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掌編小説│別離

 改札前で子供が泣いていた。未就学児程度の身長に見える男児だ。
 マ゛マ゛ァ……マ゛マ゛ァァァああうううああうあおえんうぅぅ……、のような、擬声語化するとともすれば滑稽に見えてしまう、悲痛な叫びだった。
 この目で見た光景は全く笑えるものでもなかった。私が券売機の操作に四苦八苦している十分弱の間、彼は現れることの無い「母親」をずっとび続けていたのだ。勿論彼は独りではない。父親らしき人物が彼の肩をさすったり、ときには抱き抱えたりしながら一生懸命──でもないかもしれないが、とにかくあやしていた。片手にはスマホを持っていたが。

 私もまた、「母親」と離別した者の一人だ。私が三歳の頃、両親は離婚したらしい。詳しい理由は聞いていない。聞く機会を逃したまま、父親も二年前に他界したからだ。どういうわけかこの社会では女性の育児放棄が流行ってしまう時期があって、大体二十年から三十年周期で起こっているらしい。丁度私はひとつ前の周期に当たっていて、多分それに関係しているのだろうとは思う。
 だから私、は三十路に差し掛かったプレ中年だが、「母親」のいる家庭というものを想像することができない。実の「母親」に執着はないが、周囲との隔絶に辟易することは多い。同僚の結婚話があがり、飲み会では様々な質問が飛び交う。話題の本人は「うちのお袋が嫁さんにはああしろこうしろってうるさくてな」などと語り、既婚者一同は頷く、そういう当たり前に共有される話題の中で一人取り残される。
 私には、泣き叫ぶあの男児の気持ちを汲み取れない。いや、忘れているのだろう。「母親」との離別は普通、年端も行かぬ子供にとっては一大事なのだから。きっと当時の私もあのような恐慌状態に陥っていたハズだ。
 私は今、父親の三回忌に直面している。そのために電車に乗らんとしている。消息の知れない「母親」を除けば唯一の肉親であった父親との離別の傷はまだ深い。男手ひとつで私を育て、苦労してきた父親に、これからやっと恩を返せる。それでようやく生きてきた甲斐があると、そう思った矢先だった。悲しみもさることながら、父親の葬儀の際にあったのは一種の絶望であった。大の大人が大声で喚き散らすわけにもいかず、喚き散らしても何かが元通りになるわけでもないという厭に理性の働いた、静的な疼きだった。喪主の挨拶として父親の同僚や友人(父親は都会の一人っ子であり、親戚と呼べる親戚はいない。私もまた一人っ子である)に向けた顔は、彼らにどう映ったのだろうか。

 男児は結局、私が改札を通過し、ホームへの階段を上るまでずっとその声を構内に響かせていた。男児の父親らしき人物は、私に少し似ているように見えた。

 夕飯の献立を考えながら駅前のスーパーで買い物を済ませた帰り道、通らざるを得ない改札前で五、六歳の男の子が泣いていた。
 その子のお父さんはやれやれといった顔つきで彼を抱き抱え背中をさすっている。
 男の子はママ、ママと彼のお母さんを呼んでいるようだった。多分外出していたお母さんがそろそろ帰ってくるので、パパとお迎えに来た、という感じだろう。それでちょっとママが遅れているので、ぐずっている。
 あの様子だと、お父さんは普段あんまり子供の相手をしていないのかもしれない。不慣れな手つき、ぎこちない表情で困っているのがよく分かる。
 子供は簡単にぐずるし叫ぶ。彼のように、初めは我が子の泣き叫びが周囲の迷惑にならないか不安になるものだけれども、通り過ぎていく人の殆どは何も気にしていない。
 うちの子も今では高校生の生意気盛りだけど、小さい頃は私と離れる度に不安がって泣いていた。幼稚園に行かせるのも一苦労で、慣れるまでの最初の数ヶ月は、登園に私が付き添わなければいけなかった。今では話しかければうざがられるので、懐かしいものだ。

 今どき、土曜日の午前授業なんてウチの高校しかやっていない。つくづく学校選びを間違えたと思いながら、毎週登校し、また下校している。
 少し遠くにある高校に行くにはそれなりに早起きする必要があって、平日昼間よりも人が少ない駅の周辺の早朝の空気はそれなりに澄んでいるように感じる。空が青く、ビルのガラスがそれを反射して三車線の広いアスファルトに映す。この都市に似合わない無人感を味わえること以外、半日授業のいいところはない。

