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TOKYO BIZARRE CASE(第十一話)

Ω
 シャッター/フラッシュ。
 慌ただしく担架が、救急車に吸い込まれていく。ファインダーはそれを追っていた。
 事件は繁華街で起こった。
 ちゃちな喧嘩は、すぐにエスカレートして、片方の少年がもう片方の少年を小さなナイフで刺した。
 若水徹は、偶然通りかかったのを幸いに、その一部始終をカメラに収めたのだった。
 アスファルトには、生々しい血だまりがまだある。最後にそれを撮ると、徹はその場を後にした。
 報道カメラマンを目指す徹ーー今は写真の専門学校に通っているーーからすれば、悪くないシャッターチャンスに違いなかったが、心は沸き立たなかった。
 それもこれも、あれを撮ってしまって以来だ。
 徹は、ポケットからその写真を取り出した。
 街を歩く若い女。その全身のスナップ写真。だがそのうちの一枚に、奇妙な影が映っている。足元に白い靄のような不可思議な影。そして次の一枚では、女の足首が消えている。三枚目になると、すでに女の足首から多量の血が噴き出している。
 一時期、巷を騒がせた連続傷害事件の、決定的な瞬間をとらえた写真だった。
 徹がこれを撮ったのもまた偶然だった。だが徹はこれを警察に届けなかった。届けても捜査の役に立つとも思えなかった。また役に立つ気もなかった。
 この街には何かがいる。
 そのことが、ぞくぞくとした快感を伴って徹を刺激した。
 徹は自分の運を信じていた。これまでも、様々な事件や事故現場に出くわしていた。自分はそういう星の下に生まれたのだと、疑わなかった。その信念がはっきりと伝えていた。
 こいつにはまた会うことができる。
 それは確信に近い感情だった。
 
Ω
 遠雷が。
 ドロドロと虚空のどこかから押し寄せる轟きが、この世界を揺さぶる。君はそれを感じないか。ひたひたと気づかぬうちに、ぬばたまの闇とみまごう黒いしおが満ちるように、それが忍び寄っていることに。
 ーー破滅が。
 どこかから? 虚空とはどこのことだろう。それを君は知ることが出来ない。それがやってくるのは、世界の裏側からなのだ。

