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Ⅰー28. ジャングルの基地で3人も出産した元青年突撃隊隊員の女性:ホーチミン市(2)後編

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(28)
★2014年7月5日~7月27日:ハノイ市、ホーチミン市

見出し画像:ホーチミン市クチ県でのインタビューに応じてくれた元青年突撃隊隊員の女性たち

はじめに

Ⅰー27. (後編)でホーチミン市在住の元青年突撃隊隊員について扱ったが、今回はその続きである。今回は以下の7人の女性にインタビューした(日程は前編を参照)。順番はインタビュー順である。記載されているデータは、順に、名前、生年、出身地、現住地、入隊年、入党年、結婚年、備考、である。

①ヒュウ、1947年、クチ県、ビンチャイン区、1964年、1965年、1976年
②フオン・ラン、1955年、第11区、第11区、1977年、入党せず、1981年
③レー、1943年、ベンチェー省、ビンタン区、1965年、1966年、1968年、 
 ビンタン区元青年突撃隊隊員会副主席
④タイン・ラン、1948年、クチ県、クチ県、1964年、1967年、1974年
⑤デップ、1948年、クチ県、クチ県、1964年、1966年、1974年
⑥スオン、1954年、ゴーヴァップ区、ゴーヴァップ区、1976年、入党せず、
 1980年、夫は音楽家のレ・ヴァン・ロック
⑦フォン、1948年、チャーヴィン省、第7区、1964年、1968年、1975年、
 第7区元青年突撃隊隊員会主席

以上の7人は3つのグループに分けることができる。
(1)ベトナム戦争戦中派で地方出身の人:③、⑦
(2)ベトナム戦争戦中派でサイゴン郊外クチ県出身の人:①、④、⑤
(3)ベトナム戦争戦後派:②、⑥

1.ベトナム戦争戦中派で地方出身の人

③レー(1943年生まれ)
西南部ベンチェー省出身。1960年、ベンチェー省の一斉蜂起に参加。1年後、省内の諜報機関の連絡員となる。1965年に家を離れて、タイニン省に行き、青年突撃隊に入隊。ベンチェー省から約140人が一団となってタイニン省まで行くのに41日間かかった。レーが配属されたのは、全員がベンチェー省出身の第2012大隊。この時、青年突撃隊には各省別の大隊があった(筆者注:1966~67年に10個大隊が成立した。地方別では、ロンアン、タイニン、ビンズオン、ビエンホア、ベンチェー、ミトー、カマウ、カントー、チャーヴィンと西南部が多かった。Tỉnh Đoàn Bến Tre 08-06-2020 による)。第2012大隊は男性より女性の隊員が多く、第9連隊(3個大隊で1個連隊)に属し、軍隊の第9師団・第1中団に服務し、ビンロン、ビンフオックで兵站業務に従事した。1967年末から1968年初までジャンクション・シティー作戦の戦闘に服務した。

1968年初のテト攻勢の時は、発熱のため、第1中団の病院にいた。テト攻勢第2波には参加したが、びびってサイゴン市内には入れなかった。テト攻勢後はタイニン省にいた。青年突撃隊の大隊政治員となった。その大隊は大隊長も女性だった。この大隊は後に国道9号線・南ラオス作戦(1971年)にも参戦した。

1968年10月、第9師団・第2中団にいた男性と結婚した。タイニン省のジャングルの基地のなかで結婚式を挙げた。敵の攻撃が激しい時であったが、軍隊の同僚も出席してくれた。隊員仲間が、カンボジアでニワトリ、キャンディー、お菓子を買ってきてくれた。

敵の反撃が激しかった「平定期」にタイニン省で第1子を産み、1970年にはカンボジアで第2子を産んだ。カンボジアには3年ほどいて、薬学の勉強と2人の子どもを育てた。1973年のパリ協定締結後にベトナムに戻った。末っ子を産んだのは解放直前の1975年4月5日。ジャングルの基地のなかで3人の子どもを出産した。敵の掃討で集団壕に避難している時、子どもが泣かないようにするのが大変だった。

