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百年戦争とスコットランド⑧:重なり合う紛争ー④

本記事は百年戦争とスコットランド⑦:重なり合う紛争ー③の続きです。

ングランド統治下のスコットランド

ジョン王の降伏により、スコットランドはベリック市を拠点とするイングランド政府の統治下に置かれることになった。現在、ベリック市はイングランドの一部となっているものの、当時はスコットランド王国随一の経済都市だった。エドワード一世は戦争の功労者でジョン王の親戚にあたるワーレン伯を国王の代理とし、手練れの役人であるヒュー・クレシンガムを財務府長官に、行政文書を扱う尚書部の長官に王の書記であったウォルター・アマシャムを任じて彼らに統治を委ねた。

王国各地の地方役人には、多くのイングランド出身者が任命された。その統治さながら、現代の歴史家によって「植民地支配」と形容されるようなものだった。しかし、その統治は一年足らずして困難に直面することになる。

この時もまた、大陸の政情がスコットランドにも影響を及ぼす格好となった。依然として、ガスコーニュではアンジュー側に不利な状況が続いていた。イングランド国内においても戦費調達の負担が重くのしかかり、臣民たちの不平不満が鬱積していた。

そんな中、現在のベルギーにあたる地域に独立した勢力を築いていたフランドル伯が、フランス王フィリップと険悪な仲に陥っていた。フィリップ四世は伯の許可を得ずにフランドル諸都市に課税を行うなど、アキテーヌと同様、フランドルに対しても上級支配権を主張し政治や経済に介入していったのだ。王に対抗するため、伯は、エドワード一世と同盟を結んで援軍を要請した。エドワード一世はフィリップ四世の目線をガスコーニュからそらすために、フランドルへの派兵を決定する。しかし、この決定が更なる余波をブリテン諸島中に生んでいくことになった。

戦費の負担に対して、イングランド王国内の聖俗双方から大きな反発が生じた。世俗の有力者からは海外での軍役に反対の声が上がり、王国の聖職者たちは課税を容認しなかった。現代の研究者は、当時のイングランドがあわや内戦目前の危機にあったと評している。戦争はもはや王が自力で確保できる資源や兵力で賄うことはできず、課税というシステムを介して王国のさまざまな階層を巻き込むものになっていった。

そしてこの軍役と戦費調達に関しては、新しく彼の支配下に入ったスコットランドも対象となった。財務府長官のクレシンガムは後世の人々から「金をこよなく愛する男」とのそしりを受けるほど、財源確保に奔走していた。しかしながら、スコットランド人たちはそれまで、同時期のイングランドに匹敵するような経済的負担を経験してこなかった。また、スコットランドや大陸への遠征において既にウェールズやアイルランドから大勢の歩兵が徴発されており、おそらく自分たちも同様の目に合うことを彼らは恐れていたに違いない。そのため、この要求は王国各地で反発を生み、それが反乱という形に発展していくことになった。

同時多発的な反乱

反乱は王国の南西部と北部で同時発生し、互いに合流して大きなうねりを作っていった。南西部ではグラスゴー司教、ロバ―ト・ブルース、ジェームズ・ステュワートらが結託して反抗したほか、一二九七年の五月、ステュワート家の従者の家に生まれたウィリアム・ウォレスがイングランド人の州長官を殺害、それに同調した人々がその反乱に合流していった。

時を同じくして、王国北部、ネス湖で有名なインヴァネスとその周辺では著名な騎士家門の出身であるアンドリュー・マリがインヴァネス市民と結託してネス湖畔のアーカート城を攻撃し、これを占拠するという事件が起こった。やがて両者は合流し、ウォレスとマリをスコットランド軍事指導者として各地の貴顕を従えながら勢力を拡大していった。

彼らに加担し、イングランドへの抵抗に参加した人々の動機はなんだったのだろうか。数世代後のスコットランド側の史料は、イングランド支配下の「隷属」への抵抗と不満を理由に挙げている。一方、イングランド側の年代記は「王国の古来の法と慣習」の保持が反乱の理由だったと述べている。

