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Ⅰー31. ハノイ知識人が語る社会主義諸国連帯とベトナム戦争の記憶

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(32)
★2016年3月3日~11日:ハノイ市、フエ市、クアンチ省、ホーチミン市
見出し画像:越ソ友好文化宮(ハノイ市)の敷地内にある労働者像

はじめに

 2016年3月、科研「紅い戦争のメモリースケープ ー旧ソ連・東欧・中国・ベトナム」の研究グループでベトナム視察旅行に出かけた。ハノイに滞在中、視察の一環としてハノイ在住の知識人A氏に「社会主義諸国連帯とベトナム戦争の記憶」についてインタビューさせていただいた。今回はそのインタビュー内容およびその後に同氏から送られてきた補足メモの内容についてのご報告である。

 まず視察旅行の日程は以下の通りである。
3月3日:成田空港発、ハノイ・ノイバイ空港着。市内ホテルに投宿。
3月5日:研究グループを空港まで出迎え。午後、ホアロー監獄、越ソ友好
     文化宮、統一公園を見学。
3月6日:午前、バーディン広場、マイジック墓地。午後、女性博物館、軍
     事博物館、レーニン公園、リー・トゥ・チョン公園、抗仏戦争像
     公園を見学。夜、ホテルにてA氏にインタビュー。
3月7日:ノイバイ空港発、フエ・フーバイ空港着。約2時間かけてアルオ
     イ(A Lưới)を訪問し、枯葉剤記念館などを見学。夜、フエ市内
     のホテルに投宿。
3月8日:午前、チュオンソン墓地へ。午後、ヴィンモック(Vĩnh Mốc)・
     トンネル、ヒエンルオン橋、ゾックミュウ(Dốc Miếu)の記念碑
     を訪問。フエ市内のホテルに戻る。
3月9日:フーバイ空港発、タンソニャット空港着。戦争証跡博物館を見学
3月10日:午前、クチ・トンネル、ベンズオック烈士殿を見学。午後、統一
     会堂を見学。
3月11日:タンソニャット空港発、成田空港着。

 なお、同科研の研究成果は、越野剛・高山陽子編著『紅い戦争のメモリースケープ ー旧ソ連・東欧・中国・ベトナム』(北海道大学出版会、2019年)などにまとめられている。

 今回のインタビュイーのA氏は男性で、1954年にハノイで生まれ、ハノイで育ち、高校卒業後、ベトナム戦争に出征した。戦後復員し、ハノイ総合大学(当時。現在のハノイ人文社会科学大学)で学び、卒業後、ベトナム社会科学院・某研究所の研究員を務めてきた。

トンニャット・マッチ工場製のマッチ箱。同工場は1956年に北部で最初の工場として設立された。

Ⅰ.幼少期の思い出

 抗仏戦争終結直後の1954年に生まれた。国が社会主義建設に進もうという時期だった。小さい頃、兄さん・姉さん世代の人たちが学校で習う詩文を音読しているのを聞いて覚えてしまった。
    セメント工場では煙があたりに立ち込め
    6つの倉庫のある港ハイフォンで汽笛がけたましく響く
    車両が次々とつながり
    友邦国の機械が列車で運ばれる
    これが兄弟の友情
    労働者の腕には千の花が咲く
    この機械はモスクワから
    はるか遠くから我が国に運ばれ
    建設闘争に貢献する
    恩義、恩情の機械がここにあり

 ハイフォン市のセメント工場や6つの倉庫はフランス時代につくられたが、1954年以後も社会主義諸国の援助で稼働していた。トンニャット・マッチ工場のマッチ箱には次のような文句が書かれていた。
    ソ連おじさんが中国おばさんと結婚し
    おじさんはゲタをはき、おばさんはクツをはく
    おじさんは縄跳びをし、おばさんはボールを蹴る
「兄弟の社会主義諸国」という言葉は広く使用されていた。

