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Ⅰー29. ベトナム戦争末期のハノイの学徒出陣:ハノイ市

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(29)
★2015年1月4日~1月12日:ハノイ市、ナムディン省、タインホア省

画像:1971年9月入隊前の計画経済大学(現在の国民経済大学)の学徒兵

はじめに

第二次大戦中、日本では、敗色濃厚な1943年に大学生・高専生に対する徴兵猶予が停止され、学徒出陣が始まった。大貫恵美子『学徒兵の精神誌』(岩波書店、2006年)は、学徒兵のなかでも特攻隊員たちの手記を克明に分析し、彼らの知性と心情を明らかにした名著である。

旧北ベトナムにおいてもベトナム戦争中(1954ー1975年)、学徒兵が存在した。1970年から1972年までハノイの大学生1万人以上が出征した。出征した人が最も多かったのは1971年である。学徒兵の戦死者が最も多かったのは、1972年のクアンチ古城の81日間の戦いである(以上、VnExpress 27-04-2015 の記事による)。

◆学徒兵についての資料動画「1972年の学徒兵 ー帰る日なき戦い」
https://www.youtube.com/watch?v=lNfZmVlNU98

今回の調査は、ハノイ市において、元学徒兵だった6人に聞き取りをおこなった。調査にあたっては、ハノイ人文社会科学大学のベトナム研究センターにお世話になった。調査日程は以下の通り。ちなみに、今回の聞き取り調査は自然科学大学でのものが多かったが、人文社会科学大学と自然科学大学は以前は共にハノイ総合大学(1956ー1993年)に属していた。しかし現在は分離している。ただし、同じハノイ国家大学の一員で、主キャンパスは以前の総合大学のキャンパスなので、隣接している。

1月4日:日本発、ハノイ着。
1月5日:午前、ハノイ人文社会科学大学ベトナム研究センターで打合せ。
1月6日:午前、自然科学大学で2人にインタビュー。午後、平和村訪問。
1月7日:午前、インタビュイーの自宅にてインタビュー。午後、自然科学
     大学にて2人にインタビュー。
1月8日:午前、インタビュイーの自宅にてインタビュー。
1月9日:タクシーにてタインホア省に向かう。途中、ナムディン省のゴイ
     山駅(Ga Núi Gôi)にて青年突撃隊の慰霊碑に参拝。タインホア
                  市で昼食。午後、タインホア市作家協会へ。作家のキュウ・ヴオ
                  ン(Kiều Vượng)氏と同省の青年突撃隊幹部と会う。タインホア
                  市内のお休み処に投宿。
1月10日:午前、ダイ氏の戦死した戦友の親族を訪ねる。昼飯をご馳走にな
     る。午後、キュウ・ヴオンの自宅を訪問。タクシーにてハノイに
     戻る。
1月11日:午前、知識出版社にて編集長のチュー・ハオ(Chu Hảo)氏と会
     う。同日深夜、ハノイ空港発。翌朝、日本着。

今回のインタビュイーは6人。全員が男性でハノイ市在住。5人がハノイ総合大学で、1人がハノイ医科大学の卒業生。今回はたまたま理系の卒業生ばかりとなったが、学徒兵は文系・理系問わず、各大学から動員されている。。以下のリストの記載事項は順に、名前、生年、出身地、入学年、学科、入隊年、除隊年、復学年、職歴、入党年、その他、である。

①タック、1950年、ヴィンフック省出身、1968年、総合大学地質学科、
 1972年、1978年、繰り上げ卒業、空間研究センター教員、1973年。
②ファーイ、1952年、タインホア省出身、1969年、総合大学地質学科、
 1972年、1975年、1975年、地質学科教員、1988年
③トゥイ、1952年、タイビン省出身、1969年、ハノイ医科大学、1975年、
 2009年、卒業済み、軍医となり大佐で退役、1978年
④ズー、1952年、ゲアン省出身、1971年、総合大学数学科、1972年、1975
 年、?、数学研究所所長、?
⑤リエム、1951年、ハタイ省(現ハノイ市)出身、1970年、総合大学地質学
 科、1972年、1976年、1976年、化学士官学校、?
⑥チャン、1951年、タイビン省出身、1969年、総合大学地質学科(後に経済
 学科に転学)、1972年、1975年、1976年、党宣教委員会、?

