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ヴァンハン大学の本誓(ほんぜい)

(ヴァンハン大学発行『思想』1968年2&3号より。野平宗弘訳)

1.本誓の意義
この本誓は、ヴァンハン大学の本願である。文化構築事業はそれぞれ一定の指針の上にうち建てられる。その指針こそが、知的活動における行動基準のための論拠となる意識の指針である。意識の指針は、思想構築事業の個々それぞれの体制における行動の基礎を象徴する精神を規定する。ヴァンハン大学の意識の指針は、自らの活動範囲における本誓の体現である。その<本誓>は、個人それぞれの生活全般におけるすべての隷属、すべての奴隷化から人間を解放することにある。解放は、解放と同時に手段である。手段の解放は、微細な変異すべての中にある自我のプロセスからの解放であり、日常生活において創造的人間を体現するために、全面的な能力の拘束を解くことである。

2.教育の意義
すべての教育の論説は、偏っている。なぜなら、行動の基礎が、意識の指針に隷属してしまっていて、変移のない位置にあるからである。意識の指針は、意識の生きた指針でなければならない。生は、瞬間ごとに変易し、流転している。本誓は、全面的な解脱である。そのため、生の生成方向に沿った柔軟な手段次第で、本誓は意識の指針を転相させ、転用させる。そのおかげで、教育的人間は、ある一つの理想、信仰、一国家の境界に隷属することはなくなる。本当の教育的人間は、いかなる政治や政権の道具でもなく、外面だけの巨大な組織を建設することに心煩わせて解放思想の創造的実質を忘れるようなことはもはやなくなる。教育はもはや、人間の地位や権力を実現するための手段ではない。本当の教育はもはや、社会の多様な要求に拘束されることなく、諸政治権力の複雑な圧力に隷属することはない。教育はもはや政治の道具ではなくなる。教育は、生計を立てるための生業でもない。教育的人間はまず、全面的に自由な人間でなければならず、人類文明の変革において主導的な役割を担わなければならない。教育的人間は、特定の知識範囲における技術的専門員にすぎないのではなく、伝統を批判し、現代の諸価値を批判する者である。創造的批判が教育の実質であり、それは生活全面における本誓を体現するものである。

3.大学の意義
大学の精神は、一組織の精神ではなく、また、宣教者の精神でもない。大学精神の指針は、批判と創造である。批判は、伝統の諸価値を目をつぶって容認することではなく、基礎を掘り起こし、現にある価値一つ一つの限界を見極めることである。創造は、模倣、ものまねではないし、なんらかの理想的規範に従うことでもない。創造は、全面的な独立精神であり、宗教的権力と世俗的権力に隷属せず、いかなる主張にも隷属しない。大学の知識人は、伝統を批判し、社会を批判し、伝統を創造し、社会を創造する者である。大学教授は知識の職業人ではなく、大学の学生は社会的地位あるいは文化的地位を求めるために知識を吸収する者ではない。大学の学生と教授は、まず、創造的人間、相互的な批判者でなければならない。学生は教授の知識権限の奴隷ではなく、教授もまた組織や機関の行政権限の奴隷ではない。各々は、独自の個人であり、事実を直視し実在へと入り、あらゆる観念、あらゆる主張、あらゆるイデオロギー、あらゆる信条、あらゆる組織の外へと抜け出すため、自ら選択し、自らの知識の指針を自ら決める。なぜなら、すべての観念、主張、信条、イデオロギー、組織は、解放的個人の、自由な個人の、限りない創造力を阻止する障害にすぎないからである。人間は、意識と無意識の中のすべての恐れから脱して自らの命の主となり、自らが自らのために創造した意義の中で自らの人生を生きるのだ。