 下校、数時間前とは打って変わって喧騒が復活した最寄り駅で下りる。通学定期の、期限が切れかかっているのを改札の液晶に認めながら今払うべきか勘定しつつ人混みに混ざると、一際大きい聞きなれない声色が耳につく。
 改札の正面、人が沢山立ち並んでいるところで、男の子が泣き叫んでいた。その横には大人の男がいて、男の子がどこかに行かないように抑えていた。彼は男の手を時折払い除けながら母親を探している素振りを見せた。ママ、ママと叫んでいる。
 白昼堂々まさかとは思うが、誘拐の類ではなかろうか。
 私は周りを見渡した。券売機で唸っているスーツのサラリーマン、同じく下校中かと思われる私立小学校の制服を着た児童数名、出張して弁当を販売するデパ地下店員、タバコ屋のおばあさん、買い物帰りの主婦、大学生風のマッシュ、その他約五十数名────は、特段それを日常の風景といったふうに取っている様子で、私だけがその子供と男を注視していた。
 以前、県内で女子中学生誘拐の事件が起こったことが脳裏をぎる。ついこの間まで自分自身が女子中学生だったこともあり、地続きの感じがしていた。今もそうだった。
 不意に男と目が合う。まずいと思ったが、変に目を逸らすほうが不自然で、特に気にしていないふうを装いながらゆっくりと焦点を背景の売店のショーケースに移したあと、注意深く左側へ目と首を動かした。あくまであなたのことではなく風景全体を眺めていただけですよと主張した。

 件の男の子が横にいる男に何かしらの被害を受けている、と訴えるには、しかしあまりにも彼らは堂々とそこに居て、周囲は無関心だった。二人の顔は似ているかどうか微妙なところで、全く違うわけでもなければ酷似してもいない、かもしれない。ただその男は、親としてはかなり若いように見えた。
 そこに立ち竦んで留まっているわけにもいかなかったから、一旦、二人がいるところがガラス越しに見える位置にあるコンビニに入店し、窓際にある情報誌を手に取り立ち読みを装っていた。手に取る本はなんでも良かったが、あまりにも選ばなさすぎたせいで、制服の女子高生が男性誌を読む奇妙な光景を作り出してしまった。
 ともかく。何故か彼らは改札前から動こうとしなかった。
 
 私は駅のすぐ近くにある交番に行き(最寄りなのに初めて行った!)、改札の前でずっと泣きじゃくっている男の子と、父親かもしれないが一緒にいる怪しい男性がいるので事情を聞いてみてください、とだけ言いに行き、再びコンビニの定位置に戻った。普段なら店員の目線が気になるが、私も気になることがあった。
 しばらくして警官が彼らのもとを訪れるのを見た。暫く問答していたが、警官の表情は芳しくない。男はかなり困った顔をしていて、身分証などを提示させられているようだった。応援の警官もいつの間にか呼ばれていて、周囲もその異様さに流石に気づき始めたのか、人の流れは二人と警官たちを避けるように湾曲していた。また、ひそひそとその姿について話すような素振りをする人も出てきた。
 会話内容は聞こえないが、恐らく怪しい男は本当に怪しい身の上だったのだろう。私はいいことをしたと思った。
 携帯電話に着信があった。母親からだった。昼ごはんを用意して待っているのにいつまで経っても帰ってこないと怒られたわけだ。
 ことの顛末を見届けたかったものの、これ以上は時間をかけられないので仕方なくその場を離れ帰途についた。

