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長浜城から西野水道へ!長浜観光のメジャースポットとマニアックな史跡【マニアックな史跡編】

前回までで昼食を済ませた後、湖岸道路を北進して長浜市高月町西野にある水路トンネルの西野水道に赴いた。

西野水道

水道と言うと、埋設された水道管を連想してしまうと思う。
しかし、この西野水道というのは、そのような現代的なイメージの水道ではない。
その正体は、余呉川と琵琶湖とを結ぶ放水路として掘削された水道トンネルだ。

これだけだと、一体何が凄いのか分からないだろう。
実はこのトンネル、なんと江戸時代に完成しているのだ
完成したのは1845年、時代にして黒船来航の8年前、アヘン戦争勃発から5年後と言う時期である。
シールドマシンはおろかダイナマイトすら開発されていない時代に、人力のみで240メートルも掘削してトンネルを貫通させたのである。

西野水道が位置する長浜市高月町西野地区は、余呉川の氾濫による大洪水に悩まされてきた。
一般的に河川は蛇行している箇所で氾濫しやすいものだが、西野地区はちょうど余呉川が蛇行している箇所に位置しているため、氾濫しやすかったのだろう。
加えて四方を山と余呉川により囲まれた低地であり、水の逃げ場がないために洪水被害が悪化し沼のようになったという。

いずれにせよ、山により琵琶湖と隔てられていることによる弊害であり、この問題を解消するためには余呉川の水を排水する必要があった。
そのため、最も効果的な解決策として水路トンネルの建設に踏み切ったというわけである。

赤線は余呉川の本流で、青線が西野放水路

西野水道についての概要を述べたところで、現地の話に戻ろう。
長浜市街地からこの西野水道へ行く際は、湖岸道路を左折して余呉川を渡る必要がある。
菅草橋という名前の橋らしく、同名の信号付きの交差点を左折しなければならないのだが、見事にこれを看過して木之本方面に行ってしまった

いつもなら交差点の名前をしっかり見て覚えておくのだが、今回は細かい確認もせず覚えてもおかなかった事が原因だ。
湖岸道路は走り慣れた道であるし、史跡ともなれば案内標識等の一つもあろうと思い、現地の案内板を見れば容易に分かると思っていたのが甘かった。

結論を言うと、西野水道については大した案内版が無い
ここを左折とか、そういう分かりやすい案内を期待していたが無駄だったというわけだ。
湖岸道路に対して並行するような横長の大看板(田地の中に立っているようなアレ)があったのだが、ドライバーが道路の真横にある看板など悠長に見ていられるはずもなく、案の定気付きもしなかった。

西野水道自体は滋賀県や長浜の観光案内で紹介されているのだが、その割にはここを観光名所にしようという気概は些かも感じられない。
おそらく知名度も低いだろうし、いかに歴史的価値のある史跡とはいえ、そこにあるのは所詮ただの水路トンネルに過ぎない。
江戸時代に掘られた手掘りのトンネルに興奮できるような人間は、世間的にはマイノリティであるという事実をあらためて実感させられる。


無人案内所と西野ほりぬき公園

こんな所でも熊が出るらしい…

現地に着くと、下調べをしていたとおりに駐車場とお手洗い等がきちんと整備されていた。
駐車場は未舗装の砂利だが、駐車スペースには事欠かない広さである。
この日も私以外の車が6〜7台駐車しており、存外観光客が多いのだなあ等と思っていたのだが、どうやら大半が釣り人だったようだ

長靴と懐中電灯は必須アイテム

案内所は無人となっていて、ヘルメットと懐中電灯、そして長靴が貸し出されていた。
滅多なことで洞内の落石は無いだろうから、ヘルメットはあった方がいいと言うレベルだろう。
しかし、懐中電灯と長靴については必須と言っていい。
その理由は後述する。

