ベリック包囲とハリドン・ヒルの戦い
本記事は百年戦争とスコットランド III-III:即位と一進一退と ―1332年の戦局―の続きです。
イングランドの軍事支援と領土割譲の約
エドワード・ベイリオルの敗走は、戦争をさらに深刻化させる方向へと作用した。1333年の1月、敗走したベイリオルはヨークで議会を開いているエドワード三世のもとに向かった。彼の目的はエドワードから軍事援助を受けることであり、そこで再び臣従礼の打診が行われた。しかしながら、結局のところ議会はこの問題に結論を下すことを望まず、その決定は王と議会が選定した6名の顧問団に委ねられた。
「恥ずべき平和」からの脱却を目論むエドワード三世は顧問団の同意を取り付け、廃嫡者たちに対する軍事援助を約束する。エドワード三世はベイリオルに軍事援助を行い、その対価としてスコットランド南部諸州の割譲を受けるという形で、ベイリオルに対する全面的支援と自身の直接支配の折衷案を取ったとされる。
ベリック包囲とエドワード三世の参戦
3月、支援を受けたベイリオルは大軍を率いてスコットランドに侵攻し、海陸両面からベリック市と城の包囲を開始する。また、別働隊が西部境界地域のアナンデイルを攻撃した。親ブルース派は摂政アーチボルド・ダグラスが反撃としてノーサンバランドに略奪遠征を展開したが、これが両王国の和平を破棄する行為として、エドワード三世に戦争の大義名分を与えることになる。
5月、エドワード三世は王弟ジョン・オヴ・エルタムをはじめ大軍を引き連れてベリック包囲に加わる。その正確な数は不明だが、現代の研究者はおおよそ13,000程度ではなかったかと推測している。また、王は前年に捕らえられたジョン・クラブを味方に引き入れ、海上からも同市を包囲した。籠城を続けるも、形勢不利と見たスコットランドのマーチ伯とアレグザンダー・セトン(前年にキングホーンで戦死したアレグザンダー・セトンの父)率いる防衛軍は、期日までに救援軍が訪れなければ城と町を明け渡すという条件のもとでイングランド側と暫定的な休戦を取り結ぶ。
摂政アーチボルド・ダグラスは七月、再び大軍を引き連れて南部へ向かう。こちらも正確な数は不明だが、15,000程度ではないかと見積もる研究者もいる。彼の目的はノーサンバランドへの遠征を敢行し、その地を戦火に巻き込むことでベリックの包囲解除を狙うものだった。しかしながら、イングランド側はまったく包囲を解く姿勢を見せなかった。
現代の歴史家は、ダグラス側の戦術が遅きに失したと分析している。休戦は一度期限切れとなり、再度短期間の休戦が敷かれることになるが、ダグラスは徐々に戦術的な選択肢を狭められていき、最終的にはエドワード三世率いる包囲軍との合戦に臨むほかない状態にあった。
ハリドン・ヒルの戦い
7月19日、ダグラスはベリックに向かって軍を進め、トゥイード川を跨いで包囲軍と相対する。対するイングランド軍はベリック近郊のハリドン・ヒルに陣を張って構えていた。戦闘は、ダグラス側の攻撃により始まった。
結果はスコットランド側の大惨事に終わった。両軍の間にはぬかるんだ土地が広がっており、ダグラス側は既に連日の強行軍で疲弊していた上に、悪戦苦闘してそこを通り抜けたのち、さらに丘を登ってイングランド軍と刃を交える必要があった。
他方のイングランド軍はダップリン・ムーアの時と同様、守りに徹して長弓兵による射撃で応戦する戦術を取った。これはおそらく、歴戦の勇士ヘンリ・ボーモントの策によるものだったのだろう。また、この時はじめて、重装騎兵も下馬して戦う戦術が取られたとされている。この戦闘スタイルは後の百年戦争でイングランド軍がフランス軍を大敗させる際にとった戦術であり、その意味で当時としては革新的なものだった。
スコットランド軍はイングランド軍が放つ矢の雨の前になすすべもなく敗走した。彼らはシルトロンと呼ばれる長槍を持った歩兵による密集陣形を得意としたが、これは騎兵の強襲へのカウンターとして有効であっても、降り注ぐ矢の雨にはうまく機能しなかった。三つの大隊の一角が敗走するや、彼らの戦線は次々と崩壊していく。摂政アーチボルド・ダグラスとその甥ウィリアム・ダグラス(ロバート一世の重臣、ジェームズ・ダグラスの嫡子)、ロス伯ヒュー、サザランド伯ケネス、キャリック伯アレグザンダー・ブルース、レノックス伯マルコム、アソル伯ジョン・キャンベル、その他にもフレイザー家やステュワート家の者たちをはじめ多数の貴顕が戦死した。
ハリドン・ヒルの戦いの史的重要性
この戦闘では中世の他の戦争と異なり、捕虜がほとんどおらず多くの戦死者が出たことでも知られる。このような戦いは「歩兵革命」が起こった後のヨーロッパの戦争の典型であり、現代の軍事史家はハリドン・ヒルがそのひとつの画期となったと考えている。この戦闘での経験は、エドワード三世が後の百年戦争を戦っていく際の戦略に大きな影響を与えるものであった。
ベリックの降伏
合戦の翌日、都市民の生命や財産の補償と引き換えにマーチ伯とセトン、ならびにその少し前に防衛に加わったウィリアム・キースはベリックをイングランド軍に明け渡し、イングランド王に忠誠を誓った。
レファレンス
記事
書籍
ラルフ・グリフィス編(北野かほる監訳)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史五 一四・一五世紀』(慶応義塾大学出版会, 二〇〇九年).
Grant, A. Independence and Nationhood: Scotland 1306-1469. Edinburgh, 1984.
King, A., and C. Etty. England and Scotland, 1286-1603. London, 2016.
Rogers, C. J. War Cruel and Sharp: English Strategy Under Edward III, 1327-1360. Woodbridge, 2000.
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