1962年のSKDAでのベトナム・チームとハンガリー・チームの交流。

 1962年、ハノイで兄弟社会主義諸国軍隊スポーツクラブ・サッカー選手権大会(SKDA)が開催された(12の参加国)。チケットを買うために、服やさらには当時の貴重な財産だった自転車と交換する人がいるほどだった。その時には食品が沢山売られ、配給手帳なしで「自由販売」され、子ども達は思う存分、おいしいものを食べれた。ソ連、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアのチームが注目され、ベトナムの軍隊スポーツクラブはテーコン(Thể Công)だった。(筆者注:SKDAはハノイでは1984年、1989年にも開催された。1989年が最後の大会となった。1962年のSKDAの様子については、以下の記事にある動画を参照のこと:https://znews.vn/the-cong-con-hon-ca-ten-mot-doi-bong-post881016.html )
 バレーボールも人気があり、背を向けて高くボールをあげる「朝鮮サーブ」がもてはやされた。ソ連や兄弟社会主義諸国の友情を讃える歌が広まった。
    地球上にあざやかな紅い光が燦然と輝き
    ベトナム・中国・ソ連、我々の友情は確固たるもの
    南の全人民は困難を乗り越え、帝国主義殲滅に決然と進む
    千年の鋼鉄のように堅固な要塞、平和を築く
    我々の友情は強い力であり、千年、闘争する

 その頃、ソ連あるいは中国が援助して建設されたものには、ハノイ市のカオサーラー(Cao Xà Lá)工業団地、トゥオンディン(Thượng Đình)工業団地、マイジック(Mai Dịch)大学区、ターイグエン市の鉄鋼工場、ハバック省の肥料工場がある。ヴィエットチー(Việt Trì)の新都市も主にソ連の援助によって建設された。

中国製ラジオ「紅灯」

Ⅱ.学齢期の記憶

 自然科学系の科目の教科書巻末にある参考文献にはロシア人の名前があった。当時、本はとても稀少だった。いつでも入手できた本に「画報」と呼ばれる本があった。硬い紙で印刷が美しかった。ソ連や中国について紹介していて、毎週日曜日、中国大使館に行って「画報」をもらった。中国の「画報」では、貧雇農出身の紅衛兵が地主に闘争する文化大革命について紹介していたのを覚えている。
 ソ連や中国の映画も多く上映された。ソ連の赤軍が白軍やナチスに勝ち、中国の紅軍が反動分子をやっつける、というものばかりであった。
 ソ連や中国の物語・小説もよく読まれた。『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(オストロフスキー作)はベトナム人の多くの世代の枕頭の書となった。物語『老人コタビッチ(Khottabych)』(Lazar Lagin 作)は老人を指す言葉としてベトナム語「Khốt ta bít」が使われるほど親しまれた。中国の物語では、『三国志』、『西遊記』、映画「智取威虎山」(1970年、原作は曲波『林海雪原』。「戦略で虎山を攻略」の歌あり)などが私たち若者を夢中にさせた。
 ソ連の宇宙船「ボストーク(東方)1号」の成功を讃える詩も生まれた。
     宇宙船ボストーク
     大気圏を飛び、空を飛ぶ
     人間の心臓をつれて
     地球の精華、ソ連人
     幾多の星が歓呼する
     地球君、こんにちは
     天地の間を飛ぶ人、こんにちは
     共産主義の鳥の翼を広げ
     我々の自慢の人
     労働者の腕も飛ぶ翼に
     ・・・・・・・・・・
 当時、路上にはソ連製の自動車(ポピェーダPobeda, モスクヴィッチMaxcovich, ヴォルガ Volgaなど)が走っていた。ソ連や社会主義諸国の商品(布、衣服、時計など)が売られていたが、商品は少なく、配給キップが必要だった。ハノイの家庭には、ソ連製の自転車、扇風機、ラジオなども登場していた。私の家では、中国製のラジオ「紅灯」があり、外国の放送も聞けた。ラジオは登録が必要で、敵国の放送を聞くのは禁止されていた。
 食料は少なかった。毎月の配給基準により購入した。米と小麦粉を含む食糧は麺に加工された。白い麺が買えたらラッキーで、ソ連の粉の麺が買えたと人々は言った。精白された砂糖があればキューバの砂糖だと言った。
 社会主義諸国に留学した人たちが持ち帰った扇風機、自転車、ラジオ、時計などはみんなの羨望の的だった。

A氏が通っていた名門ベトドク(越独)高校(ハノイ市)