現在のハノイ国家大学・自然科学大学

1.タック(1950年生まれ):ハノイ総合大学地質学科卒

ヴィンフー省(現ヴィンフック省)出身。父は公安で西北地方の工作に従事し、ほとんど家にいなかった。母は農業と小商いをしていた。タックは一人っ子で軍隊に行かないこともできたが(筆者注:1960年軍事義務法第27条の規定)、志願した。国のために貢献する出征はとてもよいことで、出征しないことは友人たちに顔向けできず、逃亡は恥辱だった。実家は「抗戦地主」だった。土地改革の時は「地主」で、誤謬修正の時に「抗戦地主」に分類された。その後、伯父さんが革命活動をしたので、「貧民」の成分に「格上げ」された。

高卒後の1968年に外国留学に行ける資格があったが、手続きが間に合わず、またチェコで異変があったので、無試験で総合大学の地質学科に入学。大学のキャンパスは、入学時はレ・タイン・トン通り。その後、バックターイ(Bắc Thái)、ドンアイン(Đông Anh)、クダー(Cự Đà)(ハタイ省、現ハノイ市)と毎年、転々と疎開した。バックターイの時は山中で防空壕を掘り、キャッサバを食べた。タックは、クダーの時、1972年5月に入隊した。タックは最終学年で卒業まじかだった。卒論のテーマは「タイビン省の石油・天然ガス」であったが、最終審査はなく繰り上げ卒業となった。

入隊時、クダーの村に集まり、軍装が支給された。だれのリュックの中にも、語学書、トー・ヒュウ(Tố Hữu)の詩集、日記帳が入っていた。トー・ヒュウの詩集とオストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』はタックたちの枕頭の書だった。地質学科で同じ時に入隊した者は4人で、みな海軍に配属になった。タインホア省で歩兵の訓練を受けた後、クアンニン省で水中訓練を受けた。3か月の訓練の後、クアンチ省クアヴィエット(Cửa Việt)地方に派遣された。敵艦にソ連製の水雷を仕掛けるのが任務だった。潜水夫隊の特殊隊員だったので、手紙のやり取りは大隊の政治員を通さなければならなかった。

パリ和平協定(1973年1月)後、ドーソン海域で米軍が敷設した水雷の除去作業に従事した。それが終わると、ランソンの軍隊補習文化学校で2年余り教鞭をとった。その間にベトナム戦争は終結した。戦後1976年にチュオンソン兵団に配属され、中部高原のバンメトートからダラットにかけての地域でFULRO(被抑圧民族闘争統一戦線)の鎮圧にあたった。

1978年に除隊。負傷はしなかった。同期入隊の人は復員の時はばらばらだった。タックのクラスには戦死者はいなかったが、学科全体では何人かが戦死している。帰ってきた時、誰もが歓迎したわけではなかった。軍隊帰りは学業が中断されたため専門性が弱かった。地質学科に戻るべきだったが、指導教授の勧めでベトナム科学院へ。科学院時代は生活が苦しく、キャッサバの粥で食いしのいだ。しかし新領域の宇宙工学を一所懸命勉強し、この分野では最初の「副進士」号取得者となった。

軍隊には6年間いた。復員してからも対中国に備えて予備軍に参加していた。退役時は少尉。

平和村(ハノイ市)の子ども達・スタッフと

2.ファーイ(1952年生まれ):ハノイ総合大学地質学科卒

タインホア省ハーチュン(Hà Trung)県出身。母は父の第二夫人だった。母は産後まもなく亡くなり、ファーイは祖母と暮らした。2人の異母姉妹がいた。妹は米軍の爆撃で1966年に亡くなった。ファーイは地元の高校に通学したが、在学中に学校は2回疎開した。

ハノイ総合大学地質学科の4年生になったばかり時に入隊した。1972年4月のハイフォン市爆撃で大学はクダーに疎開した。5月に徴兵検査があり、数人だけ入隊。ファーイたちは同年9月に入隊した。その時、大学はハバック(Hà Bắc)省に疎開していたので、訓練を同省ルックナム(Lục Nam)県で3か月(9月~12月)受けた。ファーイたち総合大学からの学徒兵は、歩兵に配属された。学徒兵は二等兵からで、特に優遇はなかった。ファーイの大隊は兵士全員が学生だった。

