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Ⅰー10. ディエンビエン省の退役軍人たち(後編):ターイ族の「国民化」

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(10)後編
★2007年12月18日~29日(ソンラ省、ディエンビエン省)

ターイ族に対する聞き取り調査
ターイ族は人口が約155万人(2009年)で、ライチャウ、ディエンビエン、ソンラ、タインホア、ゲアンなどの各省に分布している。ターイ族は白ターイ、黒ターイ、赤ターイなどに大別される。ディエンビエン省はベトナムの西北部の端にありラオスと国境を接し、人口は49万1046人(2009年)で、省内には21の民族(エスニック・グループ)が居住し、主要民族はターイ族(約38%)、モン族(約30%)、キン族(約20%)である。

ディエンビエン省における調査は、省都ディエンビエン市内(12月24日・25日)と郊外のタインルオン社(12月26日・27日)で実施した。市内のキン族の退役軍人7人については前編で紹介した。後編では、市内のターイ族1人とタインルオン社のターイ族6人の退役軍人のインタビューを紹介する。

ここでインタビューしたターイ族はいずれも白ターイに属している。タインルオン社は調査時で人口が6282人(1452世帯)で、ターイ族3465人(55.1%)、キン族が2647人(42.1%)、コムー族が102人(1.7%)、タイー族が68人(1.08%)である。
インタビュイーの7人(全員男性)のうち、最年長はソンで1942年生まれ、最年少はスアンの1964年生まれで、タン(1958年生まれ)とスアンはベトナム戦争以後の世代で、この2人はベトナム戦争に参加していない。

ベトナム語はどのように普及していったか
1942年生まれで一番年上のソンは、1954年以降に学校に通うようになったが、学校に行く前はベトナム語を知らなかった。

1947年生まれのクンは、学校に入学した時点では、ベトナム語を話せなかった。クンは学校ではターイ語で教わり、ターイ文字を学習した。彼は1957年の10歳の時に、ターイ族の村人にターイ文字を教えたので、当時のターイ・メオ自治区(1955年設置、1962年に西北自治区と改称。1975年12月に廃止)の主席から表彰されている。1959年から学校でベトナム語を学び始めるようになったが、その時まではターイ語しか知らなかった。県の役所に勤務してから、ベトナム語が上達した。当時、ターイ族では学校に行っている人はベトナム語ができたが、学校に行ってないとベトナム語をほとんど知らなかっった。

1947年生まれのウーは1957年から学校に通ったが、それまではベトナム語を知らなかった。彼によれば、当時、入学してしばらくはターイ語とベトナム語の2言語で学習した。1960年(1959年か?)からはベトナム語に一本化されたという。

1953年生まれのパンはも学校にあがる前はベトナム語を知らなかった。パンは地元の村で1962年から4年生まで学校教育を受けたが、ベトナム語による教育を受けている。入学当初だけは、ターイ族の先生がターイ語をまぜながらベトナム語を教えた。したがってパンはターイ文字を習っておらず、知らない。

1958年生まれのタンは、父親が社の幹部だったこともあり、学校にあがる前に既にベトナム語を知っていた。しかし1964年生まれのスアンは、学校に行く前はベトナム語を知らなかった。このように多くのターイ族は就学前にはベトナム語を知らなかったが、1959年から当地の学校では本格的にベトナム語による教育が進められるようになり、ベトナム語を修得していくことに拍車がかけられた。そして学校を出て、役所や軍隊に入ることによって、ベトナム語を上達させていった。

一方、辺鄙なところに住み、学校教育もほとんど受けたことがなく、外部(キン族)との交流が少なく、農業に専従しているような少数民族の女性は、ベトナム語能力が低い場合がまま見られる。実際、ゾットの90歳になる義母はいまだにベトナム語ができないという。

