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Ⅰー19. 移住者たちの戦争の記憶:ビンフオック省(前編)

ベトナム戦争のオ-ラル・ヒストリー(19)
★2011年5月16日~6月3日:ハノイ、ホーチミン市、ビンフオック省、ホーチミン市

はじめに

今回の聞き取り調査地は南部のビンフオック省。ここはチュオンソン山脈が切れてメコン・デルタへとつながる位置にあり、西側はカンボジアと接し、鬱蒼としたゴム園が広がっている新開地である。ベトナム戦争中は、ホーチミン・ルートの出口とも目され、省内のロックニン県には南部解放武装勢力司令部軍事委員会基地と南ベトナム共和国臨時革命政府事務所(見出し画像)が置かれていた。

2011年5月16日に日本を発ち、ハノイ市に。ハノイの定宿のホテルのロビーに東日本大震災チャリティー募金の箱が置かれていたのに感動した。5月18日、ハノイ市からホーチミン市に移動。5月19日午前7時15分にホーチミン市のホテルからタクシーでビンフオック省に向かう。途中でハンモック・カフェーにて休憩し、烈士共同墓地に立ち寄り、午前10時半すぎに省都ドンソアイ市に到着。省の人民委員会で手続きをし、昼食後、省の退役軍人会に挨拶と打合せに伺う。

ビンフオック省では19人に聞き取り調査をおこなった。5月20日に同省の旧青年突撃隊隊員会から紹介いただいた元隊員4人(インタビューはドンソアイ市の同会事務所にて。このうち1人は退役軍人でもある)、5月23日に同省の退役軍人会事務所(ドンソアイ市)で5人の退役軍人、5月24日にフオックロン市の退役軍人会事務所にて4人の退役軍人および2人の元党幹部、5月25日・26日に同省の枯葉剤被害者の会の紹介で4人の枯葉剤被害者の会員(3人は退役軍人、1人は元青年突撃隊)にご自宅でお話をうかがった。
(退役軍人13人、元青年突撃隊5人、元党幹部2人。1人のダブリあり)。19人中、男性は14人、女性5人。

今回のインタビュイーの特徴は、他所からビンフオック省に移住してきた人が多いことである。地元出身といえるのはミア(女、1944年生まれ、元党幹部)ズオン・トゥエット(女、1950年生まれ、准尉)ミン・トゥエット(女、1942年生まれ、元党幹部)だけで、しかもミアはお隣のビンズオン省出身、ズオン・トゥエットは両親が北部からの移住者、ミン・トゥエットは幼少時にクアンガイ省から移住してきている。男性で南出身者はティエン・フン(ベンチェー省)、チェオ(ホーチミン市)、チン(ビンディン省)の3人がいるが、共に1954年のジュネーブ協定後に北部に「集結」しており、ベトナム戦争中に兵士として再び南部入りしている(ティエン・フンは1966年、チェオは1962年、チンは1966年)。

そのほかの男性はすべて移住者で、タインホア省5人、タイビン省3人などとなっている。トゥン(男、1952年生まれ)はカオバン省出身のタイー族である。

南部武装勢力司令部軍事委員会基地の入口(ビンフオック省ロックニン県)

(1)多層・多様的なビンフオックへの移住

ビンフオック省への移住にはさまざまな契機で、さまざまな時期に移住がなされてきており、ベトナム戦争もその契機の一つとなっている。インタビュイーの聞き取りから以下のようなタイプがあったと思われる。

①ゴム・プランテーション労働者としての移住
ズオン・トゥエット(女、1950年生まれ)ミン・トゥエット(女、1942年生まれ)の親の場合がそうである。正確な移住時期は不明だが、仏領期か抗仏戦争中の時期である。

②ゴ・ディン・ジェム政権下の営田(Dinh Điền)政策による強制移住
ドン(男、1952年生まれ)は中部クアンガイ省の出身であるが、ゴ・ディン・ジェム政権期の1962年に彼の父は革命活動家であったため、当時のフオックロン省(現ビンフオック省の一部)の営田に強制移住させられた。この営田は戦略村構築のためにつくられたもので、ビンフオックでは1965年に解放されるまで存在した。

