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「怖い、怖い、怖い…」熊本地震 あの夜、私はデスクと抱き合い絶叫した

「怖い、怖い、怖い…」

とっさに口をついて出た。熊本県益城町の道路上、時刻は午前0時を回っている。

車外に出ている最中、突き上げられるような激しい揺れ。その一瞬、電柱が歪んでいるように見えた。

「うわあああああ」

しゃがみこんで、デスクと抱き合った。

真っ暗闇の中で人工的な車の明かりだけが遠くに見える。

次の瞬間、握りしめていた携帯電話が振動し始める。

けたたましい緊急地震速報の音が、ずっと鳴り響いていた―

7年前の熊本地震で、私たちは震度7が襲った災害現場に向かった。そこから一体何に直面し、何に戸惑ったのか。なぜ正しい判断が困難になったのか。

これから先、再び災禍に陥ったとき、誰かの何かの役に立つならば。そんな思いから、7年経った今、未来のために書き残しておきたい。あの時、現場にいた者として。

「南海トラフが来たと思った」

始まりは4月14日、午後9時26分だった。ニュースウオッチ9の放送時間帯。熊本放送局のニュースフロアには2人の若手記者が残っていた。

ガタガタガタガタ…ガガガガガガ…!!

突然の突き上げるような揺れの後、大きな横揺れが来た。その場にいる記者の体がガクンとなり、立てなくなる。棚から物が次々と落下する中、なんとか机の下に潜り込み、身を守るので精一杯だ。

発生時の熊本放送局の様子

30秒ほど続いた長い揺れ。体勢を立て直した記者が、パソコン画面を確認して叫んだ。

震度7!熊本地方で震度7!!

叫んでいるが、信じられない。ついに南海トラフが来たのか?

その横では2年目に入ったばかりの杉本記者がパソコンをたたき始めた。

「NHK熊本放送局では、立っていられないほどの大きな横揺れを30秒ほど感じた後・・・」

すぐに揺れの状況を知らせる雑感原稿を書き始めなければならない。だが、その手は震えている。

記者の叫び声を聞いて、社会部経験者の那須デスクも駆け寄ってきた。

震度7?うそだろう・・・震源地はどこだ…

市町村震度の情報はまだなかった。すぐに記者たちが気象台や自治体に電話をかける。だが、どこにもつながらない。震度7の自治体がわからなければ詳しい原稿が書けない。原稿を出すまでのわずか10分ほどの時間が、妙に長く感じられた。

熊本で震度7の揺れが発生したことを伝えた放送

中継原稿もないままで

「震度7は熊本県益城町ましきまち

判明するや否や、午後9時半過ぎに、2年目の杉本記者はカメラマンと一緒に益城町役場に向けて出発した。道路の様子を中継しながら、益城町役場にたどり着いたものの、庁舎の建物は暗かった。停電だ。

役場の駐車場は避難してきた人でごった返していた。4月中旬だというのに、冷たい風が吹いていて、皆、毛布にくるまって、地べたに座り込んでいる。

前震後の益城町役場の様子

突然、記者用のガラケーが鳴った。見知らぬ番号。出ると、東京のディレクターから「中継をやります。とにかく何かしゃべってください。こちらでコーディネーションします」という。

放送局内のデスクには電話がつながらない。中継原稿もまともに準備できないまま、ただ見たままの光景をしゃべっている杉本記者。何度も言いよどみ、お世辞にも良い中継とは言えなかった。

当時の中継の放送 スーツ姿にヘルメットと災害報道ではあまりない姿

既存の経験では太刀打ちできない

発災からおよそ1時間後、杉本記者を追うようにして、4年目の岡谷おかたに記者は那須デスクらとともに益城町役場に向かった。しかし、揺れが何度も続く中、道路や建物が壊れていて、思うように進めない。