青年突撃隊には給料はなかった。数十ドンの小遣いのみで、石鹸と歯磨きが買えるだけだった。服は支給された。住まいは子どもがいても集団生活であった。

戦後、第2中央スポーツ体育学校、南部食糧会社などに勤務し、1989年に退職。その後、4年間、新経済区に行くが、困窮してホーチミン市に舞い戻った。解放まもない頃が最も生活が困難だった。給料は低く(64ドン)、夫は軍人・幹部だったがアルコール中毒と女遊びで3年の刑を受け、一人で子育てをしなければならなかった。夫は刑期を終えても、鬱々とし、大酒を飲み、病気になり、2年前に70歳で亡くなった。

ビンタン(Bình Tân)区の元青年突撃隊隊員会の副主席をしている。同区の支部会には10人余りの会員がいる。

レーが受章した勲一等抗戦勲章の証書

⑦フォン(1948年生まれ)
西南部チャーヴィン省出身。1964年に南部人民革命青年団の団員となり、地元の社(村)の「整訓」クラスに参加。その時、米軍が本格介入を始めたので、クラスでは従軍運動が発議され、フォンは青年突撃隊に入隊する署名に応じた。1966年1月に36人と共に出発した。敵を避けながら進んだので、タイニン省の総隊本部に到着したのは3月だった。第198大隊に配属され、軍隊の第9師団・第2中団に服務した。当初、日本製の75mm山砲を東南部へ運んだ。それは北から送られてきたものであった。

<夫のドン(元大佐)の話>東南部(サイゴンも含まれる)は解放軍に参加できた人は少なかったので、西南部から補充した。東南部の最初の主力部隊の人員とお米は西南部から送り込まれた。第9師団は東南部で最強の部隊だった。北の部隊が最初に来たのは1966年で、120mm迫撃砲部隊だった。それまで南部には60mmと82mmしかなく、それも主に敵から奪ったものだった。ドンは第9師団・第2中団の砲兵部隊に属していた。海のホーチミン・ルートから運ばれてきた大砲をチャーヴィンから運んできた。海のホーチミン・ルートで運ばれた武器はフランスや日本が残した武器であった。北が侵入したことがばれないように、ソ連や中国の武器はなかった。北から武器を積んだ船団の主な行先はカマウであった。(了)

国道13号線の戦闘に駆り出され、負傷兵・戦死者の搬送をおこなった。人生で初めて肩で担いだ。西南部の人は肩で担ぐことはないので。青年突撃隊では毎年2着の服の支給があった。布が支給され、部隊が仕立てた。軍隊が行くところは青年突撃隊もついて行った。銃を持ちながら、弾薬を担いだ。戦闘が終わると、偵察部隊と青年突撃隊が死傷者と未回収のものを捜した。夜間に捜索作業をし、時には一週間もかかった。

1967年のフオックロンでの戦いでドンは負傷し、フォンが担いで病院まで連れて行った。テト攻勢の第1波でフォンの第198大隊も参加し、クチの手前まできたが引き返した。第2波を準備している時、B52の爆撃を受け、大きな被害を受けた。また少数民族のレンジャー部隊に襲撃されて、多くの犠牲者がでたこともあった。1970年、南ラオス作戦の準備中、カンボジア領内にいたが、米軍の攻撃を受け、隊からはぐれてしまい何日も彷徨いようやく帰隊したことがあった。南ラオス作戦にはカンボジアを通って出征し、服務した。1973年まで青年突撃隊にいて、74年からはタイニン省タンビエン県の県団の副書記を務め、捕虜交換工作などに従事した。1975年はタイニン省団に勤務。1975年初に当時南部解放軍の総合陸軍学校にいたドンと結婚した。結婚しても別居であった。

戦後、ホーチミン市の社会傷病兵工作などに従事。1981年からホーチミン市にて夫と同居するようになる。1993年、国の人員削減の方針で退職した。現在(調査時)、ホーチミン市第7区の元青年突撃隊隊員会の主席。同会には115人の会員がいる。

◆レーとフォンの二人は共に西南部出身で、1960年代なかばに入隊して、比較的早くに入党でき、戦争終結以前に軍人と結婚しているところが共通している。レーは戦争中にジャングルの基地の中で3人の子どもを出産し育てた。

