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TOKYO BIZARRE CASE(第二十五話)最終話

Ψ
 空の青さにたじろいだ。顔の上に掌で、ひさしを作った。
 天蓋然と頭上を覆う森の木々は、隈取くまどり濃い影を地面に落として、森と砂浜との間に、彼岸ひがん此岸しがんの境界めいた線をくっきりと焼きつけている。我知らず、和泉は足を踏み出すのをためらった。
 雲ひとつない蒼穹はどこまでも高く、高すぎてかえって奥行きを失っている。じっと見ていると眩暈をもよおしそうな、のっぺりとした青。中ほどには太陽が白熱している。その陽射しをまともに反射して、足元の砂浜もまた白く輝いている。
 沖の岩礁まで続く内海のコバルトブルー。右手から迫り出した岬の濃緑。すべてが鮮やかに彩られた世界。
「どうしたの?」
 隣りに水城が立った。黄色い水着に白いヨットパーカーを羽織った水城は、美しい眉をわずかにひそめたが、行きましょうと、すたすたと森から浜辺へ降り立った。つられるように、和泉もそれに倣った。
 ひんやりと素足に心地よい土の感触が、焼けた砂のざらざらしたそれに変わる。たちまち氾濫する光の奔流に晒される。眼底が鋭く射られた。赤い残像が瞼の裏に奇妙な図形を画いた。
 十数えてから、恐る恐る、目を開ける。すでに水城が、すらりとした肢体を汀で遊ばせている。
 日本から数時間。南海の孤島ホロボに、和泉はやってきたのだった。
 取り立てて理由があったわけではない。ただあの時、岡崎に聞いた話の印象が強烈に残っていた。件の連続傷害事件は、結局、犯人の陰すらつかめないまま、捜査本部が縮小されてしまった。
 ようやく加藤から離れられた和泉は、一週間の休暇を申し出た。自分でも信じられない行動だった。
 全てにおいて男性以上にやらなければ、それだけで何を言われるか分からない〈会社〉に和泉は所属しているのだ。ましてや長期休暇など。いや……。
 理由がない、と思ってはいるが、そうではないのかもしれない。
 ここに来なければならない。その確信は和泉をとらえて放さないのだ。
 不思議だったのは、休暇の話をすると水城がついていくと言い出したことだ。南の島なんて、まるきり興味がなさそうなのに。
 熱い砂を踏んで、波打ち際へたどり着く。
 水は温かく、驚くほど澄んでいた。足元に巻貝の貝殻が顔を覗かせている。
 沖へ向かって、海の青は濃くなっている。打ち寄せるさざ波が和泉の踝を包み、引き潮が足の下の砂を、和泉ごと連れ去るように深い底へと引き摺り込んでいく。
 誘われるように、和泉は水に入っていった。
 水泳は昔から得意な方だった。房総の祖父母の家にいた頃、近所の海で泳いでいたものだ。
 腰までの深さになったところで、頭を浸け、水を掻いた。
 最初はゆっくりと顔を出したままで泳ぐ。喩えようもない心地よさ。すべすべした水の感触を充分楽しんでから、クロールに切り替える。今度は全速力だ。全身のばねを使い、力一杯手足を動かす。
 子どもの頃のように、自分が水棲動物になった姿をイメージしてひたすら泳いだ。気持ちよさと苦しさのぎりぎりの際で和泉は力を抜いた。しばらく惰性で水面を滑った。慣性の尽きたところで水面に顔を上げる。立ち泳ぎで、海岸を見遣った。
 砂浜は白い帯となり、水城の姿が人形みたく小さくなっている。随分泳いできたようだった。入り江の外に出てしまっている。だが海は凪いで、穏やかだった。ちゃぷちゃぷと波が音を立てて和泉を上下させる。
 顔を天空へ向け、目を閉じる。瞼が赤く透け、真上の太陽を感じさせる。
 ふと何かが和泉の顔を上げさせた。
 左手の岬へ目を向ける。自分でもよくわからない無意識の動きだった。ごつごつした岩場の突端に、人影が見えたような気がした。
 あれはーー? 
 人影があの少年に重なり、和泉は目を凝らした。が、わずかか一瞬の後に、影は幻のように消え去っていた。白昼夢にでも捉えられたかのような心持で、和泉は目を瞬いた。
 海を渡る風が、優しく頬を撫でた。

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