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TOKYO BIZARRE CASE(第二十一話)


 黒々とした東京湾の水をかきわけ、巨大な影が夢の島からお台場へと接近しつつあった。
 歪なヒト型の巨人は、バラバによって駆動させられているゴーレムだ。ヘブライ語で「胎児」を意味するこの怪物を、バラバは夢の島のスクラップを材料にして造り上げた。金属と埃と土、それにプラスチックを少々。
 ゴーレムの左肩に乗るバラバの傍らには、真っ直ぐな瞳のマリア。口元はいつになく厳しく引き締まり、蒼ざめた頬は冷たい海風のせいばかりではあるまい。
(ーー死なせたくない。)
 バラバは痛切に思う。
 この世界に、命を賭けるに値するものがあるとするなら、バラバにとってそれは、マリアだけだった。
 こんな薄汚い街など、どうなってもいい。こんな世界など、どうなってもいい。いやこの惑星すら、宇宙の藻屑になってのいいのだ。
 だが、マリアだけは。
 彼女だけは救いたい。救わなければならない。
 ゆえに。
 この戦いには勝たなくてはならない。
 だからこそ、あの少年を呼びつけたのだ。バラバにとっては、少年も駒のひとつにすぎない。
(ーーたのむわよ、クリス。)
 毎度おなじみ “クリス・ローランドのズバリ当てちゃう奇跡予報”によれば、今宵の発生確率は八十三%、かなりの高確率だ。
 ザブザブという水音に邪魔されながら、何とかマリアの叫びが聞き取れた。
「あそこ!」
 出現予測ポイントが姿を現した。

α
 広大な渺漠びょうばくたる薄明の世界の中に、黄緑色の鬼火が瞬いた。
 現実世界の距離に直すとまだまだ遠いが、少年はズームアップしたカメラのようにそれを認識し、警戒を強めた。
 いま世界は少年に向かって閉じ、少年は世界へと向かって開いている。濃いスモークガラス越しに外を覗いているような、くすんだ灰色の視界。灯りもビルも人も色を失い、モノトーンに沈んでいる。水中のような、きいん、とした音がずっと耳を圧している。〈界面下〉へと感知野を広げた少年に、世界はそう映っている。
 集中し研ぎ澄ませながらも、意識をひとつところに留めぬこと。それが今の少年に求められていることだ。
 おのれを一個の目に代えるのだ。ここは故郷の海とは異なる。自然に自らを溶け込ませ、一体化させることが出来る場所ではない。もっと冷たく、暗く、恐ろしい場所なのだ。
 黄緑の鬼火は、蒼白い光や闇に混じる深い紫へと次々と姿を変え近づいてきている。〈大口〉が眼前のビルにある〈巣〉へと向かって還りつつあるのだ。
 ある種の熱帯魚は、身が透明で、内臓がすけ、骨が蛍のように光るという。〈大口〉は、ちょうどそんな状態で少年に認識されている。
 島の〈砂女〉オボ特製の〈白粉〉は、潜水艦の魚雷の弾頭に装填され、首尾よく〈大口〉に命中したようだった。ちろちろと炎が舐めるように容《かたち》を変えながら、〈大口〉の中身が見え隠れしている。
 たっぷりと〈大口〉に振りかかった〈白粉〉は、容赦なく彼奴を染め上げ、お陰で〈大口〉の姿は、真白い布に落ちた鮮血のように丸見えだった。
 〈大口〉は慎重に距離を縮めているようだった。
 もっと引きつけなければならない。気配を消し、じっと待つ。確実に仕留められる、少年の射程圏内に入るのを。
 そのためにーー。
 少年は頭に捲きつけていた布をそっと外した。これ以上、こちらが〈界面下〉に潜っていると、逆に〈大口〉に感づかれる恐れがあった。深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちらを覗いているからだ。ここからは直感だけが頼りだ。
 おじいを信じる。自分を信じる。
 それが、少年にできるすべてのことだった。


 濃い靄の立ち込めた首都高速を、一台のRV車が疾走していた。
 ヘッドライトに照らされた白い粒を渦巻きにして、その車はいっさんに、お台場方面に滑っていった。
