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映画『哭悲/The Sadness』感想~ゴア満載だけどコワくはない


 気が付くと1年が経っていたという事がいい大人になるとままある。ただ日々を消化するだけではいけない。そんなのゾンビと一緒だ。そうならないためにも意識的に季節感を取り入れていくべきなのだ。ということで夏らしくホラー映画を観に行くことにした。
 映像の過激さから様々なファンタスティック系映画祭で評価を得た台湾製ゾンビ映画『哭悲/The Sadness』。監督は今作が実写長編映画初挑戦となるカナダ出身で台湾在住のロブ・ジャバス。変異したウィルスに感染した者たちが狂暴になり襲い掛かってくるという新型コロナ以降を意識した世界観と、過激な人体破壊描写の数々が大きな特徴と言える。ただ他のゾンビものやモンスターが出てくるような映画との違いを考えると台湾の人々が何に恐怖を感じているのかが分かってくる。


 謎の感染症により人々が次々と狂暴になっていく病に襲われる台湾。どうやって感染するのか。いつ発症してしまうのか。あちこちで目を覆いたくなる様な光景が広がる中、ジュンジョーは街を駆ける。はたして彼は、彼女のカイティンと生きて再び会うことは出来るのか。


 本作の公開前、映像のグロさや過激さを売りにした宣伝がなされていた。どれほど過激なのか。ものすごく怖かったらどうしよう。怖いもの見たさと期待を胸に劇場へ向かった。
 正直に言えば、怖さはあまり感じなかった。というのも主人公ジュンジョーが直面する最初の惨劇でこの映画の温度感が測れる。この場面で楽しみ方のチューニングを合わせることが出来た。
 ジュンジョーが彼女のカイティンを駅まで送った帰り、飲食店に入りコーヒーを注文する。厨房のフライヤーではポテトを揚げているのだが、ポコン、ポコンと油が上がってくる。あまり熱そうには見えない。ついでに美味しそうにも見えない。普通ポテトを揚げる時、油は細かくパチパチといっているものである。するとそこにウィルスに感染し狂暴化した老女が現れ、店の中は大惨事になる。暴れる老女がポテトの油を店員に浴びせると、皮膚がドロドロに溶けていく。思わず笑ってしまった。なるほどこういう温度感ね。私の中でこの作品を楽しむ準備をすることができた。


 過激描写を楽しむスイッチを入れられたら、その後の通勤電車内での血みどろパートでのサービス満点具合に満足することができる。尖った傘の先端で眼球を突いて潰すところをハッキリと見せるというホスピタリティの良さ。首に突き立てたナイフから吹き出す血柱が電車の天井に達する様は実に景気が良い。文字だとキツく感じるかもしれないが、実際はそんなにショッキングではない。電車内が血で赤く染まる度に、こちらのテンションも高くなる。
 一方で「見せてくれない」シーンがあると少し萎えてしまう。ビジネスマン(そういう役名)が男の鼻を食いちぎるのは良いのだが、その頭に斧を振り下ろす場面。血しぶきが上がるだけで割れた頭は見せてはくれない。病院でボーンカッターを使って下半身を切り刻む場面でも肉片が飛び散るだけで少し寂しい。特に後半の病院パートでは、いろいろな器具を使ったおもしろ残虐大喜利が観られると思っていただけに肩透かし感は否めない。


 冷静に本作の楽しい場面を文章にすると自分でも大丈夫かと心配になる。グロ描写なら何でもかんでも手を叩いて喜んでいる訳ではないんですよ。ヤバい奴だと思われる懸念もあるので、言い訳と言うか、こういった作品を観るときの私なりの心構えみたいなものを書いておく。もしかしたらグロいものが苦手な人がそれを克服するヒントになるかもしれない。余計なお世話かもしれないが。
 例えば『ブルータル・ジャスティス』や『デンジャラス・プリズン‐牢獄の処刑人‐』のS・クレイグ・ザラー監督作品の暴力描写は過激で「本当に」痛そうだ。ザラー監督の作品は現実に即していて「ありえそう」なのだ。『哭悲/The Sadness』にも『ブルータル・ジャスティス』にも顔面に発砲するシーンが出て来る。『ブルータル・ジャスティス』の顔面発砲シーンはトラウマ級に嫌なシーンなので、もしこの場面でキャッキャ楽しんでいる人がいたらその人とは友達になりたくはない。
 楽しむべきかどうかはリアリティの線引きが重要で、それが現実に近いとシリアスになり、フライドポテトの温度が低いと現実から遠のいていく。そういう意味であのポテトの場面は私にとって大事な違和感だったのではないかと思う。
 分かりやすく言うと『トムとジェリー』でトムが上から落ちてきた鉄の塊にぺしゃんこにされても笑って観ていられる。現実ではないからだ。本作も、過剰なまでのスラップスティックコメディだと思えば楽しく観ることができるのだ。


 本作が他の同ジャンルの映画と少し違うのは、感染者たちが振るう暴力の中に「性暴力」が含まれている点だ。行為自体をはっきりと見せることはさすがにしていないが、人体破壊描写よりもよっぽど嫌な気分になる。血がいくら出ようが楽しめるのに、腰を振るゾンビが出てくると現実に引き戻されるような生々しさを感じる。腰を振っていた感染者が主人公に気付きケツを丸出しにして追いかけてくる様は、ギャグなのかよくわからない感情になる。
 それに関連して思わずグッときたシーンがある。物語中盤、生存者を見捨てて自分だけ逃げようとする男性のキャラクターが出てくる。身長は低く小太りで、スマホの壁紙を美少女アニメのキャラクターにしている彼。およそモテそうではないが、親近感はわく(女主人公のカイティンにスマホを見られ一瞥される感じがまた愛おしくなる)。おそらく童貞であろう彼が、感染者が押し寄せる病院内を逃げ回る。ある部屋の前を通り過ぎようとした時、彼は部屋の中の様子に釘付けになってしまう。部屋からは喘ぎ声が漏れ聞こえ、血みどろの感染者たちが大乱交に及んでいる。その様子をじーっと見つめる彼。その表情を結構な尺でカメラが映す。この「結構な尺」が彼の逡巡しているのを表現しているように感じた。何を逡巡しているのか。「どうせ死ぬならゾンビでもいいから・・・」と思っているに違いない。そう思ってしまうほどに切実なのだ。何だか愛おしくなってしまう。


 恐怖を描いた作品は同じように見えてもその根っこにあるものは製作者個人の問題意識やお国柄によって違ってくる。ジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』ではショッピングモールに大量に押し寄せるゾンビたちを大量消費社会への皮肉として観ることができる。日本の『シン・ゴジラ』は自然災害、3.11の恐怖と取ることができる。本作で言えばもちろん新型コロナの恐怖を描いてはいるが、感染者が性暴力に及ぶという設定にはつながらない。根っこにあるのは何か。さっきまで親しかった家族やご近所さんなど「隣人」が突如豹変し、襲い掛かってくる。しかも性暴力も辞さない。台湾人が何を怖がっているのか分かる気がする。


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