見出し画像

ギャンブル依存症のドストエフスキー、カジノに狂った地獄の5週間

前回の記事ではドストエフスキー夫妻のヨーロッパ旅行の最初のハイライトであるドレスデン滞在をご紹介した。

ロシアを出発してからおよそ3週間。平穏なドレスデン滞在を過ごしていた2人であったが、ついに「最悪のダメ人間」ドストエフスキーが顔を出し始める。

なんと、ドストエフスキーは異国の街で妻を一人残しカジノに行ってしまったのだ。

アンナ夫人は気丈にも夫を送り出したが、その胸の内はどれほどのものだったことだろう。新婚早々見知らぬ土地で一人取り残されたアンナ夫人。この時彼女はまだ20歳。どんなに心細かっただろうか。彼女の『日記』では一人ドストエフスキーの帰還を待ち続ける不安な日々が書き連ねられている。4、5日で帰ってくると言っていたはずがなかなか帰って来ない。金の普請の手紙は来るも、いつ帰ってくるかがわからない。不安になって駅に迎えに行っても彼の姿はない。スマホやパソコンで簡単に連絡を取り合える現代と違って、「今日帰るから」と気軽に伝える術もない。手紙が来るのを待たねばならなかったのである。

ようやくドストエフスキーが帰って来ると、アンナ夫人は駅で夫に飛びついて喜んだ。よっぽど嬉しかったのだろう。それはそうだ。言葉も満足に通じない異国の地で一人取り残されたのだから。『日記』では彼を責めるどころか「私はずっとフェージャに見とれているばかりで、いつまでも幸せだった」と書かれている。

ドストエフスキーもさすがに自責の念が強かったはずだ。会うやいなや雷が落ちるだろうと思いきやそうではなかったことに驚いたことだろう。

アンナ夫人のすごいところはここにある。これから先バーデン・バーデンの地獄の日々が始まっても彼女はドストエフスキーをがみがみ責めることはない。ただ慰め、助けようとするのだ。これが先妻のマリアやかつての恋人スースロワだったらとんでもないことになっていただろう。そういう女性しか知らなかったドストエフスキーにとってアンナ夫人のようなタイプはそれこそ衝撃だったはずだ。そんなアンナ夫人の出迎えにドストエフスキーは「とても幸福そうで、うれしそうだった」と『回想』では記されている。

だが、おそらくこのアンナ夫人の行動を読んで皆さん色々と思うこともあるかもしれない。私も初めてアンナ夫人の『回想』を読んだ時は驚いたものだ。「いやいやいや、それで大丈夫なの?叱らなくていいの?そんなにドストエフスキーを甘やかしたら大変なことになるのでは?」などなど・・・

だがそれはひとまず置いておくことにしよう。この後のバーデン・バーデンやジュネーブでの2人を見ていけばその先に見えてくるものがあるはずだ。

何はともあれ、普通は怒るであろうところをアンナ夫人は「新しい発作が恐ろしく、どうして一人でやったりしただろう、そばにいて慰めたり、安心させたりするためにどうしていっしょに行かなかったのだろうと絶望にかられるのだった。自分がひどいエゴイストのような気がして、夫がそんなみじめな思いをしているのに何もしてやれないのが自分の罪悪のように思われた。」と自分を責めてすらいる。

この段階にしてすでにアンナ夫人はドストエフスキーの保護者、守護者になろうという思いが明らかに強くなっているのではないだろうか。ドストエフスキーは幸せ者だ。彼のことをここまで考えてくれる人にようやく出会ったのである。

だがドストエフスキーにはもはや自分を抑える術はなかった。この頃には完全にギャンブルで頭がいっぱいになってしまっていたのである。

「まとまった金を持って冷静に賭けれさえすれば勝てる!必勝法を編み出した!」ともはや訳の分からないことを言い出すドストエフスキー。だがこれがギャンブル中毒者が陥りやすい精神状況なのだろう。アンナ夫人はこうしたドストエフスキーに押し切られ、カジノの街バーデン・バーデンへ二人で向かうことに同意する。

こうして2人は運命の街バーデン・バーデンへと向かうことになった。これが2人の地獄の5週間の始まりである。


バーデン・バーデン Wikipediaより

バーデン・バーデンはドイツの保養地として有名で、ヨーロッパ中から集まった多くの著名人がここに滞在している。あのツルゲーネフもここが大のお気に入りで邸宅を構えていたほどだった(「ツルゲーネフとヴィアルドー夫人の宿命の恋~ツルゲーネフの運命を決めたオペラ女優の存在」の記事参照)。

