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Robert Menasseに思う仕事始め - arbeiten oder tätig sein?-

新年明けましておめでとうございます。
仕事始めに相応しい新年第一回目は、「仕事」について。

ドイツ語のtätig seinとarbeiten、どちらも仕事をするという意味ですが、どんなニュアンスの違いを表現することができるのか、以前たまたまラジオで聞いたあるインタビューから、成熟した市場とその社会に生きる人々の仕事のあり方に関するある哲学者の考察を紹介しながら書こうと思います。なお、日本語部分は、今回の記事のためにオリジナル言語から起こしたものです。

作家であり哲学者でもあるRobert Menasse氏のインタビューからです。

まず始めに彼は、仕事と労働についてこんなふうに定義しています。
仕事とは、
『働きを通じて自分自身を知り、それが生き方を体現するものであって、自身と乖離しないもの』。
そして労働とは、
『働きが意味のないルーチンワークに成り果て、自身と乖離してしまうもの』と。
そして労働市場は今や、意義がないか、充足感のない、ましてや自己破壊的な仕事をしている人間で溢れていると言います。

さて、ここで表題の表現が出てくるのですが、Menasse氏は仕事と労働を、それぞれtätig seinとarbeitenと表現していました。
まず、ドイツ語はtätig seinで従事する、また勤務するなどの意味になりますが、このtätigには能動的行動を伴う、積極的な、活動的な、意欲的という意味があることから、tätig seinで表現される仕事には、その姿勢も含意されていると考えられます。
一方、Arbeit(労働)というと経済効果などを期待して、人間が自然に働きかけて行う、特に対価として賃金を得る行為としての意味が強まる傾向があるようです。

個人的にドイツ語のArbeitから思い浮かべるものの一つに、ナチスによって建設された強制収容所の門扉に掲げられている"Arbeit macht frei(働けば自由になる)"という、くり抜きのスローガンがあります。

これをある強制収容所で目にしたのはもう20年以上も前のことです。
不思議なことに、現地で目にしたどんな惨状よりも、この文字に抜かれて背後に広がる空の果てしのない静けさだけが強烈に印象に残っています。

さて話は戻りますが、Menasseはさらに続けます。
そんな労働環境においても人は、仕事を失う不安や、制裁、失敗への不安に苛まれたり、仕事の内容で自分を定義づけたり、さらには社会の意義ある一員としての自分の存在すらをも仕事に帰結させたがる、と。そしてそれを彼は理解できないと言います。 
そこでインタビュアーが言います。「あなたのように、ひがな一日、喫茶店で本だけ読んで過ごす哲学者という職業にみんなが就けるわけでもないし、ひとは労働の中により良い暮らしを求めたり、家族のために働くという人もいるのでは」。
インタビュアーの言う『ひがな一日、喫茶店で本だけ読んで過ごす』という哲学者の定義はさすがに少々語弊がある気はしますが(笑)、これに対するMenasseの返答は、労働がより良い暮らしのためだった時代はとうに終わっており、多くの人々は食べてゆくために労働をしているのであり、また家族の為というのも自己欺瞞に過ぎない、というものです。

そして、私たちが果たすべき仕事は、今日の技術を持ってすれば保証可能な、搾取と破壊によらない働きだと締めくくっています。

2022年の仕事始め、tätig seinとarbeiten、どちらも日常的に使用する言葉ですがニュアンスの違う、そんな言葉の一つについて書いてみました^ ^

今日も最後まで読んで下さりありがとうございました。



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