ホーチミン市クチ県の戦没者墓地

2.ベトナム戦争戦中派でクチ県出身の人

クチ県はホーチミン市郊外にあり、観光スポット「クチ・トンネル」のある解放勢力側の拠点として有名である。ここ出身の元隊員にインタビューした。

①ヒュウ(1947年生まれ)
クチ県出身。1963年から地方活動に参加。主にはトンネル掘りと連絡員。トンネルは昼夜を分かたずみんなで掘った。義務ではなかったが、みんな参加した。当時、クチには3つの社(村)があり、敵の屯所が周囲にあったが、どの社にも敵が入れない解放区の邑(集落)があった。1964年に家を離れて、タイニン省の青年団本部に向かった。トンネルを掘っている頃に、南部革命人民青年団に入団していた。クチからタイニンまで行くのに1か月かかった。

青年団本部での任務は、青年団大会と婦女連合会大会の準備だった。1965年3月、グエン・チー・タイン大将列席の下、第1回青年団大会が開催され、「5つの突撃運動」が提唱され、南部解放青年突撃隊が設立された(1965年4月20日)。最初に第100大隊ができ、南部中央局の中核とみなされた青年たちが約150人集められた。グエン・チー・タイン大将が指導した1965・66年の作戦(ビンザーの戦い、ドンソアイの戦い)に参加した。食糧は米不足で、緑豆や茹で落花生でしのいだが空腹で白目が黄色になった。ヒュウがいた所(現ビンフオック省)は、B52がベトナムの戦場に初めて参戦し、カイルオンの劇作家チャン・ヒュウ・チャンがその爆撃により死亡した所だった。

その後、青年突撃隊総隊政治委員会に異動。場所はタイニン省にあったが、しょっちゅう移動した。その間、カマウ、タイニンなどの西南地方の各省に青年突撃隊の部隊が誕生した。青年突撃隊は軍隊より大変だった。物資を輸送し、戦闘の準備をした。戦闘後は、負傷兵・戦死者を搬送した。戦後、青年突撃隊の重要性は見逃されてきた。戦後直後、北部の人は南部に青年突撃隊があったことを知らなかった。戦争中、南北の青年突撃隊はほとんど関係がなかった。戦争末期、南部の男性隊員の多くは武装公安に異動し、女性隊員の多くは帰郷した。

1972年、勉学のため北部に行った。5人の団でタイニンを出発した。南部から行く最後のステーションであるクアンビン省ボーチャック(Bố Trạch)県クナム(Cự Nam)村に着いた時は、パリ協定調印の時であった。クアンビンからは迎えがきていた。厚遇を受けたが、当時、ハノイでも食事は混ぜご飯であった。ご飯の3分の2はイモで、北の人たちも苦労していると感じた。フンイエン(Hưng Yên)で補習の勉強(学歴を補う学習)をした。戦後の1975年8月に補習を終えて、帰郷した。

戦後、ホーチミン市党委の民運(大衆工作)委員会に勤務した。2002年に退職。1976年1月に結婚。夫は同郷で幼馴染。戦争中、唯一会ったのが1966年3月。現在(調査時)は会社社長。民運委員会勤務当時に感じたことは、政権は(南部の)知識人を差別しないといっていたが、違っていた。南部の知識人は高度の独立性をもっていた。さまざまな理由で革命に参加しなかった知識人は、敵の占領地区にいたが、敵に従っていたわけではなく、さらに革命を破壊したわけでもない。彼らは独立性をもっており、旧政権も彼らに対し一定の尊重をしていた。これらの知識人は国を愛し、彼らのやり方で活動し、戦争に反対し、アメリカに反対し、外国に反対した。戦後、私たちは彼らを排除する政策を採った。特に地方指導者の対処は、彼らを離反させた。国を捨て、「ボートピープル」となった人々は、経済的困難ばかりではなく、私たちの対処が彼らを失望させたためでもある。彼らは祖国を裏切ったというのは正しくない。彼らを取り込めるよう対処する必要があった。現在、戦後40年経つのに、狭量な偏見と差別のために知識人を活かしきれていない。

④タイン・ラン(1948年生まれ)
クチ県出身。家にいた頃、バリケードをつくったり道路を破壊して敵の車を阻止したり、トンネルを掘ったりした。1964年4月に青年団に入った。従軍運動に刺激され、同年10月に家を飛び出してタイニンの青年団本部を目指した。到着した後、第1回全国青年団大会が開催され、その2か月後、青年突撃隊が設立され、志願して入隊した。銃、手りゅう弾、ベルトなどを支給されて嬉しかった。入隊して直ぐの任務は、医療施設の建設と米兵捕虜の護送だった。