現代の研究者は、先に述べたような軍役や戦費の徴発がスコットランド人の目には異質で不法なものと映ったとしているが、これらは「王国の古来の法と慣習」に反して行われたものだった。自分たちの固有の法と慣習という概念は現代の我々には少し理解しがたいが、これらは当時のヨーロッパ人のアイデンティティや共同体意識を形成するにあたって重要な役割を果たした。ちょうど三年前と同じように、彼らはそれが侵されようとした時、反発の姿勢を見せたのだ。

スターリング・ブリッジの戦い

この時エドワード一世はフランドル遠征を目前に控えていたため自ら軍を率いることはできず、代わりにスコットランド統治を任せていたワーレン伯と財務府長官クレシンガムに反乱の鎮圧を命じた。両者に率いられた軍勢は同年九月一一日、スコットランド中央部に位置するスターリング近郊で、ウォレスとマリが率いるスコットランド軍と相まみえた。スターリング・ブリッジの戦いとして有名な事件である。

戦場となった橋は狭く、イングランド軍は思うように軍を展開できずに槍兵を主体としたスコットランド軍に包囲されてしまった。イングランド軍は大敗を喫し、司令官のクレシンガムが戦死するという憂き目にあった。この勝利に勢いを得て、ウォレスはスコットランド各地を服従させながらイングランド北部への略奪行を敢行する。わずか一年でイングランド人の統治は事実上崩壊してしまったのだ。

後世の年代記の中には、スターリング・ブリッジでの敗戦の報がフランドルに遠征中のエドワード一世を激高させ、彼をフランス王との休戦に方針転換させたと述べるものもある。敗戦の報は九月二〇日頃にはロンドンに届いていたことが分かっているが、その知らせが海を渡ってエドワード一世の耳に届き、そこからフランス側との休戦交渉に入って一〇月九日に休戦が結ばれるという流れはやや急ピッチな感がしなくもない。

また、その記述を遺しているのはスコットランド側の史料であり、彼らが自分たちの事績を賞賛するためにそのような理由づけを行ったとも解釈できる。その因果関係はやや不明瞭だが、結果としてエドワードとフィリップが現在のベルギーにあるヴィーヴ・サン・バヴォンの地で休戦を締結したことは事実だ。その後両者の間では目立った戦争行為は発生せず、休戦の延長を繰り返しながら最終的に一三〇三年に和平に至ったのは先に述べた。

エドワード一世の北征

フランスとの戦闘が終結したことで、エドワード一世は自らのエネルギーを北に向けられるようになった。一二九八年から一三〇一年にかけて、王は度々スコットランドへの遠征を行った。

一二九八年、王はスコットランド南部のフォルカークの地でウォレス率いるスコットランド軍と会戦した。戦闘は、歴戦の重装騎兵、ウェールズの長弓兵、ガスコーニュの弩兵の混成部隊であるイングランド軍の圧勝だった。シルトロンと呼ばれる、槍兵による密集陣形を主体としたウォレスの軍はイングランド側の矢の雨を受けて散り散りになり、そこに重装騎兵の度重なる攻撃を受けて戦線が崩壊したのだった。

この敗戦を受けて、それまで護国卿としてスコットランドを率いていたウォレスはその任を降りることになった。代わりにロバート・ブルースとジョン・カミンが一時的に共同で護国卿となったが、両者の対立はその後の歴史の展開に重要な影響を与えることになる。

スコットランド内部ではブルース一派とカミン一派による対立が顕在化し、貴顕たちは決して一枚岩の存在ではなかった。この戦争が決してイングランド対スコットランドという図式で捉えらないことには、注意が必要だろう。スコットランド南部の有力貴族であるダンバー伯パトリックは、一二九六年以来エドワード一世に忠実であり続けた。ジョン王の甥であるアレグザンダー・ベイリオルや、カミン家宗主のバカン伯ジョン・カミンの弟アレグザンダー・カミンなどは一二九七年以降エドワードに従った。ロバート・ブルースは一時護国卿となったが、その後すぐにエドワード一世に鞍替えしてしまう。

ここでスコットランド側と述べているのは、あくまでエドワード一世やイングランド人による支配に抵抗したスコットランドの人々という意味に過ぎない。そんな彼らはフォルカークでの敗戦によってイングランド軍との直接対決は危険であると判断し、以降は会戦を避けてゲリラ的な戦闘を展開していくようになる。

