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「ワキガ」が出現した

最近になって、今まで正体の分からなかった「ワキガ」なるものが次々と私の世界に出現し始めた。

「ワキガ」つまり腋臭症は、身体機能の不調ではないという意味で、病気とは言えない。ワキ等に存在する特殊な汗腺であるアポクリン腺から分泌される汗が、細菌によって分解されて発せられる臭気で、強度や臭いの種類には個人差がある。

言ってみれば単なる体臭のひとつとも言えるし、優性遺伝で白人と黒人にはほとんどある臭いなので、あちらでは問題視されることも少ないようだが、黄色人種では全体の10%程度に起こる現象らしく、そのせいで我々日本人はワキガの臭いに耐性がないことが多い。問題として扱われる。

ここ数ヶ月にも満たないあいだ、電車に揺られているとき、明らかに「これはワキガだ!」と思わせられる臭気で息ができなくなったことが何度もある。
それまでは何も気にならなかったのに。

私の世界に「ワキガ」が現れる前に、時間を遡る。
耳カスがネバネバしている人はワキガの可能性が高い、みたいな情報を聞いて、「そういえばワキガとよく聞くが、一体どんな臭いなのだろう?」と思って調べた。最も臭いがわかりやすいのは、「カレー・スパイス臭」なる名前がついているらしい。
この時点でも、私はピンと来てなかった。そんな美味そうな臭いならいいじゃないかとすら思った。それは間違いだった。

名前を知ったときは、私の記憶に「カレー臭」も「スパイス臭」も存在しなかった(「加齢臭」は、あった)のに、次に電車に乗ったときに、それは突然現れた。
つまり、強力な"スパイスっぽい"(そしてやや不快な)臭いが、どこからともなく鼻の前をチラついた。もしやこれがと思いつつも、その臭いの発生源を探っていたが、どうも横に立っている中年男性のようだった。黄色人種で、恐らくは日本人だ。確かに電車の揺れとともにオッサンがこちらに揺れるとき、不快なスパイスもこちらに流れてくる。しかしオッサンだ、これは特殊な加齢臭かもしれない、そう思ってその場はただ耐えるしかなかった。

これがいわゆる「ワキガ」であると確信したのは、特急車両で隣に座ってきた南アジア系(インド人っぽい)の人間から、あのオッサンと同じ臭いがしてきたことに、私が気づいたときである。今度はあのオッサンほどは歳を食っているようには見えず、若かった。加齢臭とは言えない。
特殊な、異国情緒ある料理を食べてきたのか? とも思ったが、それなら何故あの日本人からも同じ臭いがしたのか。これこそやはりワキガなのではないかと、半ば感動した。

それからと言えば、電車で近くに南アジア系が立ったり座ったりする度に、必ず不快なスパイスの臭いに襲われる。たまに日本人のオッサンからも臭う(オッサンからしか臭わないように感じるのは、私が男性の身体を持つがゆえに女性から発せられる臭気の受容体に好意的な操作がある可能性を否定できないが、恐らくは、体臭ケアを男性の方が怠りがちなだけだろう)。
今夏から流石に暑くてマスクを外した身だったが、電車に乗る際はまた携帯しようかとすら思った。特別不衛生なわけでもないから、非難も難しい。

不思議なのはやはり、今までも同じような環境(つまり、電車に乗る、ということ)に身を置いていたはずなのに、ワキガの実態ことを知ったときから、私の世界に初めてその臭いが現れたように思われることである。
雑草でぼうぼうの荒れた空き地であっても、それぞれの種名と見た目を知っていれば、その草花が浮き出てくるように、ワキガの臭いも分節化されたのだと説明することはできるかもしれないが、ノッペリと視界に映る後景から特定のものを抜き出してこられることと、不快な臭いを感じるようになることは、どこか根本的に違うことのようにも思う。

こんなに不快なら、別に名前を知らなくても、酷い臭いだ、と今までだって思っていたはずなのに、そう思った過去はあまり思い出せない。電車での異臭は、汗臭さや、生乾き臭や、オシッコ臭さしかない。

「カレー・スパイス臭」は、だからその概念自体がある種の呪いというか、不快な第六感の芽生えであるかもしれない。
だから、あの臭いを感じたことのない人で、この記事をここまで読んでいる人は、私とこの呪いを共有したことになる。

次電車に乗るときは、カレーっぽい臭いに気をつけて見てほしい。どちらかと言えば、本物のカレーというよりも、「カレーのにおい」がするねりけしのアレみたいなやつだ。
「ねりけし ワキガのにおい」だ。


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