4.個人と集団の意義
集団は、すべての個人の組織である。集団は、相互的活動における一人一人である。社会はまさに、二人以上の個人の活動である。そのため、集団と社会は、全面的な解放の体現の途上での個人のための手段でなければならない。個人とは、利己的な個人を意味しない。個人は、自我ではない。個人は全体から自らを孤立化させた一実体ではない。本当の個人である個人の場合、その個人が集団である。集団は、個人の外面的なイメージにすぎない。個人は主導的な役割を担い、集団が実在の道の上での変化の連続に沿って形成されるよう手助けする。集団が、本体と心の解放の道の上での人間の創造的傾向のすべてを遮り立ち塞がる不変的な定め、なんらかのstatu quo〔現状〕になる時、集団は危険なものになる。集団は、なんらかの理想あるいはイデオロギーに依拠して、将来のため現在を犠牲にすることを個人に強要することはできない。集団は完全に、抽象的幻想的な性格であり、個人だけが生き生きとした実態である。個人は、重要な独自のあり方であり、人間性の限りない能力と潜在力をはらんでいる。個人は集団を創造し、社会を創造する。そのため、個人は、社会と集団が、潜在力を束縛し、思想の新たな創造すべての前に立ち塞がるために保持してきた固定的体制statu quo〔現状〕を批判し、破棄できるのである。

5.創造的個人の意義
創造的個人は、解放の道を行く一実体である。創造的個人は、意識の活動のための安寧を求めず、重要な人物になろうとはせず、群衆のスローガンを叫ばず、成功を称揚せず、いかなる神像も崇拝せず、事務官的な生活の安易な便宜を求めず、褒賞を待つことはない。恐れず、観念に隷属せず、表象に隷属せず、自分の人生を一体系、不動のイメージの中に幽閉しはしない。創造的個人は、常に、意識と無意識の果てしない領域へと漂流していく者であり、独立した行人であり、信仰、信条、伝統的哲学、国家、民族といった杖に寄りかかったり依拠したりする必要がない。教育に意義あるのは、個人を覚醒させる使命を保持し、個人を創造と批判の道へと行かせる時だけである。大学は、創造的個人の限りない潜在力のすべてを覚醒させる場所という重要な役割を担わなければならない。創造的個人たちは、社会が常に生き生きとしたものになるよう、連帯して創造的集団になるだろう。奴隷的な固定的体制statu quo、人間の傑出した精華のすべてを前に立ち塞がる壁へと陥ってはならない。

6.時代の恐慌の意義
文学、芸術、哲学は、現在、重大な恐慌に陥っている。現代の文化活動の主題は、生活の意義を求める中で出会う人間の悲観、絶望、無力さしかない。個人は、集団の中に見失われ、時勢の転倒の間で、あらゆる価値の崩壊の間で、引き裂かれている。個人は寄る辺なく孤独で、分散した意識の迷宮の中で進む方向を見失っている。教育の役割は、個人が、真正な道を再び見るよう、宇宙規模の生の中での創造的使命において自分の位置と意義を再び見つけ出すよう、手助けすることである。現代の人間は、実践の結果に、有益な目的に隷属してしまっており、魂の真正な諸価値を忘却してしまっている。科学は利をもたらし、集団と個人にとっての多くの実践的結果をもたらすが、しかし科学は、作用、効用に専心するのみで、性体〔存在〕を忘却している。科学は、事実を探求するが、事実を忘れ、すべての事実にとっての基礎、すべての真理にとっての基礎を忘却している。科学は全面的な<実在>を開示することはできず、一面的な諸実体を開示するだけである。科学は、相互連関的な系統と機械技術を開発し、人間が自然の力を指揮するようにさせ、自然を理解し、自然を制御し、その主人になるようにさせる。そのため、主体と客体との間の隔離は、日増しに深く掘られるようになっている。人間は、個人と共同体の間の、人体と天体の間の、集体と団体との間の一体的性格を見失っている。人間の中にある今日の矛盾の根本は主体と客体との間の隔離から始まる。この隔離は、避けがたい奴隷化を語る。主体は、客体の奴隷となり、個人を集団の中で見失わせる。あるいは客体が主体の奴隷となり、外部の事物を、主体の利己、愚昧、貪欲、怨恨のために奉仕する用具にさせる。人間はますます事実から遠ざかり、人間性を見失う。計算的科学と組織は、人間を、表象のための、イデオロギーのための、理想のための、堕落した諸価値のための、奴隷に変える。