そんな上流階級の優雅な保養地にドストエフスキー夫妻は乗り込んだのである。

ドストエフスキーの目的はもちろんカジノだ。上流階級の優雅な保養などはなから彼には眼中にない。一発逆転の大勝負。すべてを賭けた決死の一投こそ彼の望むところだったのだ。

とは言えアンナ夫人が予想した通り、ドストエフスキーのギャンブルは散々な結果をもたらす。

あっという間に手持ちの金はなくなり、窮余の策で質入れした金もあっという間にすってしまう。まさに一文無しだった。

だが、これもほんの始まりにすぎない。彼らはそうした生活を5週間も続けなければならなかったのである・・・

わたしはといえば、できるかぎり落ちついて、自分たちが選んだこの「運命の打撃」を耐え忍ばうとした。最初に金を失ったあと興奮がしずまると、しまらくして、夫はけっして賭でもうけることはなかろう、たとえ大勝ちに勝つことがあっても、その日のうちに(翌日までもてばいいほうで)すっかりすってしまうだろう、そして哀願も説得も夫には何のききめもないにちがいない、と強く信じるようになった。

はじめのうち、あれほどさまざまの苦しみ(要塞での監禁、処刑台、流刑、愛する兄や妻の死など)を男らしくのりこえてきたフョードル・ミハイロヴィチほどの人が、自制心をもって、負けてもある程度でやめ、最後の一ターレルまで賭けたりしない意志の力をどうして待ちあわせないのかが不思議でならなかった。

このことは、彼のような高い人格をもったものにふさわしからぬ或る種の屈辱とさえ思われ、愛する夫にこの弱点のあることが残念で腹だたしかった。

けれどもまもなく、これは単なる「意志の弱さ」はなく、人間を全的にとらえる情熱、どれほどつよい性格の人間でもあらがうことのできない何か自然発生的なものだということがわかってきた。そう考えて耐えしのび、賭博への熱中を手のほどこしようのない病気と見なすほかはなかった。唯一の克服の道は、ここから逃げだすことだった。だが、バーデンから脱けだすことは、ロシアからまとまった金を受けとるまではできない相談だった。

ほんとうのことだが、わたしは、夫が負けてきたことを決してとがめなかったし、このことについて夫と争ったりもしなかった(夫はその点をたいへん感謝していた)。期限内に請け出せなかったわたしの物は二度とかえってこない(そういうことはたびたびあった)のを承知で、女主人や小口の債権者たちからいやがらせを受けながら、苦情も言わずに夫になけなしの金を渡した。

しかし、フョードル・ミハイロヴィチ自身が苦しんでいるのを見ると、心の底から気の毒になった。青ざめ、やつれはてて、よろよろしながらルーレットからもどってきては(賭博場は若いまともな女性が出入りするところではないといって、夫はけっしてわたしを連れていかなかった)、金をねだる(金はわたしがみんなあずかっていた)。出かけて三十分ばかりもすると、まえよりもっとがっかりして金を取りにかえってくる。そして、負けてすっからかんになってしまうまでくりかえした。

もうルーレットに持って行けるものは何ひとつなくなり、金のくる当てもなくなってしまうと、彼はしょげかえって、むせび泣きながら、自分のせいでおまえをこんなに苦しめてすまないとひざまずいて許しを乞うては極度の絶望におちいるのだった。

それを、さんざん骨を折って説得したり話しあったりして慰め、状態はまだ絶望的なものではないと説明し、打開の道を工夫し、彼の注意や考えをほかのものに向けなければならなかった。

それがうまくいって、読書室に新聞を読みに連れだすことができたり、いつも夫に好結果をもたらす長い散歩にさそいだすことができたりしたときには、どれほどうれしく、幸せだったことだろう。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P177-179

いかがだろうか。賭博に狂うドストフスキーの凄まじさが伝わったのではないだろうか。

そしてアンナ夫人の献身ぶりにはさらに驚かれたのではないだろうか。45を超えたおじさんが20歳の妻にすがっておいおい泣いているのである。想像するにもかなりショッキングな絵だ。

だが、ここで書かれているのはそれでもかなりマイルドにされたドストエフスキー像だ。アンナ夫人の『日記』ではさらに生々しいドストエフスキーの姿が記録されている。せっかくなのでこちらも見ていこう。