ちょうど熊本市内から益城町に入ったあたりで、車を止め、周囲の被害状況を探っているとき、緊急地震速報が鳴り響いた。午前0時3分ごろ、震度6強の余震が町を襲った。

その瞬間、岡谷記者は真っ暗な道路の真ん中で叫んだ。デスクと抱き合うようにしてその場でしゃがみこんだ。目の前にあった電柱が折れるというくらい歪んで見えたという。

怖い、怖い、怖い
やめて、もうやめて

とっさに漏れ出た声が、スマートフォンの動画に残されていた。

0時3分ごろ 岡谷記者のスマホに残っていた動画から

なんとか役場に到着すると、避難してきている人のインタビューに走った。

「地震の揺れ、どうですか?」

どうって、怖いに決まっているじゃないか、と頭では思いながらも、どう聞いていいか分からない。揺れの恐怖に思考がまともに働いていなかった。

止まらない余震。当時を振り返って岡谷記者はこう語る。

岡谷記者
余震で揺れるたびに携帯が鳴るんですよね・・・地震速報で一斉に。バーって鳴る音がまた強くて悲鳴が上がっていて。私自身、災害取材の経験はありましたが、このときばかりは本当に怖かったですし、自分がそんな状態なのに避難されてこられた方にカメラとマイクを向けるというのが申し訳なくて…

固まっていたのは、記者だけではない。指揮をするデスクも指示の出し方に戸惑っていた。

那須デスク
私も災害現場の取材経験あるはずなのに、圧倒されて・・・役場の駐車場もそんな広くないから、そこにみなさんが着の身着のままで避難されてきて、恐怖の感情で溢れている。そもそもカメラを向けていいのか、声かけしていいのか躊躇するような状況で、私はデスクとして何て言っていいのか、分からなかった・・・

記録を見ると、14日から15日にかけてだけでも、震度5弱から6強までの地震が6回、震度1以上を観測する揺れは344回に上っていた。15日の夕方までに判明しただけで、死者は9人に上った。

「パパ、行かないで」家族が被災する中で…

15日午後の特設ニュースを担当していたのは、経験豊富なアナウンサーだった。

仙台局や高知局で地震や台風の現場を取材し、熊本局では2012年の九州北部豪雨の対応にもあたった、当時12年目の新井隆太アナ。災害報道は経験値があると思っていた。

新井隆太アナ 仙台局や熊本局を歴任

前日の夜まで東京出張に出ていたが、発災後は夜中じゅう情報収集にあたった。眠らないまま、翌日早朝の福岡行きの便に飛び乗ると、熊本局に戻り、スタジオに入った。そのまま夜中まで、毎正時のニュースを読み続けた。

妻と6歳、4歳の子どものいる熊本市内の自宅に帰れたのは、15日の午後10時ごろ。「これでおさまればいいね」と妻と話して、寝室で目を閉じた。

前震後、新井アナの妻から送られてきた自宅の様子

眠れたかと思った瞬間、ゴーーンという音とともに下から突き上げられた。「この“余震”はでかい」と直感、とっさに横にいた子どもに覆いかぶさった。

16日、午前1時25分。再び熊本地方で、マグニチュード7.3を観測する地震が発生した。これは28時間前の14日の地震規模を上回り、阪神淡路大震災に匹敵する。のちにこれが「本震」と呼ばれ、大きな地震の後には「余震」が続くという従来の考え方をひっくり返すことになる。

このとき幸い、日ごろの備えとして寝室にはほとんどものを置いていなかったため、新井アナの家族にけがはなかった。すぐに荷物をまとめ外に出ると、自宅近くの裁判所が避難場所として開放されていたので、身を寄せた。

6歳の長男はふだん、台風や噴火があると「こういう時にパパはいない。仕事に行く」って子どもなりに分かっていたようで、何も言わないでいた。

だが、この時ばかりは違った。

パパ、行かないで

長男から初めて言われた言葉だった。未明の時間帯、避難場所から外に出ていく父親は、自分1人だった。家族には申し訳なかった。

4年間毎日のように通い続けた放送局への道に出ると、そこには様変わりした姿があった。熊本城の石垣があちこちで崩れていた。2日前の大揺れにも耐えたあの石垣が。

前震直後、粉塵を上げる熊本城の映像
本震で崩れ、復旧が必要な石垣は約10万個に上ることになる

新井アナ
これはやばいと思いました。熊本市の中心部がこうなってるってことは、周りの地域もまずいんじゃないかって、血の気がひきましたね。局に行くと壁もひび割れてるし、「ヘルメットかぶれ!」って言われて。かろうじて自家発電が動いて電気はついていましたが、東京から放送が出ていても、熊本局としてどうするかまだ決まってないような状態。大混乱でした。