タイン・ランの隊は軍隊の第9師団・第2中団に服務した。弾丸運びと負傷兵の搬送を担当した。0.7キロの米、82mm迫撃砲弾4発、衣服、乾燥食料、あわせて30キロ以上を背負って戦場に向かった。女性隊員は17・18歳、男性隊員は19・20歳で若く、精神は高揚していた。

1968年のテト攻勢で味方は多数の死傷者が出たので、青年突撃隊はカンボジア国境に退き、物資の輸送に従事した。自転車で200キロ、300キロの米を運んだ。敵の爆撃が激しく犠牲者が出ても突撃した。1969年にはバーデン山(タイニン省)まで第9師団に米を運んだ。その帰りに道に迷い、敵の襲撃にもあい、3日間はぐれてしまったこともあった。その後、カンボジア領内で指揮課程の研修を3か月受けた。

6年間家を離れていたので、故郷での工作を申請し、チュンラップトゥオン社の女性隊(地方軍)の政治員を務めることになった。この女性隊は秘密のゲリラで、最初は21人の女性から成り、装備はAK11丁、60mm迫撃砲1門で、クチ県のソムチャイ・ザンバウ地区の戦闘と戦略村に移住させられていた民の帰還運動をおこなった。敵との戦闘には地雷DH.5、DH.10も使った。戦闘しながら農業増産にも努めた。

1974年に結婚した。夫はチュンラップトゥオン社の社隊長であった。結婚したのは、いつ戦争が終わるか分からなかったからである。結婚して数か月後に終結するとは思わなかった。

終結時、階級は准尉。戦後、社の婦女工作に異動し、1992年に退職。退職したばかりの頃は、生活が苦しかった。今はだいぶよくなった。

クチ県戦没者墓地の慰霊塔

⑤デップ(1948年生まれ)
クチ県出身。地元でトンネル掘り、バリケードづくり、(落とし穴用の)長釘削りなどをした後、1964年10月に青年突撃隊に参加。ヒュウ(①)と同じ部隊(第100大隊)だった。この大隊には約100人の隊員がいて、3割ほどが女性だった。ベトナム戦争を通じて、この大隊では20人ほどが犠牲になっている。1971年まで青年突撃隊にいたが、負傷したこともあり、その年に地方工作に異動した。また1968年のテト攻勢で地方の基礎が大きな被害を受け、当時地方の人員の補充が求められていたからでもある。1974年に結婚。夫は第9師団の軍人でビンズオン出身だった。1977年には税務室に異動し、2003年に退職した。

<クオック(男、1943年生まれ。クチ県出身・在住でデップと同じ部隊だった。クチ県の元隊員会主席。インタビューに同席した)の話>:反ゴ・ディン・ジェムの学生デモで捕まって(歯を5本折られる)、1960年1月から1962年7月まで収監される。出獄後も引き続き市内工作に従事していたが、青年団本部から声がかかり、1962年にジャングルに入り、革命に参加した。青年突撃隊第100大隊の政治員を務めた。1973年まで青年突撃隊に在籍し、その後、タイニン省の県党委に1993年までいて退職した。ベトナム戦争中の1972年に結婚。ジャングルで2人の子どもが生まれた。青年突撃隊での経験が、現在の生活で役立っていることは、意志が高まったことと慈しみ合うこ大切さを学んだことである。(了)

◆クチ県は「クチ・トンネル」で有名であるが、現地で戦っていたばかりではなく、青年突撃隊にも隊員を供給していた。初期の南部の青年突撃隊にとっては、西南部とともに重要な人材供給源だったように思われる。彼女らは、西南部や東南部ばかりではなく、カンボジアなどを経由してチュオンソン山脈にも出征していた。

クチ県戦没者墓地

3.ベトナム戦争戦後派

パリ協定(1973年)締結前から南部の青年突撃隊は削減の方向にあった(男性隊員の武装公安への異動、女性隊員の除隊や地方工作への異動)が、ベトナム戦争終結後も組織は存続した。その役割は新経済区建設・インフラ整備と国防(きな臭いカンボジア国境に備えたもの)になったように思われる。