とりあえず指示されたとおりに長靴を履いて懐中電灯を手に取り、自分の靴を車内に置いてから西野水道へと向かったのだ。

時の大老井伊直弼公より上人の称号を授かったという

無人案内所を過ぎたところには広場があり、史跡らしく西野水道の年表や、西野水道建設の発起人である恵荘上人について簡単に紹介されていた。

さて、いよいよ西野水道に近づいてきた。


西野水道

この右側にある大きな側溝のような空間が、初代の西野水道へ至る放水路だ。
さっそく足を踏み入れたところ、なんと地面がぬかるんでいたのだ
足を踏み入れた瞬間に湿って泥と化した地面に少しだけ長靴が沈んでいったさまを見て、長靴に履き替えることを面倒くさがり普通の靴で足を踏み入れるなどという愚行を犯さなくて良かったと思わずにはいられなかった。

なぜ私がそのような事を思ったかというと、地面がこうもぬかるんでいたことは想定外だったからだ。
いかに水路トンネルであったとはいえ、これが現役だったのは既に半世紀以上前までの話である。※
そのため、まさか地面が湿っているなどとは思いもしていなかったのだ。


昭和25年に二代目の西野水道が開通しているものの、Wikipediaには暫くの間併用されていたという記載があるため、正確にいつ頃まで放水路として使われていたかは不明である。
とはいえ、少なくとも昭和25年の段階でも竣工から100年を超えて使われ続けていたことが分かる。

側溝に降りて歩を進める。
西野水道の東側坑口が見えてきた。

こうしてみると、本当に用水の側溝のようだ…

これが西野水道だ
ついに東側坑口にたどり着いた。
時刻は午後2時であり、真っ昼間といっていい時間帯である

入り口の段階で、もう中が見えないくらいの暗闇に閉ざされているのだ
もう少し歩を進めてみよう。

解像度の低いスマホ写真なので、尚更ぼやけて怖く見える

ヒィ…
さすがに怖い…

一寸先は闇という言葉があるが、この言葉がこれほど相応しい状況も他にない。
電灯ゼロの真っ暗闇であり、言うまでもなく懐中電灯無しで進むことは不可能である。

はっきり言って、下手な肝試しなどよりも怖い
とにかく気味が悪いのだ
いい大人が情けないと思うかもしれないが、実際にそうとしか言いようがないほど不気味な空間だった。

そういうわけで、単独での西野水道への進入は断念した。
機会を捉えて友人と共に再チャレンジしようと思っている。

せめて付近に同じような観光客が居たらよかったのだが、初代西野水道の付近に人気は一切なかった。
この事から、駐車場の利用者の殆どは釣りなどのレジャー目的だったのだろうと推察したわけである。

水が流れた跡が見える

これは西野水道の西側坑口で、二代目の西野水道を歩いて反対側へ向かって撮影したものだ。
坑門の手前部分がコンクリートで覆われているため、本来の坑門はもう少し奥にある。


古保利古墳群

西野水道への進入を断念した私は、一旦長靴と懐中電灯を返却してから東側の広場まで戻ってきた。
西野水道が史跡である事を示す石碑と解説、そしてこの近辺の山が古墳群である事の解説も示されていた。

ただし、古墳と言っても眼前に広がるのは単なる山でしかなく、一体どこが古墳なのかは素人である私には皆目見当がつかなかった。
古墳には大した興味がない私は、解説だけ簡単に目を通して済ませることにしたのだった。
見に行くにしても、この様子では恐らく登山にしかならないだろう。

また、駐車場にあった注意書きによれば、山中には熊が出没するというので、興味関心がある人はそれなりの覚悟をして入山する必要がある。


西野水道(二代目)

赤丸で囲った箇所が2代目西野水道

西野水道は、同じ場所に3代掘削されている。
江戸時代(1845年)に完成した初代西野水道のほか、その南側に作られた2代目が昭和25年に完成している
さらに昭和55年には3代目の西野トンネルが掘削され、西野トンネルへと連なる人工河川である大規模な余呉川放水路と共に完成して今に至る。

