生来の悪は可能なのか
最近今更League of Legendsというオンライン対戦ゲームを始めた。歴史も長くユーザーも成熟しており(精神的には未熟なやつらばかりだが)、経験と知識の差からボコボコにされている。特に味方から。
私も詳しいことは全然分からないが、どうも、プレイヤーは「サモナー」=召喚士として、「チャンピオン」と呼ばれる各キャラクターを召喚し、彼らを操作して戦うという構図らしい。
プレイアブルキャラクターの中に「チョ=ガス」(以下、「チョガス」)というのがいる。他にも「カイ=サ」とか「レク=サイ」とか、日本語表記で「=」がつく奴らがいるが、こいつらは全て「ヴォイド」という、世界を侵食する闇みたいなものから生まれたモンスターか、それの元被害者らしい。LoL世界(ルーンテラ)における、「世界の敵」「諸悪の根源」的ポジションだ。
彼らはヴォイドボーンと呼ばれる。ヴォイドそれ自体の活動よろしく、ヴォイドボーンたちも基本的には世界を侵食しようとする。大いなる意思(?)=ヴォイドと、それを実行する様々な結集=ヴォイドボーン、という図式。
そんな中でも、記事のトップ画像に載せたチョガスは、「食らう」ことが主軸の活動をしている。人間とかを食っちまうということだ。暴食の悪魔。しかも食えば食うほど身体が巨大化し、その設定は実際のゲーム中にも反映されている。理論的にはほぼ無限に身体がデカくなるロマン溢れるキャラクター。
ただ、見た目とその目的(?)から来るイメージに沿わず、意外と知能も高い。言語はもちろん使えるし、口調もなんなら理知的だ。悪の大幹部みたいな感じだ。見た目はほとんど節足動物型の怪獣なのに。
LoLは、プレイアブルキャラクターのほとんどにセリフがある。戦闘時も、エモート時も、キャラクターを選ぶときも何かしら喋る。知性あるチョガスも例外でなく喋る。
選んだときのチョガスのセリフがこれだ。
世界観的な悪役としては十分である。つまり、サモナーが世界を食らう闇の化身たるヴォイドボーンを選ぶということは、サモナー自身もまた世界の終わりを望んでいるからだ、という理屈から出てくる言葉である。知性的。
さらに、他にもセリフがある。
など。やはりこの「お前」も、サモナーに対するセリフだと思われる。繰り手によく話しかけてくる。
さておき、このあたりで私が疑問に思ったのは、チョガス自身は自己正当化しようとは思わないのか、ということである。ルーンテラを守りたい側の価値観に合わせて、悪役ぶった言い方をわざわざしている道化でもない限り、あるいは子供騙しの勧善懲悪モノでもない限り、その物語の悪サイドには悪サイドの信念や正義や、あるいはどこかでは「こちら側」と通底する価値観がある(例えば金銭など)。
が、チョガスのセリフがまさにそのままの意味だとすれば、チョガスは、チョガスにとってのメリットを表す言葉として「蝕む」「穢れ」「害虫」という、本来主体にとっての害悪を示すしかない言葉を使用するのだ。
この違和感を具体例で説明すると、例えば普通人間の身体を蝕むがん細胞を擬人化したとして、彼らにヒト並の人格を与えるとすれば、自分たちの生存活動に「蝕む」という語は使わないだろう。「必死に生きている」とか抜かすことだろう。
あるいは糞にたかるハエなども、言葉を与えれば、別に彼らにとって糞はさして「穢れ」ではなく、栄養がある塊のはずだ。彼らの側からナチュラルに「穢れ」という言葉が出てくるとは、あまり思えない。
しかしチョガスは、敢えて何の正当化も表面上されていない露悪的表現を使用しつつ、それを「素晴らしい」という評価と並立させている。
翻訳論的な問題で、ヴォイドボーンが発する言葉を理解可能な形式に当てはめるとき、言語の有限性からそのような歪みが生じている、のでなければ、ヴォイドボーンは自らを世界の悪として開き直っているのだろうか。
それも考えにくい。純粋なヴォイドボーンは、どうも「そういう機械」のように生み出されている。たまたま、ヴォイドの目的(?)達成のために必要な知性が備わっているだけだ。いや、知性と言っていいのかも、実は怪しい。
「目的」にクエスチョンマークを付け続けているのには理由がある。生物に目的などなく、種を絶やさない構造をとったものが、絶えていないだけであるように、ヴォイドもまた恐らくは、本質的にはそのようなものである可能性を否定できないからだ。
さてそうなると、ヴォイドボーンにも本質的には目的なんて存在しないことになる。確かに人間並みの知性(?)があり、言葉を操るものだから、目的論的な語り方をついついしてしまうわけだが、少なくとも人間のいう「知性」とは、土台自分たちの存続と繁栄を前提としたもので、そのために正しさや持続性を無条件に価値あるものとして見るフシがある。
しかしヴォイドはそうではない。何か世界に失望する経験を経るでもなく、生まれながらに世界の終焉を望んでいるし、自分たちを害虫や穢れとして取り扱うことになんの抵抗も見せない。自分たちの行いが誰かやどこかにとってメリットがあったり、正しいといった主張すらしないのは、人間同士の戦争とは全くわけが違う。
彼らにとってもはや正当性なんてどうでもいいのは、考えてみれば当然である。世界が終わるならば、正しさもまた終わるからだ。そしてそもそもヴォイド同士は協力したり、共同したりする必要もない。
そう考えると、ヴォイドの知性に見える機能というのは、少なくとも我々が普段言っている知性に備わった前提を大きく欠いた、虚像なのではないか。
「目的」実行のための論理的計画・論理的行動の効率化のために用意された、言わばAIのような処理機能が、たまたま結果として言語も獲得しているだけのような。
しかし、我々人間の「知性」もまた、良く考えれば同じ出自なのではないか。個体を残すという結果に有利な機能として、知能が発達したならば。
ヴォイドボーンに進化論は適用できそうにない(ヴォイドボーンはふたつとして同じ姿のものはいないそうだ)わけで、人間知性というよりも人工知能に近いが、差し引いても、有利な機能として用意されたものの副産物が知性的像を結んでいるだけ、という点は共通している。知性を「感じる」のは知性であり、自己欺瞞的構造がそこにはある。ヴォイドは他人の知性を「感じる」のだろうか。
ヴォイドと普通の生物とで、「知性」に違いがあるとすればやはり、存在や持続や繁栄が前提にあるか、破壊や消滅が前提にあるか、その違いであろう。そう考えると、通常生物とヴォイドとは、「知性的な像」という交点を持つだけの、全く逆の位相の存在者同士なのかもしれない。
存続や持続や繁栄が前提にある設計ならば、「生まれながらの悪」は成立しないだろう。今後自ら首を絞めるようなことを、本来するはずはないのだから。現実の戦いでも、多くのよく考えられたフィクションでも、敵には敵の「考え」がある。それが、ヴォイドにはなさそうなのだ。この自分勝手な「考え」にあたる部分が空虚に見えるから、先に私はヴォイドの見せる「知性」を虚像なのではないかと疑ったわけである。
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