私は運動ができない#1
子供のころから私は運動ができなかった。
小学校3年生くらいの頃、母から自転車の練習をするようにいわれた。
母は兄が乗っていた子供用の自転車に、赤と白のペンキを塗って、私の自転車へとリニューアルをした。
自転車の荷台の横を母が持ち、私はぐらぐらとした自転車のペダルを漕いだ。母が手を離すとすぐに自転車は倒れ、私は地面に足をつけた。
毎日30分くらいは練習をしていたような気がする。
すぐ近くの空き地で練習をしていたのだが、1週間を過ぎても私は自転車に乗れなかった。
「いつまでも自転車の練習をしている姿を人に見られるのは恥ずかしい」と母は言い、母と私は夕食が終わったあと、歩いて10分ほどの小学校まで自転車を押していき、誰もいなくなった小学校の運動場で自転車の練習を始めた。母が手を離すと自転車はすぐに倒れ、私は自転車に乗れなかった。
10日経ち、二週間が過ぎた。
私は自転車に乗れなかった。
母は怒りながら私の乗る自転車の荷台の横を持ち、自転車が倒れるたびにまた怒り、私は泣きながら自転車の練習をし、怒っている母の隣で泣きながら自転車を押して家に帰っていた。
母は家に帰ったあと、怒りが収まらずに「いつまでたっても自転車に乗れんのや」と兄に私の悪口を言い続けていた。
この頃になると、私自身、なぜ自転車に乗れないのかを理解するようになっていた。自転車に乗るにはバランスが大切で、私の場合はバランスが取れていない。理由は母が荷台の横を持っているから、その時点ですでに、バランスは母の方に傾いている。そのため、母が手を離すとバランスはすぐに崩れてしまい自転車は倒れてしまう。
端的に言えば、私が自転車に乗れないのはお母さんのせいだ。
しかし、ただでさえ怒り狂っている母にそんなことは口が裂けても言えない。
ある日、私の自転車の練習に兄がついてきた。
母が荷台の横をもち、私が自転車の練習をする様子を見て兄が言った。
「お母さんが横を持っているから乗れないんじゃない?荷台の後ろを持ったらバランスがとれて乗れるんじゃない?」
そうだ、そうだ、兄ちゃんはいいことを言う。
兄のアドバイスを母は受け入れ、母は私の自転車の荷台のうしろを持つようになった。
母は自転車を毎日押して帰るのが面倒だ、と運動場の隅っこに自転車を置いて家に帰った。
私はふらふらと少しづつ自転車に乗れるようになった。
自転車の練習を始めてから1カ月くらいたった。
自転車に乗れるようになったから、今日は自転車を家に持って帰ろうと言いながら母と私は運動場に行った。しかし、そこに自転車はなかった。砂場の近く、倉庫の裏、銀杏の木の近く等、あちこち探したけれど自転車は見つからなかった。
私は母と一緒にとぼとぼと家路を歩いた。
それからしばらくして、私たちは隣町の夜市に出かけた。
夜市の商店街で母は自転車屋を見つけ、その店に入っていった。
中学生になっても乗れるような自転車を母は希望した。
店の人は、今の時点では自転車に乗ったとき私の足が地面につかないと言ったが、母はこの子は学年でも背が高いほうに入るし、すぐに大きくなるからと足が地面に届かない自転車を買った。
翌日、自転車は家に届けられたが、私は自転車に乗れないし乗らなくなった。
私はピアノ教室やそろばん塾へ片道30分くらいかけて歩いて通った。
ある時、カバンを持って歩いていると、自転車に乗った同じクラスのタケダくんが私の顔を見て、ブレーキをかけ自転車を止めた。
「どこに行くん?」
「〇〇のお寺の隣でしているピアノ教室」
「あんなとこまで歩いていくん?なんで自転車に乗らんの?」
「自転車が壊れた」←嘘
「へぇ...。そうやって歩いていると走るのが速くなる」
そう言いと、また自転車に乗り去っていった。
私は走るのも遅かった。
小学校のマラソン大会の日、タケダくんが私の傍に来て言った。
「3番目くらいに速い奴の後をずっとついていったらいい。初めから後ろの方でいたらもう前にはいけなくなる。腕は前と後ろにまっすぐ振ること」
私はタケダくんの言うとおりにした。
最初から前の方で走っていてもやっぱり後ろにさがってきた。半分くらいの距離を走って折り返し地点を過ぎた頃、私にはまだ力が残っていることに気がづいた。
2人抜き、5人抜き、何人もを抜いて私は大股で走った。
私はまだまだ走れる。
道の端で先生が立っていた。
「あれっ、速いな」
先生が私を見ていった。
私はそのマラソン大会で上位何名かに入り、賞状をもらった。
タケダくんの言ったことは正しかった。
そして私は中学生になった。
1年生の1学期の懇談で先生はクラスの成績分布表を見せながら説明を始めた。
「1番ていうのはなかなか取れるもんじゃないんです。取ろうと思って努力してもなかなか1番はとれないと思うんです。1番を取るのは難しいと思うんです」
分布表の一番上の点数「95-100」人数「1」に〇が付いていた。
中間期末を通して私は数学が1番だった。
「どべ(びり)っていうのも普通の人間はとろうとも思わないし、なかなか取れないと思うんです。普通の人間がどべをとるのは難しいと思うんですよね」
分布表の一番下の点数「25ー30」人数「1」に〇が付いていた。
保健体育のペーパーテストが私は最下位だった。
私は自分がどべだったことよりも、自分以外全員の頭の良さに感心していた。
先生は話をつづけた。
「僕も教員になって長いんですが、1番とどべを同時に取った生徒は初めてです」
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