1973年1月3日、南部へ向けて出発した。ニンビンまで列車、ヴィンまでは車で、チュオンソン山脈に入ると徒歩と車だった。ラオスの第5駅站からは徒歩だけになった。カンボジアを1か月近くかけて通過し、南部のタイニンに着いたのは7月6日で、出発から6か月余りかかった。到着した翌日から戦闘が始まった。敵軍にはもはや米軍はおらず、サイゴン軍だけで「我々は敵だし、敵も我々だった」という状況。パリ和平協定締結(1973年1月)直後の2か月は友好的で、「和合の家」がつくられ、ジャックフルーツを敵味方で分け合って食べたこともあったが、その後は交戦状態となった。ファーイが配属されたのは第4軍区の第271中団(1947年創立)であった。この部隊はデルタでの戦闘で損耗が激しかったため撤退し、ファーイたちが補充されたのだった。1975年のホーチミン作戦の時は、第3師団に加わり、ロンアン省を攻撃した。

解放直後はロンアン省ドゥックホア(Đức Hòa)市を接収した。1か月足らずでビエンホアの歩兵改造第500中団に移り、ダラット士官学校を卒業したばかりのサイゴン軍中尉クラスの管理・監督をした。1975年末に北に帰り、復学した。最終学年の続きを勉強したが、追いつくのに相当努力しなければならなかった。ファーイのクラスでは5人出征し、幸い全員生還した。一年下のクラスも同じ時に出征したが、一人が戦死している。ファーイの推測では、学徒兵の1割ほどが戦死しているのではないかという。

ファーイによれば、当時、学生だったが、勇士となる望み、戦闘に行く願望があり、入隊した。しかし兵力が不足していたために学生までが応召されなければならなかったことは、国にとっての損失であった。

トゥイ氏(自宅にて)

3.トゥイ(1952年生まれ):ハノイ医科大学卒業

タイビン省出身。父は抗仏戦争で戦死。叔父と兄もベトナム戦争で戦死し、祖母と母は「ベトナムの英雄的母」の称号を与えられた。地元の高校を卒業して、1969年にハノイ医科大学に入学。入学時、大学はタイグエン省に疎開していたが、その後ハノイ近郊のビンダー(Bình Đà)に2年疎開していた。さらに1971年末にハノイ市内に戻るも、1972年に空爆が激しくなり、ハノイ近郊のヴァンディン(Vân Đình)に疎開した。同年末、ハノイが米軍による12日間の空爆を受けた時は、ハノイ市内の産婦人科病院で戦闘準備態勢をとっていた。

1975年、繰り上げ卒業して、ベトナム戦争終結直前の4月に入隊した。すべての学徒兵は最初は二等兵であるが、医学生は別であった。トゥイが入隊した時、医科大学全体で97人が入隊した。同期に入隊した学徒兵は600人であった。医科大学生は少尉に任じられたが、トゥイは繰り上げ卒業だったので准尉であった。軍医大学と呼ばれた103学院で一週間軍隊での医療を学び、解放直後の1975年6月にダナンに向けて出発した。

トゥイを含む27人の医科大生は第5軍区に派遣された。トゥイはクアンナム省タムキーの第572旅団に配属された。その後、ビンディン省フーミー(Phù Mỹ)基地に駐屯した。ここはサイゴン軍第22師団の基地だった所だ。そこで部隊はFULROの鎮圧にあたっていたが、カンボジアでの事件が発生した。トゥイは旅団の軍医主任として、カンボジア派遣の兵士の選抜・訓練をおこなった。

1978年にトゥイは入党してすぐにカンボジアに派遣された。トゥイの部隊は、1978年10月、中部高原を通ってカンボジアのラタナキリに一旦入った。途中、FULROに襲撃されて一人が死亡した。12月から国境線沿いで戦闘が始まり、12月23日には国境を越えた。翌年1月7日にはストゥン・トレン(Stung Treng)に到達した。湖には8000もの遺体があった。その後、バッタンバンに向かった。カンボジア情勢は1977年から深刻になっていた。トゥイは、1978年から1984年7月まで6年間、カンボジアにいた。

カンボジアから帰ると、帰省して国防部国防工業局の第299療養団に勤務した。1994年には首都軍区の静養団の団長を務めた。2009年に退職。退役時は大佐。1977年に結婚。新婚時代は集合アパートに住み、4組の夫婦が同居した。現在の家は、国防部が支給してくれた。