金貨の残りは二十五枚だったが、フェージャが今日五枚持って行ってしまったので、残りは二十枚。

出がけに、彼はあとで一緒に郵便局へ行こう、身支度して自分の帰りを待っていてくれ、と私にいった。

彼が出かけてしまったあと、私はすごくもの寂しくなった。

彼は勝った金もかならずすってしまい、それでまたも苦しむだろうと、私は信じて疑わなかった。私は何度か泣けてきそうになり、気が変になりそうだったが、フェージャが帰ってきたとたんに、私はいやに冷静にこうたずねた。「負けたのでしょうね」―「そう、負けたよ」と、彼は絶望的に答え、またもや自分の非を鳴らしはじめた。

彼は賭博に引きつけられる自分のふがいなさをとがめ、自分が私を愛していること、私は彼のすばらしい妻で、私は彼にはもったいない、といったことを、切切たる調子で語るのだった。

そのあとで私にもう一度お金を出してくれとたのんだ。今日は渡せない、渡すとしても明日、今日は絶対に渡せない、なぜならそれもきっとすってしまうだろうし、そうなるとまたあなたが苦しむことになるのだから、と私は答えた。

それでもフェージャは、せめく金貨二枚でよいから出してくれ、そうすればルーレットへ行って、気がすむのだから、といって私を拝み倒した。

どうしようもないので、金貨二枚を彼に渡した。フェージャは興奮状態で、自分のことを私から最後のパンの一片までも奪いとって賭けですってしまうような卑劣漢だとは思わないでくれとたのんだ。私は彼にどうか気を鎮めてちょうだい、としきりにたのみ、あなたのことをそんなふうには決して思わない、どれだけ負けようとあなたの自由なんだから、といった。

フェージャが出かけたあと、私はひどく泣いた。私は彼の苦しみと自己呵責にやりきれない思いがし、また異境にあってこんなに心もとない資力しかないのが不安だった。フェージャは間もなく帰ってきて、負けた、といった(残りの金貨は十八枚)。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

河出書房新社、アンナ・ドストエーフスカヤ、木下豊房訳『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』P172-173

こんな調子でアンナ夫人は残りの金貨の枚数を数える日々を過ごす。彼女の『日記』にはこのような生々しい二人の生活が赤裸々に綴られている。人に見せるつもりのなかった日記だからこそ知れる情報だ。アンナ夫人には申し訳ないが後世の我々にとってはあまりに貴重な資料である。

それにしてもドストエフスキーの「自分のことを私から最後のパンの一片までも奪いとって賭けですってしまうような卑劣漢だとは思わないでくれ」という言葉には驚く。これはまさに『カラマーゾフの兄弟』の長男ドミトリーそのものではないか。あれはドストエフスキーがこの時に実際に言ったものだったのである。しかもこの『日記』ではこの後も何度もドストエフスキーの口から「卑劣漢」という言葉を聞かされることになる。ドストエフスキーにとってこの「卑劣漢」という言葉には特別な思いがあるようだ。

さて、そんな準「卑劣漢」のドストエフスキーも常に賭けに負けていたわけではない。時にはとてつもない大勝をすることもあった。多い時には金貨160枚も手元にあったことすらある。だが持ちこたえられない。次の日にはもうほとんど失ってしまうのだ。

ドストエフスキーはついにはアンナ夫人の大切なイヤリングとブローチを質に入れてしまう。これらはドストエフスキーがアンナ夫人にプレゼントしたものだった。これを手渡したアンナ夫人は陰で泣いていた・・・

しかもそれだけではない。なんと、結婚指輪までドストエフスキーは質に入れてしまったのである。

これで自分を「卑劣漢と呼ばないでくれ」と泣きじゃくるのだからもうたまらない。よくアンナ夫人はこの男を見捨てなかったなと思う。それほどドストエフスキーの狂気は常軌を逸していた。

だが、この地獄のバーデン・バーデンの終盤、ある変化が起き始める。再び『日記』を読んでみよう。

帰宅して、私たちはみじめな気持でお茶を飲んだ。でも全然くよくよしてはいなかった。それとも、習慣というものは恐ろしいもので、私はこうした乱脈にも慣れっこになって、自分たちの状態に、前のようには不安をおぼえなくなったのだろうか。

