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あいちトリエンナーレ考3  アーティストは無垢で無謬な超越者?



「私が愛するアートへの冒涜は許さない。目覚めよ、と言いたい」。Chim↑Pomエリイさんが補助金ストップの文化庁に言いたいこと」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/chimpom-eille_jp_5d92b0c1e4b0019647ad9106?ncid=other_twitter_cooo9wqtham&utm_campaign=share_twitter


この記事を読んだ時、エリイさんがアーティストの自分を超越者にしたり(他国との民度を比較し、国民の民度をときはじめる)、相変わらず自身を無謬で無垢な存在に棚上げしていて、ダサすぎるなぁと思いました。
あなたは神か…みたいな俯瞰的な神視点での、この社会への指示書のようなステートメントという点では、藤井光さんのステートメントもエリイさんと同じマインドを感じましたです。

自分は何の責任もない、自分たちが加担してきたこの構造にも何の問題もない、だめなのは世間の連中、為政者と理解のない市民というロジック。


言葉狩りみたいになるので控えていたけど、藤井光さんのステートメントの「大衆」という言葉にずっとひっかかっていて、自身の無謬性への棚上げと共にこの無邪気な差別的視点に若干唸ってみたり。
限定的な話なのだけど、市民や社会に向けて発話する際に「大衆」(対義語はエリートや知識人や政治家?)や「民度」という言葉がどんな含意があるか、という。

これは社会や他者を知るジャーニーでもあるのですが、自分を探求し、自分を知るジャーニーでもあるなぁ。いろいろ考えます。


アーティスト個人は通常は超越者でも狂人でもなんでもよいのだと思う。だけど、社会に対し、
「補助金(税金)を展覧会に出し続けるべきだ」と市民と一緒に訴えてゆくケースでは、対話者は、為政者や官僚だけでなく、社会と市民も含まれるわけで、
超越者(あなたは神か…?)みたいな態度で、国民の民度を海外と比較しながら説き、偉そうにお金を出しやがれ、民度が問われるんじゃ、目覚めよ、大衆は〜なんて発話したら、社会はどう受け止めるか。

エリイさんの指す海外の国々(エリイさん曰く日本よりアートに理解が深い)も、欧米圏や東アジアやアラブ諸国でも、経済的にそれなりの基盤があり、動乱のないごく一部の国だ。アフリカやアラブ諸国や南アジアの経済や治安が不安定な地域や、独特の部族社会で生きている人たちは眼中にない。
それは決して世界じゃない。世界の一部、わたしたちと共通の価値観をある程度所有している世界の一部でしかない。
いつだって自分たちは世界の一部を見ることしかできていないのだけれど、その自覚ぐらいはないと、排除を肯定し、想像力をなくしてゆく。


たとえば、これから現代アートを盛り上げたいという海外の国を訪れて、トークする機会があった場合、同じようなスタンスから見下げて、

「目覚めよ、民度が低い国はアートが盛んではない」

だなんて言えるのかな。言えるかもな。言えるんか。言えちゃうんか。

もしくは、「他国には気を使うよ〜、日本には私は日本人なので厳しくする」

という立場もありうるんだけど、なんていうかものすごくドメスティックで、他国への差別でもあるし、日本人は傷つけてもオッケーという甘えでもあるように思う。家庭内でのみゴッド気取りで威張り散らかして、外面がよいDVをする人みたいだ、とちょっと思ってみたり。

この騒動で改めて、社会に向けて「大衆」とか「民度」という言葉をナチュラルに使えてしまう差別的な感性がめっちゃ苦手だと再認識したです。

わたしは誤字脱字めっちゃするのに、言葉にこだわるんか、という点はほんとごめんなすってです。ごめんよーごめんよー。


エリイさんのように「目覚めよ」みたいに言葉を言霊化する場合、どうしてもオカルティックな霊力のような欺きが必要なので、パフォーマティブになってしまうのは理解できなくはないけど、今この問題でやったらアウトでは…と思うな。具体的な問題解決が先決だから。

また、このエリイさんや藤井さんに顕著なように、「自分にはなんの責任もないし、無垢で無謬な若干神のような超越者」という立場から言葉を発するのは、それはアートの文脈ではナラティブを含んだりするし、オッケーなのだけれど、社会へ向けた場合、つきつめると宗教しかなくなるし、しかもたぶんカルトだ。
だいたいそんなことを言ったら、現代アートに興味のない人からしたら、

「なんでそんなに上から目線なんだ、君達だって俺が詳しいNBAや野球詳しくないじゃん。民度か、これ? 大衆だからなのか? 俺の愛するものに公金でないんだが? うん、よし、働け、自分で稼げ、そして勝手に展示しろ」で終了だ。

「文化を殺すな」という言葉も、ほぼエリイさんの「目覚めよ」と同じで、行為遂行的で言葉の言霊化を狙ってはいるけど、目的は発話そのものという。文化はそもそも殺されがかってはいない。また文化は別に現代アートだけではなく非常に広範なものだ。


行為遂行が目的なパフォーマティブな手法は、アートではいくら使用してもよいのだけど、社会運動の場合、運動すること自体が目的で体制にとにかく叫べればよい、やみくもに体制に的外れな要求を叫んで溜飲をさげ、敗北した際に憎悪だけを募らせてゆく。それは社会運動の敗北者たちの宿命なんだけど、そうならないように軌道修正してもよいと思う。


ちぽ、自分を知るジャーニー。クレージージャーニーなくなっちゃったな、この旅はクレージージャーニーなのかな、なんだろか。



シャインマスカットがあまりにきれいで、わー!ひゃ〜!ちぽー!とテンションだけで手にしてしまい、ちぽちぽレジに行ったら、驚愕のお値段で、顔をひきつらせながら精算するはめに…

やはりテンションまかせはのちのつけを自分で払うのでござるな…輝けるシャインマスカット様からの教訓。

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