一緒に学徒出陣した97人の医科大生のうち、2人が戦死した。『トゥイーの日記』(ダン・トゥイー・チャム著、高橋和泉訳、経済界、2008年)で有名なダン・トゥイー・チャムは同じ医科大学の先輩にあたる。

ナムディン省のヌイゴイ駅にある慰霊碑。1966年8月20日、米軍が貨物列車を空爆した。炎上した列車の鎮火にあたっていた14人の青年突撃隊隊員が亡くなった。

4.ズー(1952年生まれ):ハノイ総合大学数学科卒業

ゲアン省出身。中高はヴィン市の学校に通う。1971年、2回目の大学入試を経てハノイ総合大学数学科に入学。入学して数か月で入隊。ファーイ(②)やリエム(④)と同じ時期。訓練地はハバック省。ズーのクラスで同期入隊は7人いたが、南部に行ったのはズーだけだった。南部に行って戦闘するのが一般の兵士の願望であるが、学徒兵にとっては北部にとどまるのが望ましかった。南部に出征したのはいわば義務で、最初は精神が高揚していたが、しまいには減退していった。しかし任務を放棄した人は少なかった。それがベトナムの勝因である。

ベトナム戦争には特殊な点が幾つかあるが、チュオンソン山脈はベトナムにとって利点となった。ここは入ってしまえば艱難辛苦が待ち受け、ここから抜けて戻るは難しい一方通行であったからだ。チュオンソン山脈を踏破する3か月間は野菜がなかった。ジャングルの野草は雨季だけ食べられ、乾季はめったに食べられなかった。出発前にツミレと塩が支給され、各駅站で米と塩が補給された。たまに干し魚が補給されることもあった。

南部では最初はタイニン省にいて、1973年なかばから1974年なかばまで中部高原南に駐屯した。さらにその後、東南部で南部中央局防衛の戦闘に参加した。当地では、テト攻勢(1968年)やその後の「平定」のため、1967年にジャンクションシティーの戦いを戦った兵士はほとんど残っていなかったし、1970・71年に来た人も僅かしか残っていなかった。ズーによれば、ベトナム戦争があと2年続いていれば、彼も生きていなかっただろうという。1975年初のフオックロン攻撃でも、解放軍の戦いぶりは以前より劣化していたという。フオックロンの後、ドンタップムオイ、タンアン市に駐屯し、サイゴンと国道4号線を遮断しようとした。敵の反撃を受け、後退したが、再反撃し、ロンアンまで来たところでサイゴン解放の知らせが届いた。その知らせを聞いた時にはまず「死なずにすんだ」という感想をもった。

1975年末から76年初に北部に戻った。就学中の学徒兵は復学が方針だったからだ。数学科に復学したが、年齢のこと、マラリアなどの病気を抱えていたことなど、困難があった。卒業後、大学で教鞭をとるようになった。現在は、ゴ・バオ・チャウ数学研究所の所長をしている。

ベトナム戦争中、数学科では100人に及ぶ学生が出征した。最も犠牲が大きかったのはクアンチの戦い(1972年)である。ズーの同期は戦死者は多くない。ズーの意見では、今後、テト攻勢とクアンチの戦いの歴史については書き改めなければならない。テト攻勢は、悲惨な後遺症をもたらした。ズーは、中部高原南にいた時、ハンモックに横たわる多数の解放軍兵士の死体を目撃し、土中に埋められた多数の銃を発見した。これはテト攻勢から撤退してきて、補給がなく餓死・病死したり、部隊が餓死する前に埋めたものだった。解放軍の戦い方は、速戦・速勝・速撤退のゲリラ戦法であったが、ベトナム戦争の末期にはその方針が守られなかった。1968ー70年以後まで生き残った兵士は、多くが前線ではなく兵站や医療にかかわっていた人である。

ズーによれば、クアンチの戦いはパリ和平協定の交渉を有利に進めるためだといわれているが、異なる。アメリカは1967年から軍隊の撤退を望んでいた。ハノイが深く干渉しなければ、戦争は1968年に終わっていた。クアンチの古城をあれだけの多大の犠牲を払って守るだけの軍事的・政治的・和平交渉的意味はなかった。

