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私の千日回峰行 -数字からの解放-

朝散歩を始めたきっかけは、コロナ禍だった。
あれはもう4年前になるのか……。
2020年3月、緊急事態宣言が出され、
勤めていた会社も、リモートワークが導入された。
朝9時始業。
リモートの朝礼ギリギリまでのんびりし、
5時になるやPCを閉じてまたまたのんびりしていた。
リモートワーク、最高!
それまで私は徒歩通勤をしていて、
往復4、50分、1日7000歩くらいは歩いていた。
リモートワーク開始から3日ほど経った頃だろうか、
夜、よく眠れなくなった。
歩数計を見ると、毎日500歩くらいしか歩いていなかった。
このままだと、いずれ歩けなくなる……。
恐怖にも似た焦りを覚え私は掻き立てられるようにして、
終業と同時にルームウェアのスウェットのまま外へ飛び出した。
そして1時間ほどかけて近所の住宅街を歩きまわった。
1週間ほど続けると、夜もよく眠れるようになった。
歩くことの大切さをしみじみと実感し、
リモートワークが続く間は散歩も続けようと思った。
たまに友達と合流して一緒に散歩をするようになった。
ある日、私は小山を指差し、
「あそこに登ってみようよ」と提案した。

これが私の「千日回峰行」の始まりだった。
小山といえど馬鹿にできない。
平坦な舗装された道路を歩くのとは大違いであった。
今は10分ほどで登れる小山も、最初は倍の20分かかった。
20分連続で踏み台昇降運動をしているようなものでとてもキツく、
スマホのヘルスケアに表示される「上った階数」は「35階」になっていて
度肝を抜かれる。
こんな階数、ビルの階段では絶対に無理だ。

来る日も来る日も歩き続けた。
夏の暑い日も、冬の雪がちらつく朝も、風が強い朝もひたすら歩き続けた。
特に夏がつらい。
冬は歩いていれば体が温まってくるが、夏は体力を奪われる。
湿度の高い蒸す日なんて、もうこの世の地獄である。
それでもめげずに歩き続けた。

昨年の夏頃だっただろうか。
私はいったい何日ここを歩いたのだろうとふと気になった。
勢いで散歩習慣を始めてしまったせいで、
目標も決めていなかったし記録もしていなかった。
スマホの歩数計を見ながら、過去の散歩した日付を書き出してみた。
すると、900日ほど歩いていた。
1年365日と考えると、もうとっくに1000日超えていると思っていたが、
天候の影響などで、まだ1000日には達していなかった。
あと100日ほどで1000日か……。
その時ふと、修験者が行う「千日回峰行」という言葉が頭をよぎった。

千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、滋賀県と京都府にまたがる比叡山山内で行われる、天台宗の回峰行の一つである。満行者は「北嶺大先達大行満大阿闍梨」と称される。
「千日」と言われるが実際に歩む日数は「975日」である。悟りを得るためではなく、悟りに近づくために課していただくことを理解するための行である。
まず、先達から受戒を受けて作法と所作を学んだのちに「回峰行初百日」を行う。初百日を満行後に立候補し、先達会議で認められた者が千日回峰行に入る。 その後7年の間、1 - 3年目は1年間に連続100日、4 - 5年目は1年間に連続200日、行を為す。無動寺で勤行のあと、深夜2時に出発する。真言を唱えながら260箇所で礼拝しながら、約30kmを平均6時間で巡拝する。
5年700日を満行すると、最も過酷とされる「堂入り」が行われる。
堂入りを満行し「堂さがり」すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨となり、信者達の合掌で迎えられる。これより行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入る。
6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60kmの行程を100日続ける。
7年目は200日行い、はじめの100日は全行程84kmの京都大回りで、後半100日は比叡山中30kmの行程に戻る。

Wikipediaより抜粋

こんな過酷な修行と一緒にしたら、怒られる。
私はそんな大それたことは行っていない。
でも、私の中ではこれに匹敵する価値があるように思えた。
なぜなら、それまでの私は完全に「三日坊主」だっただから。
私が1000日朝散歩をするということは、
私をよく知る人からしたら、
「三日坊主」が「阿闍梨」になるくらいの大出世だ。

そして記念すべき、2023年12月3日。
私は無事、「朝散歩1000日継続」を達成した。
その日の朝はさすがに感慨深かった。
その後、私はどうなったか。
どうにもなっていない。
そう、特に何も変わらなかった。
また淡々といつも通り歩くだけ。
そして、数えることにまったく興味がなくなってしまった。
数字とは、不思議なものである。
数字の目標を掲げたとき、
そこに到達すれば素晴らしい何かが待ち受けているような気がして、
我武者羅に頑張る。
ところが、いざ到達してみると何にもないことに気づく。
いつもと変わらぬ日常が続いているだけだ。

この経験から、私はあらゆる数字に囚われなくなった。
設定した数字を達成したとて、特別な世界に行けるわけではない。
それは単なる通過点に過ぎない。
これを知ることができただけでも、
私の「千日回峰行」には大きな意味があったと思う。

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