大陸での外交戦

戦いの舞台はスコットランドの丘陵や湿原だけに留まらなかった。並行して、スコットランド側はフランス王の宮廷や教皇庁で外交戦を展開して彼らの支持を取り付けていった。その結果、一二九九年にジョン王はエドワード一世の管理下から解放されて教皇の保護下に置かれ、一三〇一年にはフランスはピカルディの地に匿われることになった。一三〇〇年の秋にフランス王は使節を派遣し、エドワード一世に対してスコットランドへの攻撃をやめ和平を取り結ぶように圧力をかけていった。

教皇もまた、エドワードの行為を非難し、スコットランドはカトリック教会に直属するという主張を展開した。それに対してエドワードも王国中からさまざまな記録を集めさせ、なぜ自分が教皇の主張に従うべきではないかを説明しようと試みた。一方でスコットランドの使節も自分たちの歴史をひも解きながら、スコットランドが自由な王国でイングランドに隷属するものではないとの主張を展開した。

フランス王の宮廷と教皇庁、これら二方面での外交戦を通じて、一三〇二年にはスコットランドとイングランドの間で一時的な休戦が成立した。しかしながら、スコットランド側が嘆願した共同での戦闘行為までは、フランス王に認められなかった。フランス王と教皇にとって、スコットランドはあくまで多々ある関心事のひとつでしかなく、自らリスクを負ってまでその益を守るものではなかったのだ。マイケル・ブラウン氏が述べるように、スコットランドは彼らの政策や優先順位を変えるほどの影響力は持ち合わせてはいなかった。

国際情勢の変化

一三〇二年から一三〇三年にかけてスコットランドを取り巻く国際情勢は急転する。一三〇二年七月一一日、依然としてフランス王フィリップ四世とフランドル伯の対立が続く中、フランドル諸都市の反乱を鎮圧するために派遣されたフランス王の重装騎士部隊が、クールトレの地で反乱都市の民兵隊に大敗するという事件が起きた。この敗北はフィリップ四世に取って予想外の痛手であり、スコットランドの貴顕たちにとっても悪い知らせだった。

一三〇三年五月、フィリップ四世はクールトレでの敗北を受けて自身の政策を転換し、エドワード一世との間に平和条約を締結した。その平和条約にはスコットランドは含まれていなかった。これによりスコットランドはフランス王の支援を期待できなくなり、強力な後ろ盾を失ってしまった。

スコットランドにとっての悪い知らせはそれだけではなかった。もう一つの頼みの綱であったローマ教皇もフランス王国内の教会の監督権をめぐってフィリップ四世と対立するようになっていた。それがエスカレートした結果起こったのが、一三〇三年九月に発生したアナーニ事件と呼ばれるフィリップ四世が教皇ボニファティウス八世を襲撃させた事件だ。事件の直後に教皇ボニファティウス八世が没すると、ここでもスコットランドは自らの後ろ盾を失ってしまうことになった。エドワード一世はその年から一八か月に及ぶ長期のスコットランド遠征を行うことになるのだが、その背景にはこのような国際情勢の変化があった。

エドワード一世の支配の頂点

そんな中でも、ジョン・カミンやウォレスらによって抵抗が続けられていた。しかし、背後の憂いを絶ったエドワード一世に対して、彼らは抵抗し通す術を持たなかった。翌年一月にはエドワード王との交渉が始められ、翌二月にはジョン・カミンとその支持者たちが降伏をする。降伏の条件は抵抗したものたちへの土地の返還と、一二九〇年のバーガム条約以来彼らが主張してきた王国古来の法と慣習の維持だった。他のスコットランド貴顕も次々と降伏を始め、七月にはスターリング城が陥落した。

七年の抵抗を経て、再びスコットランドはエドワード一世の支配下に置かれることとなった。新たなスコットランドの支配体制が一三〇五年九月の議会で決定された。国王代理や尚書部長官といった中央政府高官こそイングランド人が占めたが、地方統監といった司法役人や州長官などの地方役人には多くのスコットランド人が任命されるなど一ニ九七年の体制と異なりエドワード側の譲歩も見られなくはなかった。とは言うものの、スコットランドは再びイングランドの征服地となった。ブリテンの島々はそのほぼ全域に渡って、単一の王が支配する世界となった。

レファレンス

記事
百年戦争とスコットランド⑦:重なり合う紛争ー③
百年戦争とスコットランド II-I:反逆と内戦

書籍
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論文
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