ベトナム戦争を描いた映画で、実際とは違うと思われることが幾つかある。一つは、短銃をもって「進め」と叫ぶ大隊長の姿だ。短銃ではなく自動小銃だ。二つ目は、どこでも子どもがいることだ。これは違う。さらに兵士同士の呼び方も「同志(đồng chí)」とはめったにいわず、「お前・俺(mày tao)」だ。服装もとても異なっていて、北部と南部では異なる。

タインホア省に行く途中に立ち寄った犬肉・ヤギ肉屋

5.リエム(1951年生まれ):ハノイ総合大学地質学科卒業

ハタイ省(現ハノイ市)出身。7人兄弟姉妹で、男は4人とも出征。長兄は負傷兵。地元の中高を卒業し、1970年にハノイ総合大学地質学科に入学。ファーイ(②)は学年が一つ上だが、入隊は同期だった(1972年)。二人は同じ中隊で訓練を受け、東南部の戦場ではファーイは第271中団・第2大隊、リエムは第1大隊に配属された。当時の東南部では米が不足し、かわりに緑豆を食べた。南には北にはないものがあった。それは、輪ゴム、味の素、「モンキーティー」などである。

戦場では何度も死にそうになったが負傷はしなかった。1973年12月のバンメトートでの戦いは、敵と接近した最初であった。1974年4月にマラリアにかかり、入院した。それ以降、戦闘には参加できず、1976年に除隊。リエムは、ファーイ(②)の一年後輩で、除隊が一年遅れ、勉学も一年遅れたので、卒業は三年遅れとなった。卒業後、軍事学科に配属され、1994年には化学士官学校に転任した。

リエムのクラスは約半分が出征した。男子学生はほとんどが出征した。一年上のファーイ(②)の学年は43人いて、そのうち14人が女性で、卒業したのは28人であった。戦場では、死はとても簡単だと感じた。死ぬべきではない多くの死があった。ベトナムが勝利したのは、より強い意志があったからであり、「天の時、地の利」の要素があったからである。

チャン氏(党宣教委員会アパートの自宅にて)

6.チャン(1951年生まれ):ハノイ総合大学経済学科卒業

タイビン省出身。祖父は儒者、父は教員。1969年8月にハノイ総合大学地質学科に入学。入学後、ハノイ近郊のドンアイン県に疎開。学生時代は苦しかった。学費等は国家が負担してくれたが、食べる米がなく、スイトンでしのいだ。生活は苦しかったが、勉学に励んだ。米軍が空爆を停止して、一時、大学はハノイ市内に戻ったこともあったが、1972年にはハタイ省ウンホア(Ứng Hòa)へ、さらにタイグエン省のフービン(Phú Bình)に疎開した。

1972年9月、学生に対する最後の総動員で大学から直接入隊した。チャンのクラスは40人足らずであったが、彼と同時期に10人余りが入隊した。送別の時、女子学生が名残惜しく見送ってくれ、感動的だった。抱き合って泣き、「この春、ぼくは帰らない(xuân này con không về)」など、当時「消極的な黄色い音楽」と見なされていた歌を一緒に歌った。生きて帰れるとは思っていなかった。精神的に強がっても、そう考えていた。

◆筆者注:「黄色い音楽(nhạc vàng)」とは南北分断時代の旧南ベトナムでつくられた音楽。「この春、ぼくは帰らない」は1960年代に南ベトナムでチン・ラム・ガン(Trịnh Lâm Ngân)によってつくられた「黄色い音楽」の代表的な歌。
https://www.youtube.com/watch?v=Univx-__gbo

ハバック省(現バックザン省)で3か月訓練を受けた。チャンの所属する小団は兵士がほぼ学生で、若干の大学若手教員がまじっていた。学生も教員も二等兵だった。それ以前の学徒兵は技術系兵種であったが、チャンの同期は歩兵だった。訓練後、一時帰宅が認められ、ハノイの南にあるトゥオンティン(Thường Tín)に再集結し、南部に向けて出征した。支給された軍装品は、ハンモック、2着の衣類、薬、水殺菌薬、水筒、飯盒、米などである。ニンビンまで列車。そこからクアンビン省ボーチャックまでトラック。それ以降は徒歩だった。ラオス領内にいる時にパリ和平協定締結の知らせがあった。南部タイニン省のカトゥム(Cà Tum)まで7か月16日かかった。多くの人がマラリアにかかった。