③ベトナム戦争後の「新経済区」政策による移住
新経済政策は未開地を開拓するというもので、北ベトナムでは1961年から始められたが(Ⅰー10. ディエンビエン省を参照)、ベトナム戦争が終結して南北統一された1976年から全国規模で行われるようになり、ホーチミン市在住者や北ベトナムの人々が中部高原やビンフオック省のような東南部に移住した。2000年までに500万人にものぼるとされている(WIKIPEDIA ベトナム語版による)。

ビンフオックでの聞き取り調査の時の雑談で、「新経済区」による南の移住者は開拓の苦難に堪えられずに逃げ帰った人が多く、我慢強い北からの移住者が多く残ったという話を聞いた。私は1980年1月に初めてホーチミン市を訪れたが、その時に中心部のグエン・フエ通りの中央分離帯に新経済区帰りだといわれる人々がいっぱい野宿していたのが鮮明な記憶として残っている。

さて、自由移民ではなく新経済区政策で移住した人には、ティエム(男、1946年生まれ、タイビン省出身、元青年突撃隊)が1978年(この年はタイビン省からの流入が最多)、ヴァイ(男、1947年生まれ、タインホア省出身、中佐)も1978年、トゥン(男、1952年生まれ、カオバン省出身、少佐)は1979年、ファーイ(男、1949年生まれ、タインホア省、兵士)は1978年、ハイ(女、1954年生まれ、タイビン省、元青年突撃隊)が1979年、チー(男、1931年生まれ、ニンビン省出身、元兵士)が1985年である。ハイの場合はタイビン省の青年突撃隊隊員として、新経済区移住の先遣隊として送り込まれた。あとの人々は郷里での生活苦のため移住してきた。このうち、トゥンファーイチーはビンフオックでの戦場経験があり土地勘を持っていた。

トゥンはタイー族であるが、ビンフオック省の統計によれば、2019年の同省の総人口は99万4679人で、そのうち少数民族は19万5635人(19.67%)となっている。少数民族での上位は、①スティエン(96,649人)、②タイー(24,862人)、③ヌン(23,917人)、④クメール(19,315人)、⑤ムノン(10,879人)となっており、元々北部の少数民族であったタイー、ヌンが上位に来ているのが興味深い。あと同じくムオン、ザオ、ターイも上位10位に入っている。

ティエム(男、1946年生まれ、タイビン省、元青年突撃隊)は、1978年にタイビン省から集団で移住した。彼の社では、当初は北部の合作社をモデルとして、70戸の合作社をつくった。彼の話では、1986年のドイモイがなければ、暮らしに行き詰ってどの家も逃散したのではないかという。合作社のやり方が合わなかったし、稲作が適合的ではなかったという。それで彼は社に先駆けて、ゴムとカシューナッツの栽培を始めたという。

ファーイ(男、1949年、タインホア省、元兵士)の話では、当初、国の開拓奨励策もあり、彼は多くの土地の開墾に努力したが、その後の農業・合作化政策により国にかなりの土地を接収され、残りの土地でゴムやカシューナッツの栽培をしてきたという。またチー(男、1931年、ニンビン省、元兵士)の息子の話によると、先住民の戦争放棄地に入植し開墾した土地を後に(ドンソアイ市が成立した時1999年)、とても安い補償金で多く接収されてしまったという。

④自由移住と退職地移住
自由移住したのは、マイン・フン(男、1936年生まれ、タインホア省、元青年突撃隊)で妻の兄弟が先に移住していたので1988年に移住した。

あとの人は軍隊等の赴任先が当地になりそのまま定着したケースである。ヴァン(男、1945年生まれ、ハノイ市、元青年突撃隊から兵士に)は1984年に同省ドンフー県人民検察院長に赴任し、退職後もそのまま定住した。トゥー(男、1940年生まれ、タイビン省、中佐)の所属部隊は1980年9月に当地に来て農場でゴム生産の経済活動に従事した。退職前から彼は土地を買い、1985年には家族を北から呼び寄せた。フン(男、1946年、ベンチェー省、大佐)チェオ(男、1933年生まれ、ホーチミン市、大佐)ゴアン(男、1942年生まれ、ハイズオン省、大佐)チン(男、1942年生まれ、ビンディン省、上尉)は軍歴の最後をビンフオックの地方部隊幹部として過ごし、退職後も当地に定着した場合である。これには個人の意志もあるだろうが、政策的配慮もあるかもしれない。