ディエンビエンフーの戦いとターイ族の疎開
タインルオン社在住者は、ディエンビエンフーの戦場だった所からの移住者が多い。ソンの家族は元々は仏軍カストリ将軍の指揮所の壕があったあたりに住んでいたが、1952年に仏軍がディエンビエンに進駐してきたので、家族はタインルオン社に移った。ゾットによれば、ディエンビエンフーの戦いが激しかったので、当地のターイ族の多くの人が戦火を逃れてラオスに疎開したという。そのままラオスに居ついた人もいて、ゾットの叔母はラオスに今もいるという。それらの人の多くはポンサリーに居住している。

1947年生まれのクンは、ディエンビエンフーの戦いの時は7歳だった。クンの兄たちは親仏的なターイ自治連邦の王であったデオ・ヴァン・ロンの兵士であった。ディエンビエンフーの戦いの直後、仏軍とデオ・ヴァン・ロン軍の残党を掃討する「ベトミン軍」(北ベトナム軍)を見たのが最初のベトミン軍との出会いであった。その時はベトミン軍がこわくてジャングルに逃げ込んだ。というのは、ベトミン軍が村に入ってきて、男の子を見れば殺してしまうと宣伝されていたからである。その後、ターイ族から成るベトミン軍部隊がやってきて大衆工作をおこない、クンの村のターイ族もベトミンに従うようになった。

ウーとパンは兄弟であり、ソンと同様、元々の家はカストリ将軍の指揮所のあたりにあった。仏軍の落下傘降下が1952年から始まり、第2回目の時に家族は避難して各地をさまよった末に現在の居住地まで来た。追い立てられた避難民はノオンニャイの兵営に集められて400人以上が虐殺された。ウーとパンの父親もその時に負傷し、父親はハノイで3年近く治療した。1954年からウーとパンの家族はラオスのポンサリーに疎開していた。多くの人がラオスに疎開していたが、1957年10月に西北軍区は代表団をラオスに送り、疎開していた人々に帰国を促した。その時に家族は父親と再会した。しかし一部の人はそのままラオスに残った。ウーとパンの叔母と姉もラオスに残り、現地の人と結婚した。姉の2人の息子は現在、ラオスの軍人になっているという。

ベトナム戦争中のラオス駐屯
タンとスアン以外のベトナム戦争世代5人はいずれもラオスに駐屯した経験をもっている。
ソンは、1967年にタイチャン(Tây Trang)経由でラオスに入り、ルアンパバーンに駐屯した。
ゾットも、1968年にタイチャン経由でラオス入りし、ポンサリーに3年間いた。爆撃が激しかったのでジャングルで寝起きした。配属部隊の任務はヴァン・パオ軍への攻撃だった。
クンは、1971年に徒歩で1か月かけてルアンパバーンまで赴いた。
ウーは、1972年にラオス入りし、シェンクアンに駐屯した。
パンは、1972年にゲアン省からラオスのシェンクアンに入った。交戦相手はヴァン・パオ軍とタイ国軍であった。
5人のいずれもが1973年のラオス和平協定により帰国している。

ディエンビエンフーの戦いの後の入植と土地改革
ウーによれば、ディエンビエンフーの戦いの後、第316師団はディエンビエンから撤退したが、1959年に戻り、国営農場に従事する経済建設部隊に生まれ変わった。ディエンビエンに一大国営農場が誕生したのである(前編を参照のこと)。これ以降、キン族のディンビエンへの流入が加速した。タインルオン社では1957・58年に互助組が組織されるようになり、1959年に土地改革が始まった(北ベトナムでは一般的には1953年末から)。土地改革中、この地方の人民裁判で処刑されたのは、デオ・ヴァン・ロンの弟で知州だったデオ・ヴァン・ウン(Đèo Văn Ún)だけだった。1960年に農業合作社(初級)がつくられ、それからターイビン省出身のキン族がやってきて一緒に仕事をするようになった。1964年に社レベルの農業合作社(高級)となった。合作化が終わった後、1962年に土地改革の「誤謬修正」がおこなわれた。ウーの家は「雇農」に分類され、土地の支給を受け、自留地も持てたが、水牛を所有できるまでにはいたらなかったという。

