妻と筆 「軋」
この字をみると、脳が傾く。もちろん錯覚だ。似たような不安定さを持つ文字は少なくない。門とか、戸とか、亡とかだ。漢字を活字として、四角い空間に収めるものと捉えると、空白の偏りに違和感を感じてしまう。しかしながら札や礼だと今ひとつ不安定さに欠けるところがあり、やはり「軋」だな、と思う。
「軋」という字を見ると、「骨」を連想する。私の中で、まず最初に軋むものは骨だ。まだ小さい頃、浴槽の中で水に耳をつけて腕を動かすと、自分の骨がぎしぎしとこ軋む音が聞こえる。歪んだ右肩はいつも奇妙な音を立てるし、背を反らせば脊椎が軋む。軋みは、静かに発された不整合の予兆だ。
何かが軋む音を立てる時、そこには静寂がある。うるさい場所では、何かが軋む音はかき消されてしまう。薄青色の静寂の中に落ちた墨汁のような黒いしみが、「軋」という字の想像だ。
人生の中である文字を見る回数は数え切れない。「軋」はあまり使われない文字だが、それでも無数の「軋」を目にする。「軋むベッドの上で」なんて表現は手垢にまみれているし、「軋轢」なんて言葉もある。つまり文字とは、複写性によってその役割を全うするものだ。その意味で、書は異質だ。作品としての書とは文字から複写性を取り除く営みでもある。
私の妻は書家で、この「軋」は妻によって書かれたものだ。この作品を作るために、妻はまず私にいくつかの質問をする。なぜ「軋」という文字を選んだのか。どのようなイメージを「軋」に対して持っているのか。次にいくつかの習作を作り、字の形を自分の腕と目に落とし込みながら、私にそれらを見せて私の希望とのすり合わせを行う。それから最終的な方向性がいくつかに定まり、数十枚のさらなる習作を経て完成に至る。
この記事の前半で書いたことは、概ね、私が妻に伝えたことだ。少なくとも妻にとって書とは、ただそれらしく書くことではないのだと思う。だから私は、門外漢でありながら、書家としての妻を尊敬することができるのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?