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テレビについて

昔はバラエティ中心によく見ていた気もするのだが、人間の嫌な面や薄ら寒さでも感じるようになったのか、徐々に見なくなった。興味があるものなら見るし、スポーツ関係の大きな試合はむしろ好きなくらいなのだが。

音や映像がやかましい、と感じるようになった気がする。垂れ流しの環境は辛い。神経質になっているだけだろうが、見る義務も無いのに目に入って来てぐったりされては、放送局側だって困るだろう。「嫌なら見るな」だ。

ふとした瞬間に、局ごとの色彩の違いを感じる。子供の頃は、画面が曇った局、色が濃いように感じる局、発色が鮮やかな局、というように区別して民放を見ていた。NHKはクリアかつ中庸という印象で、国営放送だし平均的なのだろう、くらいの理解だった。現在の放送だと、あまり差は感じない。さて、これに関して話している人を、身の周りで見たことがない。

詳しくない分野だし、単なる気のせい、局の機材に差がある、映像のやり取りの関係で変化している、とか色々考えられる。しかし、OEや脳の発達によって、一般的な「個人差」で片付けられないくらいには、認知に差があったのかもしれない。そう考えると、少し怖い気もする。

ありもしない、ありもしなかったような、曖昧なものを認知したり、恐れ過ぎると、生きづらさを呼び込む。繊細と言われる人は思う所があるかもしれない。テレビ程度なら実害は無いと思いきや、チャンネルを切り替える頻度が多いと、映像や音の変化がしんどい。改めて考えると、負担になる要素がたくさん転がっていて我ながら驚く。

客観的な事実と主観的な認識には開きがあって、意識の持ちようで現実の捉え方は変えることが出来る。広くそういう風に言われているからこそ、疑問を持つ部分もあるが、大抵一周回って、先人って改めてすごいな、となりがちだ。その考え方の経路自体、我ながら子供っぽいなと思う。昔から懲りない。

推理・推論能力とか創造力は、飼い慣らせる範囲なら役に立つと思うが、邪推や無闇な深読みが習慣になれば、本人にも周りにも負担になる。折り紙を折り直しても、前の折り目を綺麗サッパリ無かったことには出来ない。

心を簡単に新品に変えられたら、どんなに楽になることか。新品とまでは行かなくとも、それこそテレビのチャンネルを変えるように、手軽に切り替えられたら良いなと思う。書いてて気付いたのなら、切り替えて行けるはずだ。

記事を読んで頂いてありがとうございます。個人の見解なのはお忘れなく。