オーダーは“熊本の今を伝えてくれ”

朝になると、ディレクターと一緒に益城町の避難所に向かった。その日の夜の全国放送番組で中継をするためだった。東京の番組サイドからは“熊本の今を伝えてくれ”とオーダーが入った。

中継時間としては、2分半から3分程度の尺。だが、「熊本の今」とは何だ?未明の揺れで、一体何が起きたのか。状況が全く把握できていない。益城町に至っては、28時間の内に震度7が2回直撃。余震も収まっていない。

しかも、道が壊れていたり、う回しなければならなかったり、2時間経っても益城町に全然つかない。ふだんなら30分くらいで行ける町。だが、そこは近くて遠い場所となっていた。

16日の益城町の幹線道路 倒壊した住宅が道路を塞ぐ

やっと中心地に到達したとき、新井アナが目にしたのは、変わり果てた町の姿だった。

いたるところで住宅が崩れ、道路が隆起し、場所によっては元の姿が想像できないほどだ。

がれきが積まれた益城町宮園地区

この地震を引き起こしたのは、住民たちの足の下を走っていた「活断層」だった。地質学調査では過去にもずれ動いた形跡があったが、熊本地震でもその一部がずれ動いたとされている。そのずれが、人々の生活や生業の場を引き裂いた。

これまでの地域のニュースで、新井アナは活断層のリスクは伝えてはいたし、知識もあったが、自らが熊本に赴任している間に起きるとは、想像だにしていなかったという。

益城町 活断層で地面がずれ動いた跡

2度目が「本震」という底知れぬ恐怖

「時間はない、けれど取材を深めなくては」

新井アナは避難所となっている益城町総合体育館に到着すると、はやる気持ちは抑えて、奥には入らず入り口や外で避難する人たちの様子をじっと伺った。

一番つらいのは被災者の方。こんな状況で聞かれても嫌がられてあたりまえ。「ただ、お話を聞かせていただきたい」と自分が誠心誠意伝えるほかない。

そう考えていた。

3、4時間かけて10人ぐらいに話を聞いた。決して多いと言える人数ではなかったけれど、皆に共通する感覚があった。

「14日の地震とは恐怖感が桁違いで…」
「また大きな地震が来るんじゃないかって、怖い」
「不安で全然眠れない」

セオリーに反した「本震」に誰もがおののいていた。自分ももうかれこれ丸二日はまともな睡眠をとっていない。

とにかく、不安な夜を、みんな一生懸命耐えています

避難した人々を“代弁”するつもりで、中継に込めた思いだった。

16日の「NHKスペシャル」で中継する新井アナ

この中継がそれまでの災害報道の経験上、一番つらかったという新井アナ。当時をこう振り返る。

新井アナ
当時はキャリア12年目で中継のコメントが飛んだりすることって普通はないんですが、リハーサルでコメントが出てこなくって・・・全国の人にちゃんと伝えないといけないし、でも寝てないし、家族のことも心配だし、余計に追い込まれちゃって。本番30分前に一人で待機している車に籠もって必死に覚えました。放送中に止まっちゃうんじゃないかって、未だに見返しても心臓がバクバクします。

「本震」で甚大な被害は広域に

16日には、益城町以外でも状況が一変していた。

午前5時20分ごろ。空が白み始める中、NHKのヘリが上空からとらえたのは、ふだんはのどかな南阿蘇村の変わり果てた光景だった。

全長およそ200メートル、熊本市方面から阿蘇に向かう陸路の要である「阿蘇大橋あそおおはし」がそこにないのだ。よく見ると、橋げたの一部が谷底に向かって釣り下がっている。