Ⅲ.出征していた時期の記憶

(1)入隊から南部出征まで
 1971年の10年生の時、召集令状がきた(筆者注:当時の北ベトナムの教育制度は4・3・3制)。クラスではお別れ会が開かれ、寄せ書き帳をもらった。革命の困難な時期を打開する人民軍隊の大作戦である1972年の春季攻勢(イースター攻勢)を準備するための動員だった。学業をやめて「全国出征」の雰囲気が高まり、出征は青年世代の誇りであり、出征できない友人たちは羨望の目で入隊する私たちを見た。
 入隊者はハノイ郊外のタイトゥウ(Tây Tựu)社に一旦集合した。しかし一週間後、帰されて学業に戻った。解散する際に、戦闘部隊の兵士の精神と気概をもって学業に励むようにと訓示を受けたが、もはや以前のように学業に集中することはできなかった。
 卒業試験と大学入試を終えた2日後に再度入隊することになった(筆者注:北ベトナムの大学入試は1970年から導入された。それ以前は、履歴、成績、兵士に行った兄弟数などを勘案した推薦制)。1971年9月のことだった。全国はクアンチの戦いに関心が集まり、毎日、ニュースが伝えられていた。ハノイ郊外のトゥーリエム(Từ Liêm)県ダイモー(Đại Mỗ)社に集合した。集合した人たちには、ホアンキエム(Hoàn Kiếm)区とドンアイン(Đông Anh)県に住んでいる2つのグループがあった。都心のホアンキエム区から来た人は、ホーチミン・サンダルか、金持ちの家の人はプラスチックのサンダルを履いていた。郊外の農村のドンアイン県から来た人の中には裸足の人もいた。A氏の部隊では彼の学歴が一番高かった。多数の人は7年生卒であった。
 1週間の基礎訓練を受けた後、背嚢、衣服、帽子、靴・ゴムサンダルなどの軍装が支給された。それらは中国製だった。訓練中の銃は、ソ連製、ポーランド製、チェコスロバキア製だった。ポーランド製、チェコスロバキア製の方がソ連製より錆びにくかった。さらなる訓練のため、ホアビン省に向かった。徒歩で1週間かかった。ホアビン省で6か月訓練を受けた。ムオン族の高床式の家に分宿した。ムオン族の人は、家の一番いい場所を兵士たちに譲った。炊事は大隊ごとにおこなった。食事は米とトウモロコシの混ぜご飯で、量も足らず、いつもすきっ腹をかかえていた。
  ほとんど人が皮膚病にかかった。部隊の看護士が患者を全裸にして患部に薬をぬる時に、患者が悲鳴をあげると部隊はおおいに沸いた。
 背嚢に土を入れて背負い、行軍訓練がおこなわれた。昼間におこなったり、夜間にもおこなった。数日間にわたる時もあった。訓練期間中、逃げ出す人もいた。でも完全な逃亡ではなかった。数日間ハノイにいて、訓練地に戻ってきた。私の大隊には、病気だといって訓練を受けようとせず、部隊が南部に向けて出発した時も北部にとどまった人がいた。戦後聞くところによると、その人は「収容単位」(戦場に行こうとしない人を対象とした単位)に入れられたという。
 部隊が南部に出発する前、「栄養補給(ăn dưỡng)」制度で1か月足らずではあったが、食料が十分に提供されて、たらふく食べることができた。南部出征前、5日間の休暇をもらい、ホアビンから徒歩でハノイに帰った。
 休暇が終わり、ダイモー社に戻った。出征前、農業合作社の倉庫の庭でハノイ文工団の公演があり、みんなで楽しんだ。

ホーチミン・ルート

(2)南部出征:ホーチミン・ルートでチュオンソン山脈を縦断
 1972年3月、ダイモー社から出発して、ハノイ郊外のタインチー(Thanh Trì)県ダイアン(Đại Áng)社まで行軍した。北部を思わせる物はすべて捨てるように命令された。その晩、新しい軍装品(中国製。武器はソ連製:AK, 手りゅう弾、対戦車砲B.41)を受け取った後、整列して指揮官の訓示を聞いた。兵士の多くの家族がハノイの南25キロのトゥオンティン(Thường Tín)駅に見送りに来ていた。列車が動き出すと、多くの人が手を振った。列車でヴィン(Vịnh)市まで行った。
 ヴィン市からは車で移動した。軍事境界線区域に入ると、クアンチの戦いが終わり、解放されていた。クアンチ省ドンハー(Đông Hà)市から国道9号線でチュオンソン山脈に入った。チュオンソン山脈のホーチミン・ルートでは、歩いたり車に乗ったりしたが、道路状態が悪かったので荷物を車に載せて歩くこともあった。各人が20~25キロの荷物を背負った。そのうち米が10~15キロをしめていた。小隊ごとに炊事した。朝、交替で朝食を用意し、昼飯用のおにぎりも作った。中国製缶詰の魚や肉も少しあった。 
 ホーチミン・ルートでは、ソ連製、中国製、チェコスロバキア製、東ドイツ製など多くのトラックが走っていた。(筆者注:ハノイの西のハドンにあるホーチミン・ルート博物館には日野自動車のトラックも陳列されていた。キューバから寄贈されたものと説明されていた)