 おかしな夜だった。夕方過ぎから漂い始めた靄は、あっという間に都心をすっぽりと包んでしまった。気がつくと服や窓や壁にびっしりと貼りついている細かい水滴は、実にただの気象現象に過ぎないはずなのに、蟻の群体ーー個々に活動しながらも、集まるとそれ自体が意志をもった一個の生き物のように蠢きだすーーを思わせた。
 多くの人々は、得体の知れない不安を感じていた。これといった理由などないのに、どことなくそわそわと落ち着かない。何かに圧迫されているかのように胸苦しい。
 早く帰れる者はそそくさと家路に着き、そうでない者も、気もそぞろで仕事や遊びに集中できずに、やはりしばらくすると諦めて三々五々散っていった。
 首都高速も深夜に近い時間とはいえ、いつもならもっと沢山の車が行き交っているはずであるのに、擦れ違う対向車は疎らだった。
(ーー人の死に絶えた街を走らせているようだ。)
 八咫坊は胸の中でそうひとりごちる。
 二日間、隠れ家で息を殺し、車に乗り込んだ。
 助手席には相変わらずごてごてとした機械。その前にちょこんと腰掛ける小柄な影があった。
 玄海は黙祷するかのように、目を閉じてじっと動かなかった。
 機械には微かな反応しかなかった。ぼんやりとした弱々しい光点がひとつところからまったく動かない。〈深度〉の数値も同じ。不気味だった。彼奴はすでに、東京にいないのではないか、そんな不安に駆られる。だが、玄海はそれを否定した。
「彼奴は間違いなくここにおるよ」
 そう言って玄海は、ここひと月の内に、都内で散見された出来事を話して聞かせた。驚くべきことだった。何者かがーーこの都市に強力な結界を敷いているのだ。
「おそらく彼奴は結界を避けて、どこぞに潜り込んでおるのじゃろう。深く、深く、な」
 道路を照らす黄色い明りがぼやけ、滲み、それが玄海の横顔を死人のように暗闇に浮かび上がらせていた。
 ふと何気ない調子で、八咫坊は尋ねた。
「なあ……俺を造ったのは、アンタか?」
 わずかな逡巡のあと、玄海は、せや、と肯いた。
 靄はますます濃くなり、壁のように立ち塞がっている。順調にとばしているはずだのに、スローモーションの中にいるような、あるいは重い液体の海をかき分けているように感じられる。
 しばらくして、今度は玄海が口を開いた。
「何故、とは問わんのか?」
「もうーーいいさ」
 実際、自分でも不思議なほどだった。固く重く凍りついていた心の中の芯のようなものが、この事件以来、ゆるゆるとほどけているのを感じていた。言葉にはしづらい、なんとも奇妙な感覚。あるいは、言葉にしてしまうと、永遠につかめなくなってしまう感覚。
 それは、真実を語ってくれた玄海のおかげかもしれないし、おのれの宿命に淡々と向き合っているような少年を見たからなのかもしれない。
「月並みじゃが……お主は、わしの子も同然。それだけは確かなこと……」
 八咫坊は答えなかった。
 ただただ前だけを見ていた。
「もうすぐじゃ」
 危うく見落とすところだった。促されてはじめて、車が台場出口にさしかかっていることに気づいた。
 素早く、しかし慎重にステアリング・ホイールを切る。より深い靄の海へと沈んでいく。
 一般道へ降りるにつれ、靄はさらに濃度を増していった。底なし沼に沈殿する汚泥おでいのように。
 街は首都高同様、死んでいた。普段なら大勢の若者で賑わうエリアであるのに、極端に人影が少なく、時折通り過ぎる影法師は周囲に拡散して、ブロッケン山の怪物のよう。ビルの窓まどの明かりが所々歯抜けになっているさまが余計、廃墟じみて見える。
「適当に流しておくれ」
 玄海の指示に従って、八咫坊は回遊する鯱のように、RVを泳がせた。静かだった。人も車も建物も息をひそめ、様子を窺っていた。待っているのだ。決定的な何かが起こるのを。だがそれは何だ?
 ステアリング・ホイールを右へ左へと回すうち、八咫坊は身体に変調を覚えた。
 呼吸が段々と苦しくなってきた。まるで身の回りの酸素が徐々に薄くなっているようだった。パクパクと魚のように口を喘がせる。車は異形の機械のせいで空調が利かない。舌打ちすると八咫坊はウィンドウを下げた。
 白い粒子が流れ込んできた。嫌な気分だった。白い粒子に肺が穢されていくような嫌悪感が八咫坊を襲う。
 ーー?