戦争で変わらざるをえなかった伝統的慣習「婿入り」制度
タインルオン社のターイ族の伝統的慣習によれば、正式な結婚式の前に花婿は花嫁の家に3年間婿入りしなければならない。ソンによれば、婿入りの間、花婿は花嫁の家族同様に扱われるが、大声を上げたり義父母と口論することはできず、寝る時は一人で寝なければならなかった(原則上)。ベトナム戦争中、ゾットは1回目の出征と2回目の出征の間隙を縫って3年間の婿入りをしたという。しかし戦争中にゾットのようなケースは稀で、出征中の兵士に3年間の婿入りをする時間的余裕はなかった。

ソンは1973年のラオス和平協定後、一時休暇で帰省して5日間だけ婿入りし、1975年に正式に結婚した。
パンは1979年に婿入りしたが、まだ軍隊にいたため、慣習通りにまっとうできず1980年に結婚した。
このように戦争の影響で伝統的な慣習は変容させられ、この戦争中の変容は戦後にも及んでいる。スアンは1988年に除隊し、翌1989年に結婚したが、婿入りしたのは1週間だけだった。ソンは、まだ結婚していない末娘の結婚相手には1週間の婿入りしか求めないと語った。

民族の坩堝だった軍隊生活の感慨
ゾットは、「あの頃、誰も軍隊の階級のことなど考えなかった、任務を全うすることだけを考えていた」と語った。
クンによれば、民族間の関係は、同じ部隊で共に戦った戦友であり、困難な軍隊生活や戦闘過程を通じて団結精神が醸成され、実の兄弟のようになったという。ディエンビエン省には21の民族が居住しているが、軍隊にも21の民族がいる。風俗習慣に多少の違いがあっても、軍隊の基本的原則は第一に軍隊の決まりを遵守しなければならないことになっており、第二に同じ地域で共に生活していて、民族間で文化交流があり、互いに学びあって近似してきているので、障壁がなくなりつつあるという。
ウーの考えでは、戦争はベトナム領土内の各民族を近づける要因になり、戦争を通じてベトナム人は互いにより団結するようになったという。

ベトナム戦争中の北ベトナム軍においては、概して、軍隊の階級に対する兵士たちの意識はあまり強くなかったようである。したがって階級の昇進による兵士たちのモチベーション強化という手法はあまり採られなかったのかも知れない。それを代替するのが共産党への入党ではなかったろうか。ベトナム戦争中は比較的容易に党員となっているケースが散見される。パンの場合はその一例である。パンは師範学校在学中の1972年に出征したが、当時、「英雄レ・マー・ルオンに学ぶ運動」などがあって抗米の気勢が沸騰していたため、自ら志願書をしたためて応召した。戦争中は戦功を立てると、履歴の審査なく直ぐに党員になれた。パンはそれで1973年に入党できたが、戦争が終わってからは、あらためて審査をうけなければならなかったという。

インタビューした7人のターイ族・退役軍人のまとめ
①学校に入学してから、ベトナム語を修得した人が多かった。少数民族幹部養成のための財政学校には3人が学んでいるが、クンとウーは見事に立身出世し、佐官にまでなり、ディエンビエン省の軍隊と行政の重鎮となった。

②ベトナム戦争世代の5人全員がラオスに出征している。ウーとパンは南部でホーチミン作戦にも参加した。中越戦争にも出征した人が5人いる。

③佐官クラスが3人おり、前回のムオン族の場合と比べると、階級が高い。しかしムオン族よりターイ族の方が軍隊で昇進度が高かったと直ちに一般化することはできない。インタビューしたのは、ターイ族の場合はディエンビエン省の省都とその郊外で高級退役軍人にインタビューする機会があったのに対し、ムオン族の場合は方は片田舎でのインタビューだったからである。

