゴチャして来たらそんなことも言ってられない。パンクする前にどこかに吐き出したり、発散したりすることが必要だろう。タイミングを逃し続けると、死が身近に感じられることがある。遥か遠くだと思っていたはずなのに。

生きづらさと死の関係は複雑だと感じる。直結しているかと思えば、死を遠ざけようとするからこそ、生きづらさが余計に際立つ場合もある。そんなものは何処かに置いてきた、という雰囲気で穏やかに過ごしているように見える人もいる。その人の視点でも、もっと落ち着いていたり、達観したり悟ったりしている人がいるのだろう。

生きづらいから死を求めるのか、生きづらさ自体が死から追い立てられているのか。考え込むとどんどん深い所にはまって行く。苦しい気持ち、逃げ出したい気持ちに、直に押されたり引っ張られたりしながらではあるが、その瞬間は向き合わなくて済む。考えるのに疲れて眠って、目が覚めたら仕切り直し。勝ってもいないけれど、負けてもいない。

自分の場合、考え続けたその先で、急に視界が開けるとか、穴を掘ったら反対側に出て来ましたとか、そういうものを期待している節がある。夢見がちを通り越してお花畑だと思うが、自分にせよ他人にせよ、そういう人を嫌いになれないのも本音だ。


遠い所を求めている。未来よりは死の方が近い気もするけれど、それもどこか納得しかねる。意地でも簡単に解釈したくないのか、結局何かにしがみついていたいのか。とにかく遠く、という表現が似合う。

記事を読んで頂いてありがとうございます。個人の見解なのはお忘れなく。