フェージャがお休みをいいにきた時、彼はなんだか興奮状態だった。おまえを夢中で愛している。とても、とても強く愛している。おまえは自分にはもったいない。おまえはどういうわけか、神様が自分に遣わしてくださった守護天使だ。自分はまだ行ないをあらためなければならない。自分は四十五歳だけれども、まだ家庭生活への心がまえができていない。自分はまだその訓練をしなければならない。自分はまだ時として、夢見がちになることがある。彼はこういったことをつぶやくのだった。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

河出書房新社、アンナ・ドストエーフスカヤ、木下豊房訳『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』P273

まず、アンナ夫人の肝の据わり方が一層強くなっている。もはやちょっとやそっとでは動じない強さを身に付け始めた。実はこの頃にはアンナ夫人が妊娠していることがわかり、彼女も母親としての自覚が出てきたものと思われる。

そして何より、ドストエフスキーがアンナ夫人を心の底から信頼し始めたのがどうもこの辺りからのように私には思えるのだ。旅に出た当初はまだドストエフスキーは若い新妻アンナ夫人の保護者のような雰囲気だった。また、彼には年の差や慣れない海外生活にアンナ夫人が嫌気を差し逃げてしまうのではないかという不安もあったのである。

しかしバーデン・バーデンで散々卑劣漢的行為をしてもアンナ夫人は彼を責めず、慰め、守り続けた。そんなアンナ夫人にドストエフスキーは心の底からの信頼を抱きはじめる。そう。保護者の立場が逆転したのだ。もはやここからはアンナ夫人がドストエフスキーの保護者なのである。こうなって初めてドストエフスキーは守護天使アンナを見出した。人生とはなんと不思議なものだろう。あのシベリア流刑も生き抜いた文豪ドストエフスキーが母のように優しい守護天使にすっかり身も心も委ねるようになっていったのだ。

そして2人はこんな言葉を交わす。

フェージャは私をとても愛してくれていて、私たちは溜息まじりに話し、「ああ、フェージャ」というと彼は「ああ、アーニャ」といい返してくれた。そこには私たちのいたわりがこもっているのだった。

今日、彼は次のように何度かくりかえした。こんな妻にめぐりあえるとは全然思っていなかった。おまえがこんなによい女で、何一つ自分をとがめだてせず、それどころかひたすら慰めてくれるとは、思ってもみなかった。

それからフェージャは次のようにもいった。もしおまえがいつまでもこんなでいてくれるならば、自分はかならずや生まれ変わるだろう。なぜなら、おまえはぼくにいろんな新しい、感情や考えをあたえてくれたので、ぼく自身もよいほうへ向かいつつあるからだ、と。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

河出書房新社、アンナ・ドストエーフスカヤ、木下豊房訳『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』P278

実際、ドストエフスキーのギャンブル中毒はバーデン・バーデンを出るまで一向に収まらなかったし、その後のジュネーブ滞在時も同じ行動を繰り返している。だが、明らかに2人の関係性が変わり始めた。

最後にもうひとつバーデン・バーデンでのエピソードを紹介したい。ドストエフスキーはバーデン滞在の終盤、てんかんの発作を起こしたのである。

フェージャはベッドすれすれに頭がきており、もうちょっとで床にずり落ちそうだった。

あとで彼が語ったところによると、発作のはじまりは記憶している。彼はその時はまだ寝ついてはいず、起き上がろうとした。それでベッドすれすれで倒れたのだと思われる。

私は汗と泡をぬぐいはじめた。発作はさほど長くは続かず、それほど強くないようだった。白目をむくことはなかったが、けいれんはひどかった。

そのあと、彼は意識をとりもどしはじめ、私の手に口づけし、私を抱いた。それからすっかり意識がもどったけれど、なぜ私が彼のそばにおり、なぜ私が夜中に彼のそばにきたのか、いっこうに得心がいかなかった。

それから彼は「きのうぼくは発作を起こしたのか」とたずねた。いまよ、と私は答えた。彼は夢中で私に口づけし、おまえを気が狂うほど愛しているし、おまえを崇拝する、といった。

発作が過ぎると、彼は死の恐怖に襲われた〔死の恐怖は発作後のいつものことであった。夫には私がそばにいれば死からまぬがれると思われるのか、自分から離れないでくれ、一人にしないでくれと、しきりにたのむのだった。ー夫人注〕。

もうすぐ死にそうな気がする、と彼はいいはじめ、ぼくから目を離さないでくれ、とたのんだ。

私は彼を落ち着かせるために、あなたのベッドのそばのソファー・ベッドに寝ることにする、すぐそばだし、あなたに何かあったら、すぐに聞きつけて起きるわ、といった。彼はそれにとても満足し、私はただちに別のベッドに移った。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

