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【FF14 紅蓮のリベレーター】ヨツユへの感想

2024年6月29日にパッチ4.3をクリアした直後の感想です。以下、ネタバレのみとなります。ヨツユの人生に脳みそを焼かれた人間のポエムです。








結論から述べると、嬉しかった。ヨツユという存在が嬉しかったのです。
ツユとして生き、記憶を取り戻して自害しようとしたその瞬間、やってきた育て親。
育て親はヨツユが大人――それもかつてはドマの代理総督を任ぜられていた人物となっても、まだ都合の良い道具として見ていた。

育て親は自分勝手な恨み言をぶつけて、ヨツユを売った金で生きていこうとする。その生々しさに、ストーリーに没頭していたはずの「自分」がトラウマを思い出し、ヨツユが育て親を殺した場面で「自分が復讐を果たしたときの思い」を疑似体験した。
「自分」は嬉しくて、けれど復讐を遂げてもすべての恨みや刻まれた恐怖、無力感は消えてくれなかった。そして人を殺すことを肯定していた自分に恐怖する。

紅蓮のリベレーターでは、憎しみの連鎖が折に触れて描かれていました。記憶を失い、ツユと呼ばれたヨツユとゴウセツの関係は、その連鎖からの脱却を示していたのではないかと思っています。
憎悪を忘れる。あるいは置き去る。新たな関係を築いて、救われる。憎しみを捨てていく。

だからこそ。思い出さなければ。忘れなければ。
思い出してしまったから、生きられない。あのシーンのヨツユは美しかった。

ヨツユにとって自害は救いだったのでは、と考えています。ツユとしてゴウセツとの間に交わした感情はヨツユの救いであり、死に至らしめるものだった。あの瞬間、育て親がやってこなければ、ヨツユは憎悪に支配されずに終われたのではと思うのです。

私はヨツユの復讐を無意識に肯定しました。とはいえ、確かにあったはずの救いが崩れ去ったことは苦しい。
ヨツユの最期の言葉から考えると、ヨツユの記憶が戻ったタイミングは、アサヒが連れてきた育て親と対面した場面でしょう。最期にツユとして生きていた自分を肯定したとも考えられますが、私はヨツユ=ツユだと思いたいのでそういうことにします。
というわけで、ゴウセツのもとに泣きはらした顔で戻ってきたのも、柿を剥いたのも、記憶を取り戻したヨツユだった。

ヨツユの罪はあまりにも大きくて、記憶が戻ればツユとして生きられないのも当然です。
とはいえ、アサヒの策略がなければ、憎悪に身体を焼かれずに済んだかもしれない。
けれどアサヒの策略があったからこそ、ヨツユは自らの手で復讐を遂げて、焼かれるほどの憎悪から解放されて、さらにはゴウセツとの思い出を胸に逝けた。

ヨツユの人生は私にとってちょっとした希望でした。
消せない憎悪に疲れていたところに、憎悪から解放された終わりを見た。
つらつら書いてきた感想という名のポエムは、創作だからこそ与えられた希望です。趣味とはいえ小説書きなので、やっぱり創作は人間にとっての救いだなーと実感する次第。

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