橋げたが谷に落下した阿蘇大橋

そして、そこから数百メートル離れた黒川地区では、東海大学の学生アパートが次々と倒壊。住んでいる学生たちがその中にいた。

倒壊した学生アパート 地区では学生3人が亡くなった

一方、県の南の方でも被害が出ていた。

午前8時過ぎの中継映像。震度6強を観測した宇土うと市役所の庁舎の建物が大きくゆがんでいる様子が入ってきた。

宇土市役所の庁舎

岡谷記者は「もう崩れるのでは…」と思いながら、庁舎前から中継を何度も伝えていた。

正常性バイアスの罠 「前震」の教訓

県内の各地では前震後、全国からのたくさんの取材クルーも応援に入っていた。彼らの多くが、16日午前1時26分の本震を直に経験。益城町役場の中で震度7の揺れに遭遇したというカメラマンは「今ここで、天井が落ちてくれば自分は終わりだと思った」と後に話していた。

本震の瞬間を捉えた映像(益城町役場)
一斉に記者たちが飛び上がっている

もし、本震の発生が昼間だったら…

岡谷記者は当時を振り返ってこう話す。

岡谷記者
15日の朝に明るくなってから、益城町を回って取材をしていましたが、もしその時間帯に「本震」が来ていたら、報道関係者を含め、もっと巻き込まれた人がいたんじゃないかと、振り返ってみて怖くなりました。なぜか明るくなると取材しても問題ないように感じてしまうんです。でも、「今この場所で取材していて、もし揺れたらどうなるのか」というところまで、正直、考えられていたかは疑問ですね・・・

15日日中に益城町を取材する岡谷記者

同じリスクは、益城町で記者達の取材指揮にあたっていた那須デスクも感じたという。

那須デスク
結果的に14日が前震だったわけですが、当時は震度7が「前震」なんて思わなかったですし、そもそもその後に「本震」が来るという考えは、NHKの中でも、そんな知見はありませんでした。私自身も、余震は最初の地震より小さくなると完全に思い込んでいて、そういう正常性バイアスとか思い込みで大丈夫って安易に思ってしまうことは、すごく怖いと気づかされました。

取材にあたる取材者の「安全管理」、その一方で、何が起きてるかを伝えるために「必要な取材」、そして、被災した人たちにどこまで取材して良いのかという「適切な距離感」、この3つのバランスがひたすら悩ましかったと振り返る。

苦しみも、救いも、そこが根源

本震後の16日夜に益城町の避難所から中継したあの新井アナ。連日、被災地に入り続け、カメラと身一つで数多くの人に取材を続ける中で、精神的にも肉体的にも疲弊していた。体重は2か月で5キロ減った。

妻と子どもは一時的に東京に避難させていたが、入学式のわずか2日後に地震に遭遇し、「パパ、行かないで」と訴えていた6歳の長男の心理的ストレスもきがかりだったという。

当時、思いを日記に書き留めた。

ずっと震災の取材をしてきた。被災地の取材は何度もしてきた。でも、自分の生活している場所が大きな被害を受けるってこういうことか。被災するってこんなに辛いのか。涙がこんなに出たのは初めてだ。この気持ちに向き合わないといけない。

新井アナの日記より

4年間暮らしてきた熊本の地。だけど、その記憶を形作っていた場所は崩れていった。災害報道には慣れていたと思っていたが、自分や家族が生活者として向き合う災害はこんなに違うのか、被災地を回りながら痛感した。

そんな中でも忘れられない光景があった。

熊本地震のあとに始めたシリーズ「被災地からの声」。ディレクターと一緒に、ひたすら被災地を歩き回って、出会った人たちの声を聞き、放送に出し続けた。

特に被害の大きい地区を回る新井アナ

被害の特に大きかった益城町の一角で、女性たちに出会った。公民館で炊き出しをしてるおばちゃんたちだった。

そのグループは避難している中で、みんな壊れた自宅から余り物の食材を持ち寄って、夜ごはんを一緒に作って食べていた。

集まっている女性達の地震の経験は、どれも重い話だった。涙を流す場面もあった。

だけど、集まったおばちゃんたちは、いっぱい雑談もしていた。みんなでご飯を食べて、おしゃべりをしていると、自然と笑みがこぼれる。深刻な中にも、不思議と明るさがあった。

なんとか、みんなでやってこう。

そんな雰囲気に励まされたのは自分も同じだった。「あなたたちも、一緒に食べようよ」と言われて、救われた気がした。

後日、おばちゃんの持っているカボチャを一緒に食べた

その時の出会いを、新井アナはこう振り返る。

新井アナ
やっぱりそこに住む“生活者”として、一緒に暮らした人がつらい思いをしてるんだから、自分は放送人として、全国に伝える責務があるよねっていう気持ちは持っていました。「NHKだから」とか、「アナウンサーだから」とかじゃなくて、一生活者として「とにかくあなたの話を聞かせていただきたい」と伝えて、その場限りじゃなくてずっとつきあっていくんだって。