④復員後、ポスト・ベトナム戦争世代で直接戦闘を経験していないスアンを除いて、ほかの人は各級の退役軍人会などの役職を歴任している。佐官クラスの軍人恩給は高額である。クンは高額の軍人恩給と退役軍人会の給料をもらい、裕福な暮らしをしている。

戦争による少数民族の国民化
①戦争は、学校教育とならんで、少数民族のベトナム国民化を助長した。学校教育で注目されるのは、ベトナム語の修得と少数民族の幹部養成である。1950年代後半、民族自治区においては「機関の民族化」が図られた。1960年にファム・ヴァン・ドン首相が提唱した「ベトナム語の純粋さを守る」運動は、中国文化の浸透に抵抗しベトナム文化を守ろうとする運動であるとともに、非識字者や少数民族にとってベトナム語の修得を容易にする狙いもあったのではなからろうか(現在の日本での「やさしい日本語」のように)。そのような下地の上に、戦争は多民族から成る人々を団結させ、一律化して国民化する坩堝の役割をはたしたと考えられる。

②一方、少数民族の国民化の阻害要因もあった。仏軍に対する1954年のディエンビエンフーの戦いの勝利後直ちに、少数民族地区において北ベトナム政府の支配が貫徹したわけではなかった。1960年に北ベトナム政府の民族委員会はこう述べている。「最近の1956年、1957年、1958年において、各民族人民は匪賊に従って道を誤った6000人余りの人に投降を呼びかけ、各種の銃4000丁余りを押収し、敵が引き起こした山間部国境における偽装匪賊である『王を称し、王を迎える』多数の事件(筆者注:千年王国主義的運動)を粉砕した」と指摘しているように、まだ混乱は続いていた。1946年から始まった抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)及びその数年後の歴史的過程は、単にフランスによる再植民地化を撥ね退けたということだけではなく、ベトナム国民党やベトナム革命同盟会といった敵対勢力を駆逐し、少数民族の割拠勢力を併呑化しベトナム民主共和国を中央集権化していくことでもあった。最終的に西北地方の「匪賊」を一掃できたのは1968年だとされる(同年、タオ・ア・ドア Thào A Đóa がサパで投降)。
ディエンビエンでは、ターイ族はラオスに多数避難しそのまま居つく人もいて、国境・国民を超えた紐帯が根強く存在していた(ベトナム戦争中はこの紐帯はプラスに作用したが)。またかつての白ターイの領袖デオ一族の記憶も残っていた。
1950年代なかばに創設された「民族自治区」の意識は十分には浸透していなかったと推測される。ムオン族のヴェンは、「自治区になってもちょっとした変化しかなかった。当時のホアビン省の主席の名前は覚えているが西北自治区の主席の名前は覚えていない」と語り、自治区がいつ廃止になったのかも記憶していないという。

タインルオン社での納会の宴
12月27日午前にタインルオン社で3人のインタビューを終えると、折しも訪問中の集落の一年の総括会「納会(忘年会)」の準備中だった。昼食時でもあり、招待を受けて納会に参加することになった。見出し画像はその様子の一端である。大きな高床式の家での宴会で、列こそ異なるが男女同席。おじさん達のみならず、おばさん達からも何度「乾杯」をさせられたことか(女性がこれほど飲むのは当時のキン族では見られなかった。今では異なるが)。納会が終わる頃は、わたしもダイ氏もベロベロに酔っぱらっていた。ちなみに写真からも分かるように、ターイ族の既婚女性は、頭上に髪をお団子のように載せる。当時、オートバイ乗車時のヘルメット着用が厳格化され始めた頃で、ターイ族の女性はどうすべきかが議論になっていたのを思い出す。

12月28日午前、トンカオ墓地(抗米戦争以降、約2500の墓)、独立丘墓地(抗仏戦争時代、2436の墓。1984年建設)を訪問。午後、飛行機でハノイに戻る。ディエンビエン空港は、滑走路内に入ってきた牛をオートバイで追い出す牧歌的な空港であった。翌29日、帰国。










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