感情と読書体験
大人になると簡単には泣けないらしいが、私は割とよく泣く。偉人の業績で泣き、昔ながらの傑作で泣き、お坊さんの有り難い言葉で泣き。インターネットの悪い所は、望む情報と望まない表現以外なかなか入って来ない所だ。泣くようなものを一旦選ぶと、大体その流れに乗っている。
子供の頃、よく癇癪を起こしていた。ぼんやりとだけれど、どうしてわかってくれないのか、という気持ちが蘇る。情報としては正しいのに、周りから嘘つき呼ばわりされたことも思い出す。泣くと泣虫や弱虫と扱われるから、余計に取り乱したことだろう。悪い環境の部類かもしれないが、珍しい環境でもなさそうだ。
人間は感情の生き物だというし、理性で抑えつけるのは限界があるのだろう。抑えつける必要のない状況は最高だ。例えば独り静かに夜の寝床で、考えたり悶々としたり笑ってみたり、そういう環境は内向的な気分なら天国みたいなものだろう。不健康かもしれないが、何日引き篭もっても暇は潰せる。
他人との繋がりの中でも、そんな時間を過ごせる場合はある。もしインターネットだけでなく、対面でテンポの良いやり取りを交わせる知人がいるなら、かなり恵まれたことだと思う。年齢が離れていようと、お互いの思考・志向に共通する部分があれば、抽象的な話から雑談まで、途切れることはないだろう。
大抵の場合、他人との関わりの中では、よほど運が良くなければ、ストレスに晒されがちだ。インターネットの無い時代はそれが当たり前だったわけだが、数世紀も前、孤高の境地に達した人の中には、理性によって感情を統制することを目指す人達もいた。長い経験に裏打ちされたそれらは、示唆に富む。
当時の社会や権力構造を時に容赦なく糾弾しながら、現代でも通用するような普遍の処世術が繰り広げられ、堅めの語り口がむしろ小気味好いリズムに繋がっている。私は哲学については素人だが、知能の高低や脳の機能、生理学的な部分にまで認識が及んでいたことに驚く。
こういった本の良い所は、望みもしなかった有益な情報が転がり込んで来ることだ。自分の至らなさに対して、ガツンと強烈な一撃を喰らう度、大笑いで楽しんでいる。
電子書籍やインターネットでことが足りると考えていた、昔の自分に教えてやりたい。生の本には、書いた人の体温が宿っている。人の温もりに飢えているなら、熱量の高い名作から手を出せと。
記事を読んで頂いてありがとうございます。個人の見解なのはお忘れなく。