今でも、おばちゃんたちとのやりとりは続いているという。

あれから7年

この7年の中で、取材や放送のあり方も変わってきた。

熊本地震以降も様々な災害が続く中で、放送での注意喚起を地元局のアナウンサーがする機会が増えた。

地域放送局のアナウンサーや記者など、一緒に生活している人、見慣れている人が「危ないから逃げてください」と呼びかける方が、視聴者の意識の変化に効果が高いといったことが見えてきたからだ。

生活者として伝えるのは苦しいことも多いが、同じ気持ちになれるよう取材して言葉を発する。そういう伝え方が、いっそう求められてきている。

新井アナは、現在、仙台放送局で東日本大震災で大きな被害を受けた人たちと再び向き合っている。熊本地震で自ら被災する中で感じた覚悟を胸に、今後も災害報道を続けていきたいという。

仙台局とつないで聞いた

新井アナ
被災者の皆さんの声を聞いて、その聞いた声をなるべく出すことを大事にやってきたけど、それが果たして被災者の方にとって、どのぐらいためになっているかというのは分からなかったし、今でも分かりません。自分の放送が届いているのかなって。でも、判断しなくてもいいんだと思っています。足りるってことは絶対ないですから。そのままずっと考えて、悩んで、そのときの自分の全力で放送していくのが「放送人」かなと、私は思っています。

記者たちも「伝え方」を模索している。あのとき初動で被災地に入り、何をすれば良かったのかと戸惑っていた記者やデスクは今、放送だけでなく、報道のデジタル発信にも取り組んでいる。

あるウェブの記事では、あえて「熊本地震」というキーワードを記事の冒頭に使わず、代わりに「子育て」や「教育」に関わる言葉を強調して、誰にでも起こりうるということを考えてもらうことにした。


タイトルに「熊本地震」と入れなかった記事のサムネイル
被災地で看護師が離職していく実情を取材した

ただ、そのさまざまな手法の根幹には常に「取材」があったという。

那須デスク
被災者の人たちが苦しい中でせっかく取材をさせてもらった思いを、時間が経つ中でも伝え続け、多くの人に届け切るには、放送の他にも、あの手この手で考えていかないといけない。暮らしの中で困っていることの描き方が今、問われているのではないかと思います。

あれから7年 当時を知る記者たちが語り合った

7年の間も、取材は常に戸惑いの連続だった。新人もベテランもひとりひとりもがいていた。

時間が経つ中で、1人また1人と、かつての取材現場を離れざるをえない。熊本局に地震当時のことを知る人も少なくなった。私たちもまた、5年間を過ごした熊本の地を後にした2人だ。

災害取材に筋書きはない。大丈夫だ、と思っているときこそ危ない。それでも現場に向き合うことが取材者の宿命ならば、葛藤している自分をまずは受け入れるしかないのかもしれない。

日本に住んでいる限り、いつ、どこで、災害が起きるか分からない。当たり前なのに、自分ごとにしにくいこの事実を、忘れずに伝え続けたい。

ネットワーク報道部 杉本宙矢記者

2015年入局。記者2年目で熊本地震に遭遇。現在9年目。2020年から現職で、主にネット向けの記事の取材・編集を担当。趣味はバスケットボールとアニメ鑑賞のほか、歴史や哲学も好き。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」という言葉を頭の片隅において取材したい。

ネットワーク報道部 岡谷宏基記者

2013年入局。熊本地震の際は4年目。2018年に経済部へ異動。去年からネットワーク報道部で主にウェブ向けの記事の制作や編集を担当。目標は「記者という仕事の魅力を伝えられる記者になること」。2歳の娘との時間が何よりの楽しみ。

熊本地震 取材者たちの詳しい記録はこちら

「記者が語るあのとき①~③」

「元熊本局アナウンサー 7年目の告白 前編・後編」

「遺族と考える災害報道」


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