②フオン・ラン(1955年生まれ)
サイゴン市内第11区出身。ベトナム戦争終結時はサイゴン師範大学英文科の1年生。父は教員で、2人の兄はサイゴン軍士官。解放後、英語の専門授業は減り、政治の授業が増えた。英文科の教員は一部配置換えになり、文学も北部のものに従ったものでないと教えられなくなった。政治、マルクス・レーニン主義哲学の授業がフオン・ランは苦手で、単位が取れず留年。その頃、学生は駐輪場の門番や新聞売りで生活の足しにしていた。また農業増産のため農場に動員された。解放前は学校に行く時はアオザイを着ていたのに、普通の服になった。旧体制側だった家族のこと、留年のことなどがあり、閉塞感に捕らわれ、1977年に退学して青年突撃隊に参加した。

最初はクチ県に来てタムタン運河建設に従事したが、ランが高学歴だったため現場ではなく指揮委員会に配属された。実際には、鶴嘴・シャベルなどの手配や夜間識字教室で教えることが業務だった。青年突撃隊からは各自2着の制服、掛布団、帽子、生理用品が支給された。その頃、米は不足していなかったが、食料が不足していた。クチに3か月いて、次にビンチャイン県のレ・ミン・スアン農場に1年いた。

青年突撃隊の各大隊には9個小隊あった。1個小隊は12人で、大隊は約120人であった。9個小隊は現場労働に従事し、第10小隊は医療、文書、炊事を担当し、女性隊員が主だった。

1978年6月、突然、隊員たちは車に乗せられ、カンボジア国境のタイニンに連れていかれた。第303連隊で5個小隊は女性の小隊だった。青年突撃隊がいた所にはポルポト軍の襲撃はなかったが、時折、砲撃があった。ここでの任務は負傷兵・戦死者の搬送で、最初はこわくてたまらなかった。国境地方で数か月、その仕事をしたが、とても骨が折れた。プノンペンが解放されると(1979年1月)、部隊ごと車に乗って軍隊と一緒にプノンペンに向かった。プノンペンに入った時には、人はいず、建物だけが残されていた。解放後、市内にいて、帰還したカンボジアの人々に食糧を配給したり、戦利品を回収したり、家屋・道路の修繕などを支援した。カンボジアには丸1年滞在したが、銃の支給はなかった。1979年末・1980年初に帰国した。

青年突撃隊では給料はなく、各人毎月21キロの米と歯ブラシ、歯磨き、石鹸が支給された。また衣服、蚊帳、靴、サンダル、靴下、水筒、帽子、ベルトが支給された。下着は自前だった。

1978年にカンボジアで知り合った軍人と1981年に結婚した。夫は退役後、対外貿易省建設会社で運転手をした。ランは除隊後、夫の給料では暮らせなかったので、家で仕立ての仕事をし、改革開放期になると台湾企業で働いた。50歳で退職。

フオン・ランさん(自宅にて)

<夫のビン(1954年生まれ、北部バクニン省出身)の話>:ビンは第7軍区のクーロン兵団に属していた。ポル・ポト軍は、華僑、日本人、ベトナム語ができるカンボジア人、親米のカンボジア人を抹殺しようとし、1979年にはカンボジア人で40歳以上の人、教員・医師、ベトナム人にもそれが及んだ。カンボジア人は残酷で内部でも殺し合った。
カンボジアでのベトナム兵の戦死者は、ハノイでは抗仏戦争と同じくらいといわれているが、分からない。なかには抗米戦争の75%に相当するという人もいる。
夫婦共に入党していない。ビンは北部の革命階級「紅い階級」出身だが、妻の家族の履歴のため差別されてきたという。(了)

⑥スオン(1954年生まれ)
サイゴン市内ゴーヴァップ区出身。解放前、父はサイゴン・バス会社の修理工、母は商売をしていた。スオンは近所の華人学校でベトナム語の教員をしていた。戦争中は郊外のクチ、アンフードン、ホックモンからベトコンの砲撃があり、家の中に防空壕があった。

1976年、地区(坊)の青年団支部が青年突撃隊参加運動をしていたので、思い付きで入った。理想があって入ったのではない。同年3月、トンニャット運動場で出陣式がおこなわれた。衣服が支給され、レ・ミン・スアン農場に向かった。農場では、新経済区に来る人の家屋の基礎を造成した。新経済区はあまりに困難で入植者の多くは街に戻っていったが、残っていれば、今頃は広大なゴム園を抱えて裕福になっていた。スオンは12人の小隊長で、昼は働き、夜は字を知らない人に字を教えた。熱心に取り組んだので「ベトナムのマカレンコ」というあだ名がついた(マカレンコはソ連の有名な教育者)。