このように移住の契機として戦争は大きな地位を占めているといえる。

フオックロン戦勝記念像(ビンフオック省フオックロン市)

(2)ホーチミン・ルート行軍の苦労


インタビュイーの元兵士で北から南の戦場に来た人はみなホーチミン・ルートを通った。ホーチミン・ルートは時期により道路事情が異なり、またルートも複数あった。駅亭(trạm)も次第に整備された。

ヴァン(男、1945年、ハノイ市)は、背が低く体重不足で軍隊に入ることができず。1965年に青年突撃隊に入った。青年突撃隊で北ベトナムのイエンバイ飛行場の建設に従事した。この建設には中国軍も従事しており、両者は友好的な関係を保っていた。ただし、文革中であった中国軍から提供される毛沢東の著作やバッジの受け取りは禁じられていたという。
テト攻勢後の1968年3月、彼の所属していた青年突撃隊の部隊の男性隊員は、兵力不足のため、軍隊に補充された。入隊してすぐに南へ行軍。イエンバイから徒歩でニンビン省まで、そこからは中国車「黄河」に乗り、クアンビン省まで。7台名、2台が爆撃で失われた。クアンビンからチュオンソン山脈に入った(B45ルート)。中部高原のダクト・タンカインの戦いに参加し、その後、南ラオス、ケサン、クアンチで戦い、クアンチで負傷し、北部で治療を受け、1973年に退役した。

戦場への食糧供給に関して、ベトナム戦争中のホーチミン・ルートの駅亭(trạm)制度は、抗仏戦争のディエンビエンフー作戦中の補給のやり方から教訓を汲んでいる、とマイン・フン(男、1936年、タインホア省、元党幹部)は言う。彼は青年突撃隊として、ディエンビエンフーの戦いの時、タインホア省からディエンビエンまで米を運んだ。この戦いの時、タインホア省からの食糧供給は一大ルートであり、主な担い手は青年突撃隊であった。というのは、当時、第3軍区以外は敵の一時占領地区であり(主要な北部デルタはフランスが占領)、タインホアは解放区だったので、青年突撃隊員を多数動員できたという(あとゲアン省も。民工はイエンバイが多かった。その頃のイエンバイも解放区)。
一人で米35キロを背負って行った。自分で担いだ米を食べながら運び、なくなれば駅亭の倉庫から補充する。彼の隊はタインホアから35匹の牛を連れてきた。野宿で4日移動して、1日休みで牛を1匹屠殺して食べた。タインホアから目的地まで1か月半かかった。食糧の運搬に象を使ったこともあった。

ヴァイ(男、1947年、タインホア省、中佐)は1966年に入隊し、11か月後に南部へ向けてハタイから徒歩で行軍し、ホーチミン・ルートを4か月余りかけ、1967年6月にビンフオック省のブードップ(Bù Đốp)に到着した。行軍中は壕を掘り、テントを張り、煮炊きし寝た。毎週1日休み。彼の中隊では、爆撃死よりもマラリアによる死亡者の方が多く、7・8人にのぼった。ホーチミン・ルートの駅亭間は7~20キロあった。

トゥン(男、1952年生まれ、カオバン省、少佐)は1971年に北部から(起点は不明)、ビンフオック省ブードップまで3か月余りで来た。

チェオ(男、1933年、ホーチミン市、大佐)は、部隊ごと北部に「集結」していた。1961年にフーロイ監獄投毒事件が発生し、みな発憤し訓練に熱が入るようになり、チェオの第14小団も南部に向かうことになった。それまでの南部への投入は、毎次、数十人の兵士と民政幹部だけだったが、1961年から小団レベルでも投入されるようになったという。南部へ向かう最初の日、車でクアンビン省のドンホイまで行き、数日休んで、チュオンソン山脈を登り始めた。装備は各自32キロ。チェオの小隊は北部に「集結」した時は9人だったが、南部に入る時は4人のみだった。1962年にビンフオックに到着。