ホーチミン・ルート博物館に陳列されている日野自動車のトラック

 ホーチミン・ルートが通行止めになり、数日間休みになったことがあった。食糧用の山草を探していると、ハノイ出身の案内員と出会った。彼は1967年からチュオンソンにいるという。同郷のよしみで、いいことを教えてもらった。他の案内員が「こちらに行くと危ない」と言ったら、そちらには食べられる山草や米蔵があると。そのお陰で、私はチュオンソン行軍中、得難い食料を入手することができた。
 山草採りに行ったある時、真新しいお墓を見つけた。案内員に聞くと、最近爆死したタインホア出身の青年突撃隊の人のお墓だという。そのお墓の周りには、山草の根菜がびっしりと生えていた。それはコントゥム省の有名なゴックリンの人参だった。
 敵機からおびただしい伝単が撒かれることがあった。時には森全体が真っ白になるほどだった。指揮官は、兵士がそれを拾って読むのを禁じた。しかし夥しい量があったため、それは無理な相談だった。兵士たちはそれを便所紙に使用するとともに読んだ。敵の伝単は兵士たちに何の影響も及ぼさなかった。ある時から山影が見えなくなり、チュオンソン山脈を抜けて南ベトナムの東南部に入った。

戦争中、分宿していた家の家族と再会したA氏(ヴィンロン省、2007年)左端

(3)メコン・デルタでの戦闘
 1972年の7月か8月、ビンフオック省のブードップ(Bù Đốp)の町に着いた。ここからが本格的な南部だった。ブードップは解放されたばかりだったが、爆撃の痕跡はまだ生々しかった。しかし道端には多くの物売りがいた。驚いたのは「味の素」が大量に売られていたことだ。ハノイではテトの時に小さな包みが配給されるだけだった。ゴムひもにも驚いた。北部では古くなった自転車のチューブを切ってつくっていたので、南部のゴムひもに繋ぎや継ぎがないのが不思議だった。2・3週間滞在してカンボジア領内に入った。
 カンボジアには2か月ほど滞在した。カンボジアでは爆撃がなかったので、昼に行軍した。時々、クメール・ルージュによる銃の窃盗や殺人事件があった。しかしカンボジアは美しく、広々とした耕地があり、魚介類は無尽蔵だった。ニワトリ、アヒルも多く、兵士たちは衣服と交換した。長袖の服一着でニワトリ10羽だった。町を通ると、立派な邸宅があったが、いずれも無人だった。クメール・ルージュが住んでいた人を農村に移住させたのだった。ベトナム国境付近で3週間、水泳の訓練をした。カンボジアにいた時は軍隊生活で一番安楽な時期だった。山登りもなく、食糧が十分にあり、概してカンボジアの人々は非常に友好的だった。
 カンボジア国境のヴィンテー運河を渡河し、ベトナムに再び入った。雨季でウーミンの森の中を行軍した。第9軍区・第1中団・第307大隊・第1中隊に配属になっていた(第1中団はすべて北の兵士)。第1中団に合流するまでに、サイゴン軍の砲撃により部隊の人数は3分の1から2分の1になっていた。メコン・デルタでの戦闘は水中での戦闘が多く大変で、寝るところも水浸しで煮炊きもままならなかった。戦闘でない時は、私たちは解放区の民家に分宿した。人々はとても親切で部隊を援助してくれた。メコン・デルタまでは遠距離で輸送が困難だったので、重い兵器は持たず、ソ連製、中国製の比較的軽い歩兵兵器のAK、B.40、B.41が使われた。衣服、薬品、食料は現地で生産か、敵の占領地から「かすめ取った」。
 1972年末か1973年初、カントー省ヒエップ県に進軍した。ここから本格的な戦闘が始まった。1年ほど、ここに駐屯し、その後、チャーヴィン省に移動した。1974年末か1975年初、ヴィンロン省に入り、ここでの戦闘で足を負傷した。
 メコン・デルタでは果物や食べ物も物珍しかった。家屋も北部とまったく異なり、ヤシの葉でつくられていた。どの家にも大きな避難壕があった。農村なのに、ハノイでも珍しい物がたくさんあった。衣服、電池、味の素、などがたくさん売られていた。物売りの舟から私がアイスクリームを買うと、北部農村出身の兵士はそれを知らなかった。
 当時、サイゴン兵は特別なラジオを装備していた。小さくてポケットに入るもので、サイゴン放送だけ聴こえた。戦死したサイゴン兵のラジオを取って聴いた。その戦況報道の内容の反対を想定すると大体当たっていた。指揮官は聴くのを禁じたが、私たちは聴くのをやめなかった。
 1975年4月30日夜近くに接収のためカントー市内に入り、サイゴン軍兵舎だった所に逗留した。カントー市で目にしたオートバイ、冷蔵庫、ステレオ、カセットテープ、ジーパン、長髪など、何もかもが目新しく、めまいがする想いだった。その頃、ハノイにはテレビはまだ普及しておらず、日曜日夜にだけ放送があり、テレビのある特別の場所に見に行ったものだった。ところがカントー市では、テレビの販売店があった。
 短期間、カントー市内にいて、郊外に移り、その後、西南国境戦争に参加した。