河出書房新社、アンナ・ドストエーフスカヤ、木下豊房訳『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』P294-295

「彼は夢中で私に口づけし、おまえを気が狂うほど愛しているし、おまえを崇拝する、といった。発作が過ぎると、彼は死の恐怖に襲われた〔死の恐怖は発作後のいつものことであった。夫には私がそばにいれば死からまぬがれると思われるのか、自分から離れないでくれ、一人にしないでくれと、しきりにたのむのだったー夫人注〕」

ドストエフスキーがいかにアンナ夫人を頼りにしているかがこの言葉に表れているのではないだろうか。もはやドストエフスキーはアンナ夫人なしではいられないのである。これは単なる「言葉、言葉、言葉」ではなくドストエフスキーの真心からのものだと私は信じたい。

さて、こうして過ごした地獄の5週間もようやく終わりを迎える。『ロシア通報』からの前借り金がやっと届いたのだ。もはや一刻の猶予もない。狂気のまますってしまう前に二人はスイスのバーゼルへと旅立ったのである。

ドストエフスキー夫妻を苦しめた悪夢のバーデン・バーデン。

しかしこの地獄をくぐり抜けた二人はここに来る前とは何かが変わった。その変化はこれから先もっと明らかになっていくだろう。

次の記事ではこのバーデン・バーデンの街を実際に見ていく。ドストエフスキー夫妻にとっては地獄としか言いようのないこの街だが、今この街はどんな姿をしているのだろうか。ゆかりの地を巡りながらじっくりとここでの滞在に思いを馳せてみよう。


今回の記事は以前当ブログで公開した以下の記事を再構成したものになります。

ドストエフスキーのギャンブル依存症は有名で、この旅に出る数年前に彼はカジノ通いを始めています。

そしてその時の彼自身の体験や取材を通して書き上げたのが『賭博者』という小説でした。

この小説でギャンブル中毒者の真理をえげつないほど抉り出したドストエフスキーでしたが、実はアンナ夫人と出会ったのもこの作品がきっかけでした。

詳しくはこのまとめ記事の中でご紹介していますが、アンナ夫人はこの小説の速記者、清書係としてドストエフスキーと仕事をしたのです。この出会いによって2人は結ばれることとなりました。

ですが今回の記事で見てきましたように、その『賭博者』のシナリオをなぞるかのようにドストエフスキーはギャンブルに狂っていきます。『賭博者』を縁に結ばれた2人にとってこれは何たる皮肉だったことでしょう。

ですが、これから先、ギャンブル依存症を抱えながらもドストエフスキーは少しずつ回復への道を辿ります。

そして少し先回りになってしまいますが、このヨーロッパの旅を終えるころにはあれだけ苦しめられたギャンブル依存症がすっかり治ってしまったです!

詳しくはこの記事でお話ししていますが、アンナ夫人の献身的な支えやドストエフスキー自身の変化によってその症状が和らいだというのは事実だったのです。

ドストエフスキーにとってアンナ夫人と歩んだヨーロッパの旅はまさに「地獄からの復活」と言っても過言ではありません。彼自身が新しい人生を見出した大きな転機となったのでした。だからこそ私は夫妻の旅に心惹かれるのです。

私はドストエフスキーとアンナ夫人のドラマチックなこの旅が好きで好きでたまりません。

そしてこの二人の出会いは運命だとしか思えません。このことについてはこの後の記事でもお話ししていきますが、まさに彼ら二人の出会いは運命としかいいようのないものでした。

ドストエフスキーは本当に幸運な人間だと思います。アンナ夫人という伴侶がいなければ彼の人生はまさに破滅だったことでしょう。

私にとってそんなドストフスキーとアンナ夫人の二人三脚に思いを馳せながらの旅は心の底から胸が震える素晴らしい経験となりました。この旅行記ではそんな私の思いを余すことなく記しました。ぜひこれからもお付き合い頂けましたら幸いでございます。

主な参考図書はこちら

ドストエフスキーのおすすめ書籍一覧はこちら
「おすすめドストエフスキー伝記一覧」
「おすすめドストエフスキー解説書一覧」
「ドストエフスキーとキリスト教のおすすめ解説書一覧」

ドストエフスキー年表はこちら

前の記事はこちら

関連記事


いいなと思ったら応援しよう!