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深夜にだけ復活する感受性に向き合ってみる
中学生の頃、漠然と20歳を迎える前に自分は死んでいると思っていた。
働くなんて想像できなかったし、自分が部屋の外にいるイメージが持てなかった。ただただ毎日を過ごすことに必死だった気がする。
現実はどうだろう、20歳を超えた今実家を離れて働きながら大学院に通っている。人を気遣ったりなにかトラブルがあっても酒の肴にできるようになった。毎日が過ごしやすく、とても生きやすくなった。
しかし、大人になるにつれて、引っかかることも出てきた。社会性の獲得と引き換えに生きづらかった昔より、寛容さを失っている。感受性が低くなっているように感じるのだ。
要領が悪いのは大前提として私の頭の中はいつも騒がしい。やらなければいけないこと、やりたいこと、困ったことがそれぞれ自己主張を続けている。毎日を過ごすために「今目の前にある情報は自分にとって有益か?」を軸に世界を見るようになった。事態を好転させるものでなくとも自分の中の焦りを一瞬でも沈めてくれればそれでいいと思っている。
大人になるにつれ私の感受性はぱさぱさに乾き、目の前の人をこれまでの経験値からラベリングしてみるようになっていった。
こまったことは特にない。ただふと寝る前に創作に触れる気力がなくなり、胸がしまるような感動も減り、小難しい文章を意識が高いと馬鹿にするようになったことに対する自己嫌悪が襲ってくる。
あと、映画や小説は間が長くて楽しめなくなった。人生から娯楽が消えかかっている。
ふと焦って昔好きだった小説を読んでみた。読んだ後に検索をして解釈の結論を探していた(これも楽しみ方の一つだが)。
また焦って「感受性 保ち方」で検索してみた。淡い色使いの写真をふんだんに使った抽象的なアドバイス記事がたくさん出てきた。
私が創作に浸っていられたのは社会との関わりが乏しかったことによる周りの評価を気にしなくて良いことに起因していたのかもしれない。
困った、これでは深夜に襲ってくる謎の焦りに耐えられない。
しかしそもそもこれって悪いことなんだろうか?感受性が豊かな引きこもりと感受性の低い社会人だったら後者のほうがよくないか?と自問自答する。
しかし最近気づいたことがある。たまに明け方に顔を覗かせる感受性がいる。
リアルタイムで聞く深夜ラジオ、ふと読んだひとりごとのようなツイート、焦って読んだnoteの記事これらの隅に小さく昔のようなときめきを感じる。"ときめき"なんだかポエムっぽい。
私は文章を書くのが苦手だ。この文章も読み返したら恥ずかしくなるんだろうなとか誰からも見られなかったらどうしようと思いながら書いている。が、せっかくの休日の深夜だ。気にするのはやめておこう。
他人と関わることが増えた分、それらから自由になれる深夜に、たまにはスマホをおいて昔好きだったものに触れてもいいのかもしれない。
私は変わったあとの感受性が低い私が好きで、これから先もずっと焦りは取れないだろうけど、たまにnoteを読んだり書いたりしながら深夜にだけ復活する感受性に向き合えたらと思います。
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