***
 濡れたアスファルトを照らして、赤色灯の毒々しい光が明滅している。和泉が到着したときにはすでに、現場の周りに、ちょっとした野次馬の壁が出来上がっていた。
 午前零時半。目黒区。住宅街の真ん中、細長い公園の脇には、鑑識も含め、数台の警察車両が停まっている。頭を下げ、人込みを掻き分け、どうにか前へ出た。
 現場保存用の黄色いテープの前には、制服組がふたり、無表情に辺りを睥睨している。
 敬礼に目で返す。車止めの鉄柵をよけるのがもどかしい。
 雨上がりの夜気は、昼間の暑気をぬぐって少しだけ、ひんやりとしている。砂の敷かれた園内には、ぬかるみが点在していた。今夜はーーいやもう昨日かーー夕立があったのだ。それをよけながら、青いビニールシートの張られた一角へと向かった。
 晧晧こうこうとしたライトの下、築山や滑り台やブランコが、奇妙なオブジェのように浮かび上がっている。遊具たちの奥には、密生した樹木が、不気味な影法師となって立ち並んでいる。
 緑地を従えた公園の敷地は、思いのほか、大きいらしかった。
 顔見知りの捜査員と立ち話をしている、加藤の姿を認めて駆け寄った。加藤は冷たい一瞥をくれただけで、こちらを見ようともしない。先日、運転中に迷惑を掛けたこともあって、さすがに和泉も嫌な顔はできない。
 現場はコンクリートに囲われた、砂場の傍だった。濃紺の活動服姿の鑑識係員が、しゃがみ込んだり、カメラのフラッシュを焚いたりと、せわしなく採証作業に動き回っている。
 和泉は、遠目に現場を覗き込んだ。一見、周囲の水溜りと変わらないように見えたそこは、注意深く観察すると、どす黒く汚れ、その禍禍しさに和泉は少し気分が悪くなった。血溜まりだ。
 四人目の犠牲者が出た、という連絡が入ったのは、実りの少ない捜査会議があけて、ようやく家路を辿り始めた矢先だった。
 ちょうど和泉の使う私鉄沿線で発生したのだと告げられ、途中下車して現場に急行した。
 改札口を抜け、明りを落とした商店街を急ぎながら、和泉は、ざわつく胸を必死に抑えた。
 また、出てしまった。もちろん新しい被害者が生まれたことが即、和泉たち捜査員のせいというわけにはならないだろうが、被害の拡大を防げなかった、という忸怩たる思いは拭えない。
 捜査は完全に行き詰っていた。捜査員たちの上には、焦りと疲労が積もっていた。和泉も眠れない夜が続いている。だが、眠れないのは捜査状況のせいばかりではなかった。
 ここ数日、目を瞑ると、きまって夢を見るのだ。内容は覚えていない。だのに、起きると不快な汗をびっしょりとかいている。よくない徴候だ。
 “窓”から流れ込む不吉な気配は、日増しに酷くなっている。単なる予兆を越え、それは既定の事実として、和泉には感じられる。桁違いだ。桁違いによくないことが起こる。
 気がつくと、係長が公園の一隅に捜査員を集め、ブリーフィングを始めていた。これから人手を分けて、聞き込みを開始しようということだった。深夜なので本格的な捜査は明日以降になるだろうが、現時点で、出来るだけ多くの情報を集めておきたいということだろう。
 和泉は加藤とともに、公園の周囲をうろついていた男の事情聴取に回ることになった。
 築山の麓で制服組に挟まれていたその男は、バイト帰りの自称フリーターで、公園を横断しようとしたところを取り押さえられたのだが、聞けばすぐ裏手の家の住人で、どうやら度の過ぎた野次馬ということらしかった。
 しおらしくなるどころか、俄然、和泉に興味津々の若者を完璧に無視して、必要事項を一つずつつぶしていると、またもや加藤がふらりとその場を離れていった。
 もはや何の感慨もなく、横目にそれを見遣ると、質問を続ける。厚かましくも電話番号を聞き始めた若者に、どう一喝してやろうかと思案していると、背後の木立から声が上った。
 ーー悲鳴?
 振り返り、あたりを見回す。若者を捕まえた制服警官も、忙しげに立ち働く同僚達も、気づいた者はいないようだった。気のせいか……。再び手帳に目を落としかけて、思い直した。
「ちょっと、彼を見ていて」
 若者を託すと、和泉は背後に広がる緑地へと足を踏み入れた。こういうときの自分の直感を、和泉は信じていた。誰も耳にしていなくても、確かに自分には聞こえた。いや入ってきた。
 ほんの数メートル木立に分け入っただけで、急に闇が濃くなったようだった。いずれ明るくなれば、ここにも鑑識が入るだろうから、あまり踏み荒らすのはまずい。頭の隅で冷静に判断する自分がいる。
 つま先立つような心持ちで、そろそろと歩を進める。と、前方奥、疎らな木々の合間に、グレーの色が見える。
 あれはーー加藤のスーツだ。距離を保ちながら、グレーの周りを回った。回りながら近づいていく。加藤がーー斜面に腰掛けるような体勢で、仰向けに横たわっていた。
「加藤さん?」
 声が掠れた。駆け寄りかけて、和泉は固まった。加藤の足元で、何かが蠢いていた。
 巨大な蜘蛛ーー。連想したのはそれだった。だが果たして、こんな蜘蛛が存在するのだろうか。大きさは猫や子犬ほどもあり、ウニのように黒く、突き出た何本もの足が、もぞもぞと蠕動している。そのおぞましさは蜘蛛の比ではない。
 声にならない声を振り絞った。
 すると変化が起こった。醜悪なそれが、びくり、と身震いをした。和泉の声はすでに掠れ、悲鳴とも鳴き声ともつかないものへと変じている。その声に耐えかねたように、加藤の身体に這い上がりかけていたそれが、もぞもぞと方向転換をすると、加藤の体から離れた。そして、あっという間に木の下闇へと溶け込んだ。
 和泉はーー呆然と立ち尽くしていた。
 下草を踏むかすかな音で、我に返った。
 奇怪なモノが消えたのと同じ方向にーーふいに人影が現れーー和泉へ向かって足を踏み出した。後ずさりしようとしたが、地面に縫いつけられたように動けない。
 暗がりから姿を現した影は、異様な風体の人物だった。
 Tシャツにショートパンツという両手足が剥き出しの格好はありきたりながら、目を引くのは、全身にまとわりつく紋様だ。蔦が柱に絡みついたようなそれから、無理やり目を引き剥がす。褐色の肌、黒い髪。手には、長い槍のような銛のような棒を携えている。
 ほっそりとした体躯の上に乗った顔は、驚くほどあどけなかった。影ーー少年は、静かな眼差しを和泉に向けた。
「〈大口ンチャヌ・グイ〉の吐き出す息のせいでーー〈小さな影チョム・ド〉が湧いて出たようです。〈小さな影〉は〈大口ンチャヌ・グイ〉の眷族で、主と同じように、人の負の力を好みます。その人は、危うく〈小さな影チョム・ド〉にかじられるところでした」
 少年が口を開いた。日本語だった。
 加藤を指して言う。
「アナタのお陰で、その人助かりました。アナタには、〈砂女カンヌプ〉と同じ、“祓う”力があるようですね」
 何を言っているのか、さっぱり分からなかった。にも関わらず、その言葉は、忌わしい音として、和泉の心に刻み込まれた。
 ンチャヌ・グイ。
 それに少年の真摯な言葉は、どこか聞く者を引き込む力がある。真実の持つ力。
 少年が眉をひそめた。
「どうか気をつけてください。アナタ、引き寄せられていますーー」
「本城さん?」
 名前を呼ばれて、呪縛が解けた。振り返る。残してきた制服警官が、懐中電灯を手にやって来ていた。
「あそこに……」
 ようやく声が出せた。
 和泉が再び視線を戻すとーーそこにすでに少年はいなかった。

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