7.集団的効果の意義
現代の堕落したしるしは、言語の重大な病の中に明らかに体現されている。人間は多く話し、多く論争し、議論、討論を続ける。シンポジウム、会議が、毎日世界中で行われている。宣言とプロジェクト計画が、やむことなく交付されている。それなのに、世界はますます、戦争に脅かされ、社会はますます泥沼化し、言語は、広告宣伝の用具になり、ますます貧困になっている。対話はもう意義を持たない。スローガンが重要になり、人間は、スローガンの奴隷に、文字、言葉、声の奴隷になる。言語はもはや、心的活動における全面的革命にとっての基礎となる環境ではなくなっている。社会改革のすべては、素晴らしい名詞の上にうち建てられている。すべての教育改革も、時流に適った言語の表象系統の中で形成されている。独自的な個人は、集団社会の言語、スローガン、宣言、発言、論説の喧噪の中で見失われてしまっている。個人は沈黙しなければならない。声を出せるのは、その言葉を、集団が認めた時だけ、つまり、その言葉は大勢の者の言葉でなければならないのだ。言葉は、自動的な言語になる。人間は機械が話すように話し、すべての独立した決定は意義を失う。個人は、イデオロギー、党派、政権、伝統、理想、社会、国家の枠内、心の枠内の、すべての弾圧の外へと離脱し解放しようとする自らの真正な使命を主導的に体現する役割をもはや維持できなくなっている。

8.ヴァンハン大学の意義
今日のすべての崩壊、今日のすべての恐慌は、個人の心の奴隷化から始まっている。戦争は、個人の内在的矛盾から始まっている。集団の病は、個人の分散した意識から始まっている。国家主義は、国際主義と同様、人間の意識の矛盾を解決することはできない。すべてのイデオロギーも失敗している。なぜなら、イデオロギーが人間よりも重要になるからだ。人間はイデオロギーの奴隷になり、互いの分離の芽を引き起こし、幻想の将来のための犠牲となり、生きている現在を忘却させる。宗教の信仰と信条も、人間の中に分離の芽を生じさせる。すべての歴史的革命は、失敗に終わる。なぜなら、その革命は、個人と集団の間の、私事と社会との間の不動の誤った相関関係の上に築かれているからだ。唯一の重要で意義ある革命、それは、創造的個人の内心的革命である。内心的革命は、意識の、人間の中の全面的な思想の革命である。教育が意義あるものになるのは、ただ、社会の固定的体制、伝統の固定的体制、民族、宗教、信条の固定的体制の規範にならった複製的人間を準備するものでない時である。教育は、個人を目覚めさせなければならない。教育は、心的活動の全方面の限りない自由についての意識を個人のために撒く。教育は、個人に旅立ちを、継続的な旅立ちを呼びかけ、弱り切ったすべての寄りかかり場所の拒絶を呼びかける。大学は、社会のための、政権のための、組織あるいは団体のための一時の用具を供給しはしない。大学は、独立し、創造し、自由で、恐れず、地位や金銭、名誉、貪欲さの奴隷にならない個人を養成する場所でなければならない。そのような個人は、象牙の塔の知識人ではなく、生活全面における創造者、時代の諸価値の批判者、伝統と社会の批判者、新しい諸価値を創造し、意識と心のための全面的な再生を涵養する者でなければならない。意識と心が、全面的に転化した時にだけ、すべての内心の矛盾とすべての社会の矛盾ははじめて終わる。戦争は、もはや存在理由がなくなり、教育は、人類文明の生成の道を照らす光になる。ヴァンハン大学の意義は、その真正な道の上で自らを覚醒させることにある。

9.最終的な道のりの意義
意識と心の転化は、北宗と南宗の仏教宗派十派の究竟である。仏教の異なる宗派すべては、すべての表象、言語、観念、心、意識の路程上での人間にとっての全面的な解放、解脱という唯一の起点から始まっている。ヴァンハン大学はその路上を進み、全面的な創造の道の上であらゆる異なる方向を育てる。ヴァンハン大学は、西洋と東洋の間の、人類の伝統と民族の伝統の間の雑多な総合の場所ではない。ヴァンハン大学は求めるのはただ、全面的な創造的人間の限りない潜在力を覚醒させ、個人を独立した意識へと返し、豊かな生活へと参与流入させ、自らのために自己決定させ、人類全体共通の運命の中で自分の運命を転性させることだけである。こうして、教育は、知識の展開と蓄積の範囲にとどまることはもはやなくなる。教育は、精神と心の全面的な活動になる。教育は、内心の徹底的な革命、人間の生活にとっての意義の回復の基礎へと向かう最終的な道のりとなる。

“Bản thệ của Viện Đại Học Vạn Hạnh,” Tư Tưởng, số 2&3, Viện Đại Học Vạn Hạnh, 1968, pp. 11-23.


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