 鼻をひくつかせた。淀んだ夜気に、魚の腐ったような生臭い臭気が混じっていた。初めほんの微かだったその臭気は、次第に強まっていくようだった。
 不意に目の前に影が飛び出してきた。
「ちぃっ!」
 咄嗟にブレーキを踏んだ。
 甲高い、悲鳴のようなブレーキ音が、しじまを切り裂いた。
 慣性で体が前傾する。一瞬にして全身が冷える。車はケツを蹴り上げられたようにつんのめって止まった。フロントにぶつかった感触はなかった。たちまち我に返る。サイドウィンドウから顔を出した。
「バカヤロウが!」
 ドスを利かせて怒鳴った。筋者でも尻尾を巻いて逃げ出すほどの恫喝だ。
 が、八咫坊の道間声にも、立ち尽くした影は反応しなかった。一見して、ごく普通のサラリーマンと思われる二人連れだった。一人は四十がらみで、もう一人は二十台の前半といったところか。ふたりとも何の変哲もないダークスーツにネクタイ姿だ。
 だが明らかに様子が異常だった。
 連れ同士であろうに、まったく別々の方角に顔を向けているのはともかく、たったいま轢かれそうになったというのに、まるで車になど気づいていない様子だ。
 八咫坊はドアを開けて、外に出た。顔を顰めた。
 例の臭気は、もはや耐え難いほど強くなっていて、いっそ瘴気しょうきとでも呼びたくなるほどに凝集されていた。身体中にまとわりつくそれは、ほとんど液体の中に浸かっているような粘度を帯びている。
 そっぽを向いている若い方の肩を掴む。乱暴にこちらに向きあわせる。言葉を飲み込んだ。
 これほど虚ろな目を見たことがなかった。仮面のように何の感情も映していないそれは、顔面に穿たれた二つの空洞だった。八咫坊を見ているようで、まったく別の世界を覗き込んでいる。顔は幽鬼のように青褪め、半開きの口からは、グボッ、グボッという厭らしい呼気が立て続けに漏れている。
「おい」
 声を掛けた八咫坊の見る間に、男の目が吊り上った。人間にこんな表情が出来るのかと思えるほど獣じみた顔つきだった。裂けんばかりに開かれた男の口腔が、変に赤黒い。
「しゃーっ!」
 奇声を上げ、男が八咫坊に襲い掛かった。かわしざま八咫坊は、男の延髄に手刀を叩き込んだ。もんどりうって男は倒れた。ごぼり、と音がしたのはその時だった。それが、もう片方の中年の口から発せられたものであることに八咫坊は気づいた。
 四十男の目は完全に裏返っていた。がくがくと、壊れた人形みたく身体が震える。八咫坊が歩み寄るより前に男はぴたり、と動きを止めた。
 グボッ。ぽっかりと開いた口から大量の吐瀉物が噴き出した。ゴボッ。ゴボッ。ゴボッ。立て続けに男は何回もえずき、その度に汚物は溢れ出した。
 身体中の水分が無くなってしまうほど出しても終わらず、しまいには地面に両手をついて吐き続けたまま、吐瀉物の海に顔を沈めて男は動かなくなった。
「彼奴の影響がこれほどまで及んでいようとはーー」
 いつの間に降りたのか、傍らで玄海が言った。瘴気はますます濃く、強まっている。
 ふらふらと揺れながら歩いてきた女が、奇声を上げ、倒れた。まるで映画の、生きている死体の街みたいだった。
「どうなっていやがる」
 八咫坊がひとりごちたとき、それはふいにやってきた。瞬時に皮膚が泡立った。
「来よったぞ」
 玄海が呟いた。言われなくても分かっている。八咫坊の胸元が光り輝いた。首から下げた〈鏡〉が、明滅する。八咫坊は振り返り、車の中を覗き込んだ。助手席の機械が点灯していた。モニターが眩い光を放った。数値が目まぐるしく変化しているのだ。〈距離〉は変化がない。激しく変動しているのは〈深度〉だ。
 ーー真下だ。
 八咫坊は思わず足下を見下ろした。凄まじいスピードで〈界面下〉から彼奴が浮上しつつあるのだ。……69…68…67…。モニターに現れた光点がどんどん大きくなっていく。針で開けた傷から血が滲んでいくように。……45…44…43…。みるまに光点はモニターを覆わんばかりに成長した。