余呉川の治水機能を3代目に譲って役目を終えた初代と二代目の西野水道は、いずれも徒歩で通行出来るように整備されている。
上述のとおり初代の西野水道は気軽に通行出来るような代物ではないが、二代目の西野水道は戦後生まれの普通のトンネルなので、単純に山を抜けて琵琶湖に出たいだけならば二代目がメインになるだろう。

かく言う私も初代西野水道の西側坑口を見るため、二代目西野水道を通ることにしたのだ。

二代目西野水道の東側坑口
扁額には「西野水道」と刻まれている

一般的にトンネルの入口である坑口と呼ばれる箇所の上部には、トンネルの名称を冠した扁額というものが設置されている。
この二代目西野水道は普段我々が目にするような道路トンネルではないが、きちんと扁額が設置されていた。

素掘りトンネルよりワンランク上

二代目西野水道の内壁は、モルタルもしくはコンクリートによる吹き付けがされているのみの簡素なものだった。
なお、二代目も電灯は一切ないため、中央部分に行くほど足元などは暗くなっていく。
初代ほどでは無いが、懐中電灯等の明かりがあったほうが安心感を得られるように感じた。

水は澄んでいる

二代目西野水道の側溝には、今も水が流れていた。
増水した際は、広い洞内を一杯に使って排水したのだろう。

二代目西野水道の西側坑口

初代西野水道と同じく、二代目も西側坑口を出たあたりにコンクリートの構造物が被さっており、本来の坑口が少し奥になっていた。
扁額らしきものも見えたが、件のコンクリート構造物によって隠されてしまい、よく分からなくなっていたのは残念だ。


西野トンネル(三代目西野水道)

二代目西野水道を抜けると、その南側に巨大な水路トンネルが姿を現す。
これが現役の余呉川放水路の一部を構成する西野トンネルである。
名前こそ水道からトンネルへと変化しているが、立派な三代目の西野水道と呼んで差し支えないだろう

この辺りは水中で渦を巻いているらしく、非常に危険らしい
水鳥の楽園

ご覧の通り野鳥も多いので、釣りだけではなく野鳥観察を目的に訪れる人も多いそうだ。
この後も再び二代目西野水道を通って駐車場まで戻ったのだが、実は行きも帰りも釣り竿を持った男性と遭遇していた。
明かりも付けていないため、慣れたものなのだろう。

かつて自分たちが命がけで貫通させたトンネルが観光資源となり、人々が呑気に釣りや野鳥観察に興じることが出来るようになった現在の西野地区を恵荘上人が見たら、きっと喜んでくれるのではないだろうか。

左側が南、右側が北という位置関係だ
西野トンネル東側坑口
西野トンネル東側を、余呉川放水路上の橋梁より撮影

長浜太閤温泉 浜湖月

旅の疲れを癒やすは美食と温泉であると、相場が決まっているものだ。
西野水道で歩き回って疲れた私は、温泉で日帰り入浴をしてから帰宅することにした。

浜湖月は、長浜城歴史博物館から湖岸道路を挟んで北側にある温泉旅館だ。
ネットでの評価を少し見たが、どこも星四つ半という極めて高評価な旅館であり、実際にそれに見合った綺麗な旅館だった。

露天風呂からは湖岸道路や琵琶湖を一望することが出来る絶好のロケーションと言える。
料金は1500円と日帰り入浴にしては少々お高めではあるが、それ故に日帰り入浴だけしていく客は少ないのか、利用者は私しか居なかった。
そのため、かなりのびのびとくつろぐことが出来たので、そういう意味でも穴場と呼べるのかもしれない。


これにて長浜の日帰りドライブは終了だ。
西野水道だけで、これほど紙幅を割くことになるとは思っていなかった。
いつも同じことを書いている気がする…

長浜に初めて観光で訪れて、いきなり西野水道に行こうと思う人は恐らく多くはないだろう。
観光地ではメジャースポットだけを行脚するもいいのだが、時にはこういうマニアックで冒険心をくすぐられるような旅をしてみてはいかがだろうか。

夕飯はサイゼでカロリーの塊を食べる

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