 勘弁してくれ、という他ない。

 前の彼女に振られてからヤケになり、出会い系アプリを入れて右側にスワイプをし続けるのが日課になってから数日経って、一人の女性とマッチングがあった。写真は顔の全体を確認できるものではなかったが、品の良さそうな黒髪とブラウスで、自己紹介の文章も知性的で、僕の荒んだ心を埋めてくれる予感があった。
 すぐにアプリ内で会話をして、それから連絡先を交換したりした。トントン拍子で話は進み、今度会おうという約束を取り付けた。住んでいるところもほど近く、最寄り駅で落ち合う約束になった。年齢は書いていなかったが、大体同じ年代だろうという共通の話題のようなものがあったので、そう思っていた。改めて顔写真も送りあった。僕は微妙な笑顔が張り付いたものだったが、彼女は美人に見えた。
 当日、果たして現れたのは中年に差し掛かった茶髪の女性だった。下手すれば僕よりも一回り弱歳上なのではないかと思われる容貌に、画像加工アプリの技術進歩を呪わざるを得ない。
 しかし驚いたのはそれだけではない。彼女は子供を連れていたのだ。困惑していると、彼女はシングルマザーだということを飄々と明かした。僕は、シンママと付き合うつもりなんてないし、子供の面倒なんてみる覚悟も身分もないということを慌てながら伝えようとしたが、彼女の主張としては単に恋愛をするだけで結婚とか子供とかは関係ないということだった。僕は同意しかねたが、いいからお店にでも入りましょうと強引に昼食に付き合わされることになった。

 彼女が連れてきた男の子は特段僕には興味がないようで、彼自身が持ってきていたおもちゃで遊びながら飯を食っていた。僕は非常に気まずい思いをしながら、どうしてこうなったのか、なにか悪いことをしたのだろうか、この状況を切り抜けるにはどうすればいいかを考えていた。が、目の前の子の母親は、僕の不安をお構い無しに今まで連絡を取り合っていたときに話していた話題────多くはスマホアプリとか、最新の音楽の話とかだ────をまくし立てて話していた。彼女の口調はテキストでのやり取りのときにあった丁寧さもなく、ある程度の粗暴を感じるものだった。
 特にご飯を食べること以外の予定を事前に組んでいなかったので、僕は早めに食べ終えてここで彼女たちとは別れ、すぐに家に帰り彼女の連絡先をブロックしてマッチングアプリのアカウントを消去し二度とそれに触らない、ということまでを何度もシミュレーションしていたが、彼女も彼女の食事を終えると、とんでもない要求を僕にした。
 つまり、これから数時間の子守りを要求されたのだ。彼女は出かけるらしい。
 とんでもない、流石に我慢ならないと僕は強く断ったが、途端にものすごい剣幕で彼女は僕を睨んだあと、大声で泣き始めた。店員も他の客もぎょっとして僕らのいるテーブルを見たし、彼女の連れてきた子供も母親の急変ぶりに驚いて、つられて泣いていた。僕は周囲の視線からある嫌なモノを汲み取ってしまったので、食事代を置いて逃げ帰るわけにもいかなくなる。最寄り駅でこれ以上恥をかくわけにもいかないのだ。
 僕が断固拒否の姿勢を少し崩してしまったのをいいことに、彼女はすぐに食事の会計を済ませ(僕の分も払ってしまった)、さっさと改札の方に向かっていこうとした。具体的に子守りってどうすればいいんですかと聞いたところ、そこら辺に公園でもあるでしょと適当にあしらわれ、気づけば彼女は一人で改札を通り階段を昇ってしまった。
 残された僕と男の子。彼は状況がよくわかっておらず、トイレにでも行っていると思ったのだろうか、不安な顔をしつつ僕の横に立っていたが、五分と経つころには僕に仕切りにママはどこなのかを聞いてきた。僕はどうしていいかわからず、「近くの公園」というワードを地図アプリに入力してみたり、屋内キッズスペースを検索してみたり、錯乱してベビーシッターのブログを見たりしていた。当然男の子はぐずり始め、改札の方へママ、ママと泣き叫び始めてしまったので、仕方なく手を繋いで抱き抱えてみたりした。全くそんなことをしたこともないから、凄くぎこちない格好だっただろう。子供と言えどもかなり重い。
 周囲の目が気になるので場所を移そうとしたが、ここから動こうとすると子供は不安が増すのか更にうるさくなるので、しばらく彼をあやすことだけに専念した。そうしていると、いつの間にか目の前に警官が現れ、突然事情聴取が始まっていた。非日常的な経験と異常なストレスから、そこからの記憶は鮮明ではない。

 結局、僕に子供を預けた女は二度と姿を現さず、僕に伝えていた名前や大まかな住所などの情報は諸々虚偽であって、写真も別人のものだった。

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