ゴアン(男、1942年、ハイズオン省、大佐)は、1960年に軍事義務法に基づき入隊。北ベトナム最初の空挺部隊といわれる第305空挺旅団に入り、ソ連や中国の専門家によって訓練された。1963年末、「南部の戦場が呼んでいる」方針により、南部の戦場へ。第305旅団は、小さな単位に分かれて時をずらして秘密裡に南部入りすることになった。1964年7月、ゲアン省のクアロから行軍。覆いのある車でクアンビン省ランホーまで。ここで部隊の軍装を捨てて、農民の労働服を着、フランスのベレー帽をかぶり、行軍。チュオンソンでの行軍は30~35キロの荷物を背負い、4か月かかり、大変な苦労であった。ゴアンはマラリアに罹り、ビンフオックに着いた時には、毛髪がすっかり抜け落ちていた。

チン(男、1942年、ビンディン省、上尉)は、父について1955年にクインニョンからポーランド船に乗り北に「集結」。1964年に部隊に入り、66年に南部入りを志願。北部から徒歩で1001峠、ラオス、カンボジアを通って南部B2の戦場に辿り着くのに丸5か月かかった。

ギア(男、1951年生まれ、タインホア省、上士)は1969年に入隊し、4か月のタインホア省で訓練後、南部にむかった。徒歩で6か月かかった。

ビンフオック省の省都ドンソアイ市

(3)ビンフオックでの戦局の記憶

①フオックロン(Phước Long)の戦い(1965年)まで

ドン(男、1952年、クアンガイ省、元兵士)の家族は、ゴ・ディン・ジェム政権下の1962年に営田に強制的に移住させられた。当時、フオックロン市を防衛するためにジェム政権は同市の周囲に営田・戦略村を張り巡らした。ドンによれば、当地に来たばかりの頃はまだ革命勢力はなく、64年頃から登場するようになったという。ミア(女、1944年、ビンズオン省、元党幹部)が、当地のゴム労働者に対する大衆工作を始めたのが64年からだった。ズオン・トゥエット(女、1950年、ビンフオック省、准尉)がゲリラに参加したのも64年であった。
ゴアン(男、1942年、ハイズオン省、大佐)が所属していた第840小団はほとんどが南出身の兵士であったが、64年に戦略村を攻撃した。65年にはフオックロン小区を攻撃し、フオックロン市およびその周囲の営田・戦略村を解放した。これは解放勢力側が南部の都市を占拠した最初であった。ゴアンは、これにより「特殊戦争」は失敗に終わり、アメリカはベトナムに直接介入せざるをえなくなったと指摘する。しかし66年にはフックロンは奪回された。

②テト攻勢(1968年)

ヴァイ(男、1947年、タインホア省、中佐)の所属する第212中団と第213中団はテト攻勢でフオックロン市を大晦日の夜12時に攻撃した。しかし朝8時になると敵が猛反撃し撤退せざるをえなくなった。ヴァイは渡河中に負傷し、彼の大隊約50人のうち40人近くが戦死し、所属中隊の18人のうち4人しか残らなかった。フオックロンでの戦いで2個小団のうち約800人が戦死した。このように解放勢力側は大きな被害を受けた。ヴァイはカンボジアで6か月治療を受けた。
ズオン・トゥエット(女、1950年、ビンフオック省、准尉)の部隊もカンボジア国境まで敗走し、敵の厳しい掃討を避け、69年は非常に困難に陥りカンボジアから供給される食糧でかろうじて食いつないでいた。軍区に戻れたのは71年になってからであった。
ゴアン(男、1942年、ハイズオン省、大佐)によれば、テト攻勢時の気勢は高かったが、力不足だった。テト攻勢直後には思想的動揺も見られたが思想的に貫徹する学習がなされたという。当地の南部解放軍が一番困難だったのは1969・70年で、テト攻勢でフオックロン、フオックビンを攻撃したが占領できず、被害は甚大であった、修復できないうちにホー主席が亡くなった。アメリカとサイゴン政権は激しく掃討し、枯葉剤を散布。B52の爆撃とあいまって、深刻な食糧不足になった。カンボジアに避難した人だけがお米のご飯を食べられた。多くはないが投降した人もいた。この時期、解放勢力側は解放区の住民に敵の占領地区への一時的避難を呼びかけるほどであった。