1973ー74年の主な任務は、中部高原と東南部の結節点の地区において敵軍を阻止することであった。敵軍の第23師団と戦い、犠牲は大きかった。1974年末、ビンフオック省ブーダン(Bù Đăng)を解放した。軍隊の中には、学生は「プチブル」だという差別思想があり、学徒兵に火砲を持たせろということで、チャンはロケットランチャーB.41を渡された。1975年1月6日にはフオックロンを解放した。つづいてタイニン省のモックバイ(Mộc Bài)を攻撃したが、多くの戦死者が出た。チャンの大隊でも10人以上が戦死した。1975年4月30日、ロンアン省ドゥックホア(Đức Hòa)を解放した。

3年余り戦場にいた。ジャングルの中、女性の声も聞かず、姿も見なかった。敵はサイゴン軍で、アメリカ人は軍事顧問が残っているだけだった。

1975年に北に戻った。復学しようとしたが、復学希望者が殺到し、学長から次年度まで待ってくれと頼まれた。それで国防部に復帰し、タイビン省隊の補習文化学級で教鞭をとった。1976年に復学。当時、総合大学のキャンパスは幾つもに分かれていた。チャンは経済学科に転学した。復学しても物不足で生活は大変で、食糧自給の方針の下、学生たちがバーヴィー山でキャッサバの栽培をしたこともあった。卒業後、党の宣教委員会に入った。ベトナムの経済的困窮は、市場を禁じた計画化経済の間違いによるものであった。それに対する疑問の声が1983年ごろからあがり、1986年のドイモイとなった。

相棒ダイ氏の戦友を祀った祭壇(タインホア省)

おわりに

今回の聞き取り調査で注目すべき点について以下にまとめる。
◆旧北ベトナムにおける学徒動員は、1968年のテト攻勢とその後の「平定」によって大きな損耗を受けた解放軍の兵員不足を補うものであった。学徒動員の時期は1970ー72年とされるが、トゥイ(③)のように1975年に動員されているケースもある。ただこれはベトナム戦争終結直前の特殊なケースかもしれない。今回のインタビュイーは1950ー52年生まれで、入学まもなく入隊した人から繰り上げ卒業の人までいた。

◆米軍の北爆により、北ベトナムの高校、大学は1972年まで疎開することを余儀なくされた。ハノイ総合大学も何度も疎開地を変えた。

◆学徒兵は一般に二等兵として入隊した。ただ、医科大学卒業生は異なり、ふつうは少尉に任官された。総合大学生は歩兵に配属されることが多かった。百科大学生は砲兵、通信兵が多かったといわれる。

◆学徒兵はリュックの中に書物、日記用の手帳をしのばせていることが多かった。トー・ヒュウの詩集や小説『鋼鉄はいかに鍛えられたか』がよく読まれていた。また、「永遠の二十歳」シリーズにみられるように学徒兵が残した日記はベトナム戦争日記文学の重要な一翼を担っている。さらに、チャン(⑥)が大学の送別時にみんなで「黄色い音楽」を歌ったとの証言をしていることは大変興味深い。にわかには信じられないが、もし本当のことであれば、「黄色い音楽」によって南北の若者は感情的に共振していたのであろう。

◆今回のインタビュイーは知識人ということもあり、率直な物言いをされることが多かった。「戦争については上手な嘘が多い」との指摘もあった。ズー(④)の発言にみられるように、テト攻勢やクアンチの戦いについては、ベトナム国内外を問わず、さまざまな意見・評価が見られる。とりわけクアンチの戦いについての否定的評価は、学徒兵の犠牲があまりに大きかったことから起因するところが大きい。

◆大卒の兵士と学徒兵は、チャン(⑥)が言っていたように時には「プチブル」との批判を受けやすかった。そのせいか入党することへの関心は高かった。チャン(⑥)によれば、出征した当初、誰が入党できるかが話題によくのぼったという。入党できれば光栄だし、意気軒高となった。トゥイ(③)は、1978年に入党したが、本来は1976年に入党することになっていたのに、上司の嫌がらせで入党が遅れた経緯を長々と話した。こういった党員としての自負・自制と「プチブル」性との葛藤は『トゥイーの日記』にもよく窺われる。

◆トゥイ(③)の証言にみられるように、1978年のカンボジアへの進攻の際、西南部からのルートのほかに、中部高原からの進攻ルートも存在した。

                            (了)




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