 でかい。でかすぎる。ひとつのビルがすっぽり入るほどの大きさだ。いや、街そのものが飲み込まれるのではないか。
 びしり、と音がした。〈聴妖鑑ちょうようかん〉の鏡面に、斜めの亀裂が走っていた。
 汗が冷える。ドアを開けて、車に乗り込む。助手席に玄海が着いたのも確認せずに、アクセルをベタ踏みした。……35…34…33…。
「無駄じゃ、止めろ!!」
 玄海の言葉を無視する。
「やめい! 走っても逃げ切れん!!」
 玄海が運転席のほうに身を乗り出してステアリング・ホイールを掴み、強引に切った。視界が急激に入れ替わった。
 テールランプが尾を引いて流れる。遠心力で身体がドアに押し付けられる。衝撃。目の前が深紅に染まった。気を失いはしなかった。すぐに目を開く。空中に張り巡らされた遊歩道の下、車は街灯に横腹をぶつけて止まっている。
 カウントを追う。……10…9…8…。
「屋根だ!」
 ドアを蹴破るように外に出る。車の屋根に飛び乗った。
 どこからか、どろどろとした轟きが押し寄せてきた。……4…3…。玄海が叫んだ。
「飛べ!」
 二人の脚が同時に屋根を蹴った。両腕を羽のように広げ、脚を縮める修験者の烏飛からすとび。
 同時に玄海が高速でり祈祷を行う。
 見えない手が持ち上げたように、二人は浮かび上がった。役行者も使ったといわれる〈飛天の術〉だ。
 それが訪れたのはその直後だった。目に見えない力が、草原を渡る風ように地表を波打たせて駆け抜けた。
 道路の左右でビルの窓ガラスが瞬時に、内側に砕け飛んだ。歩道橋が軋みながらゆっさゆっさと揺れる。
 二人はさらに中空を駆け上がる。ベキッ。八咫坊の足下で、RVにありえない変化が起こっていた。まず屋根が凹んだ。次に左右のドア、シャーシ。内部の気圧が急激に下がっていったみたいに、車の骨格が内側へ向かって、みるみる潰れていく。
 ベコッ。グシャッ。ボコッ。ボンッ。
 萎れた風船のように変形した車は、ついに耐え切れなくなって火を噴いた。立ち昇った黒煙が、八咫坊と玄海の身体を捲いた。
 図らずも格好の位置だ。
 八咫坊は宙で不動明王印を結び、気合い一声、圧縮された真言を唱えた。
 白く巨大なくちなわにも似た光の鎖が、大地から天に向け、何条も湧き上がった。それらは、ぶくぶくと泡立ち始めた地上の闇に絡みつくと、たちまち緊縛し、さらに、ギリギリと厳しく絞り上げた。
 〈不動金縛りの術〉。悪魔や怨敵を、不動明王とその眷属の力を借りて縛り、滅ぼす調伏法だ。
 ぶよぶよとした不定形のモノが、縄目から抜け出そうとはみ出した。
「させるかよっ!!」
 さらなる陀羅尼をじゅする。獣の唸り声めいた、荒々しい陀羅尼だ。
 完全に潰された車を破り、中から三体の鬼火が飛び出した。チロチロと燃える紫色の焔をまとった凶悪な呪霊じゅれい〈外法頭〉。その〈外法頭〉たちが、蛮声ばんせいをあげ、牙をむき出しにして、闇に襲い掛かった。
 おぞましい光景だった。
 〈異形のモノ〉たちが、〈闇〉を喰らっている。
 〈それ〉はぶるぶると身を震わせ、逃げだそうともがくが、そのたびに八咫坊の〈不動金縛り〉が締めつける。
「しめよ、しめよ、金剛童子! からめよ童子! 不動明王正末しょうまつ御本誓ごほんぜいを以ってし、この悪霊をからめとれとの大誓願だいせいがんなり!!  からめ捕りたまわずんば不動明王の御不覚ごふかくこれにすぎず!!  タラタカンマンビシビシバクソワカ!!」
 そしてその合間を、〈外法頭〉どもが、生きながらに貪り食うのだ。
「ハハハハッ! 喰えっ! 喰らえ! 喰らい尽くせ!!」
 八咫坊が喜悦に染まる。

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