③1975年の南部解放

ズオン・トゥエット(女、1950年、ビンフオック省、准尉)は、1971年に軍区に戻ってきた。グエン・フエ作戦(1972年4月1日~1973年1月19日)により東南部の反攻作戦が進められた。ゴアン(男、1942年、ハイズオン省、大佐)はフオックロン副県隊長として同作戦に参加した。この間、ロックニンの戦い(1972年4月5~7日)、アンロックの戦い(1972年4月13日~5月15日)が起きている。ズオン・トゥエットはグエン・フエ作戦に参加し、翌73年からは敵占領地区に潜入して兵運工作に従事した。
1974年12月26日にドンソアイ市解放、1975年1月6日にフオックロンが解放され、4月30日のサイゴン解放に向けての糸口を付けた。フオックロン解放の時、チェオ(男、1933年、ホーチミン市、大佐)は県隊長であった。ゴアンはフオックロン市での戦闘を直接指揮した。

チーと末娘

(4)枯葉剤被害者に関する聞き取り(数字は調査時のもの)


ビンフオック省の元幹部であったズオン・トゥエット(女、1950年、ビンフオック省、准尉)によれば、同省には身体障がい者(枯葉剤被害者と目の不自由な人を含む)が1万5千人おり、多くは戦争の被害者だという。ビンフオック省の枯葉剤被害者は2007年で2786人で、補助金を支給されているのが599人。この2786人は幹部・軍人などで、一般人(当然、元サイゴン軍兵士も含む)はまだ未調査とのこと。実際の被害者はその4倍程度いるのではないかと思われるとのことだった。彼女によれば、枯葉剤被害者は革命功労者優遇法令の対象ではなく、社会福祉政策の対象とすべきだという。私たちは4軒の枯葉剤被害者の自宅を訪問し、お話をうかがった。

ギア(男、1951年、タインホア省、上士)は本人が枯葉剤被害者で1972年頃から発症した。手で物を軽くつかめるだけで、食事はなんとか一人でとれるが困難。ごく少食で不眠。1979年に生まれた長男は重い精神病で徘徊し学校にも行けず31歳で亡くなった。暴力をふるったので鎖でつないだこともあった。あとの2人の子どもは今のところ普通。ギアは病気のため早期退職し、現在、年金が月に350万ドン余り。

ファーイ(男、1949年、タインホア省、元兵士)は5人の子どものうち5人が枯葉剤被害者(長子はすでに死去)。2番目の娘は本人は普通であるが、その子どもに影響が出た。第3子(男)は一日中徘徊して家に帰ってこない。幸い暴力はふるわない。あと2人の娘は、飲食とトイレは自分でできるが、あとは介助が必要で、母親がずっと面倒を見ている。ファーイはそれでも前向きに仕事に取り組んでおり、自宅も自前で建て、「情義の家」の提供を打診されたが他人に譲った。現在、家全体で福祉手当など600万ドンを受給している。

ハイ(女、1954年、タイビン省、元青年突撃隊)は6人の子どものうち、第1子と第3子(すでに死去)が枯葉剤被害者で、いずれの子も手足が6本指で、目がよく見えなかった。ご飯はスプーンでかろうじて自分で食べれる。ハイの夫も青年突撃隊で一緒に当地に赴任し結婚した。夫はベトナム戦争世代ではなく抗戦に参加しておらず(革命功労者ではない)、その後カンボジアに出征したが、途中で逃げ帰ってきたので、軍人年金が受給できず、社会福祉手当のみで、各子どもに月に18万ドン受給している。

チー(男、1931年、ニンビン省、元兵士)は出征前に生まれた3人の子どもは普通であるが、出征後に生まれた末娘が枯葉剤被害者である。末娘は一日中、一か所に座ったきりで、トイレ以外は全てで介助しなければならない。よく食べて眠るので太り気味である。長男が末娘を養っている。父子二人で1か月に330万ドンの所得がある。

3000人の墓。
1972年夏の米軍爆撃により殺害されたビンロン省(現ビンフオック省)アンロック市同胞の安息所。

                     ビンフオック省(前編) 了










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