DMZのベンハイ川にかかるヒエンルオン橋

(4)ベトナム戦争終結後
 ベトナム戦争終結直後の1975年5月15日にチャウドックでクメール・ルージュと戦った。さらにクメール・ルージュが占拠していたタイランド湾の島々を攻略した。彼らから大量の中国製の武器を鹵獲した。それにより中越間の団結に疑念が生じた。古傷のためカントー市で治療。その後、食糧生産のため部隊はハウザン省トットノット県で稲作に従事した。
 1977年に復員し(A氏はずっと二等兵だった)、首都司令部が組織した試験に受かり、ハノイ総合大学(今のハノイ人文社会科学大学)に入学した。1982年に卒業。1978年に華僑の帰国騒ぎがあり、中越間は緊張した。『中国白書』が発行され、ハノイではクメール・ルージュの罪悪に関する展覧会が開催され、中国は敵になったと私たちは学習した。中越戦争では総動員令が出され、学生も「カウ川の防御線」構築に参加した。1979年以降も両国の軍事的衝突はあったが、1985年から両国間の再接触が始まり、1989年に会合が開催され、1991年に正式に国交正常化がはかられた。1990年代になると、中国商品がまた流入するようになった。
 いろんなことがあったが、かつての社会主義諸国の援助には感謝している。

無名戦士の碑(ハノイ市)

おわりに

 以上のA氏のインタビュー内容について、気になる点を以下にまとめてみた。

①ベトナム戦争中、社会主義諸国とは政治・経済・文化・スポーツを含めさ
 まざまな領域での交流・連帯があった。しかしA氏はあまり強調しなかっ
 たが、時期によりそれには変化・濃淡があり、また中ソを上位とするタテ
 の関係性が強かったことを指摘しておきたい。
 
②当時の旧北ベトナムにおける戦争動員圧力の強さを再確認させられる。旧
 北ベトナムでは家系存続のため男の子のうち一人は戦場への出征を免じる
 措置を講じていた。したがってA氏は一人っ子だったので入隊を避ける手
 立てはあったはずなのに、1970年代初頭の社会的雰囲気は誰しも入隊する
 のが当然というものであり、そのためA氏は高校を卒業して直ぐに入隊し
 た。ただ、A氏の話にもあったように、頑なに戦場に行くことを拒む人も
 いたようで、そのような人は「収容単位」に入れられたらしい。

③A氏の戦争経験はベトナム戦争終盤の時期のものである。北の正規兵とし
 て、ホーチミン・ルートやカンボジアを経て、1972年に南部に入ってい
 る。所属部隊は第1中団でこの部隊は兵士全員が北の兵士であった。ベト
 ナム戦争終結に直接的に結びついた「ホーチミン作戦」は北から南下する
 進攻であったばかりでなく、メコン・デルタに既に浸透していた北の正規
 兵から成る主力部隊のサイゴンへ向けての東への進軍でもあった。

④A氏たち北の兵士は、敵の撒いた伝単やサイゴン放送を聴いても政治信念
 は動揺することはなかった。しかし北部に比べて南部の物の豊かさには衝
 撃を受けていた。この衝撃が政治信念にどのような影響を与えたのかは不
 明だが、戦後、南部由来のドイモイ(刷新)を受け入れていく精神的基盤
 になったのではなかろうか。
                            (了)





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