青年突撃隊は当初は志願であったが、1980年代初頭になると、強制的に農場に送り込まれるようになった。隊には米はあったが、食料が不足し、ご飯に塩と唐辛子で食べた。運河や堰堤の建設にも従事し、オンニュー(Ông Nhiêu)堰堤の時には1万人が参加した。

カンボジア戦争が勃発すると青年突撃隊も駆り出された。第1回目の動員は選抜だったが、第2回目からは部隊全員の動員となった。スオンは第2回目の動員でタイニンに向かった。第2大隊に配属され、カンボジア国境から4・5キロの所で道路建設に携わった。戦闘があれば、弾薬運びをした。スオンの隊(第303連隊・第2大隊)の駐屯地に敵が襲撃し、20人余りの隊員が殺害される事件があった。この事件以来、大隊も武器を装備するようになったが、銃の使い方がよく分からず、誤射で死人もでた。

カンボジア領内でも道路建設をおこない、コンポンチャム、ポチェントン飛行場にもいたことがある。カンボジアの人々はベトナム軍を丁重に扱ってくれた。スオンは大隊の副政治員を務めた。カンボジアに1年ほどいて1979年10月に帰国した。

帰国後、市のホー・チ・ミン主席記念地区の仕事(案内人、ガイドオ)を10年近くし、その後、ホーチミン市文化局の第5区文化センターに勤務した。ここの建物は元々はビンスエン派の首領レ・ヴァン・ヴィエン(Lê Văn Viễn:1904ー1972年)の妾の家であった。2009年に退職した。

カンボジア駐屯時に敵の襲撃で亡くなった20人余りの遺体は現地で埋葬されたが、その後、タイニン省の戦没者墓地に遺骨が移された。

夫も元青年突撃隊隊員で、二人はカンボジアで知り合った。帰国後、1980年に結婚した。夫は音楽家のレ・ヴァン・ラップ(Lê Văn Lập)。青年突撃隊の音楽家として有名で、楽曲「わたしは木橋を渡る(Em đi qua cầu cây)」(youtube.com/watch?v=0LplY6WdyuY)をつくった人である。

◆フオン・ランとスオンはベトナム戦争終結後に青年突撃隊に参加した人である。サイゴン市内の出身で比較的高学歴者である。志願の動機は戦中派と比べるとだいぶ異なる。南部の青年突撃隊は戦後、カンボジア戦争に動員されている点が注目される。北部の青年突撃隊と異なる点である。ベトナム戦争中の青年突撃隊隊員は入隊して比較的直ぐに入党したケースが見られるが、フオン・ランとスオンの二人は入党していない。偶々そのような二人が重なったのかも知れないが、戦中派とは入隊と入党とのあり方が異なっている。

おわりに

ベトナム戦争中の南部の青年突撃隊については、ベトナム国内でもその存在はあまり知られていない。今回の聞き取り調査で、カンボジア戦争に南部の青年突撃隊が参加していたことが確認された。それにしても、カンボジア戦争の戦死者のデータが明らかになっていないのはどうしたことであろうか。あるネット記事では、カンボジア戦争(1979~1989年)で2万人以上としている(VOV 22-12-2016)。中越戦争についても公式的な数字は出ていない。ベトナム戦争についても、ごくごく大雑把な数字である。戦争証跡博物館の展示でも、「30年の戦争(1945ー1975年)でベトナム民族は多大な損失を被った。死者約300万人(そのうち民間人200万人)、負傷者約200万人、行方不明者30万人)」と記しているのみである。正確な数字を割り出す技術的な困難さがあることは承知しているが、他にも理由があるのではないかと疑ってしまう。

ホーチミン市(1)後編のスアン(⒀)の話によれば、戦後、北部と南部の青年突撃隊は特に儀式もなくしれっと統一したという。元々、両方とも共産青年団傘下の組織であるので当然と言えば当然である。現在、青年突撃隊はまだ存続しているが、以前と比べるとその規模は非常に小さくなっている。若者の社会奉仕活動は「青年突進(thanh niên xung kích)」と呼ばれる組織によって主に担われるようになっている。

(後編 了)




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