【ネタバレ】 誤解を承知で言うのなら、この映画は「泣ける」ものではなかった。

 誤解を承知で言うのなら、この映画は「泣ける」ものではなかった。
 
 ボヘミアン・ラプソディが公開され、知り合いの多くが鑑賞する中、自分はその勇気が出せずにいた。QUEENの、フレディの半生が映画化? どうせ、ありもしないドラマ、薄っぺらいラブコメが詰めこまれたものになるのではと疑っていたからだった。自分の中のフレディが、映画のフレディによってぼんやりと薄められるのを恐れていた。
 しかし、結局、見に行ってみて「めっちゃイイ!」と自分でも呆れるほどの手のひら返しをしてしまった。

 確かに、見かける感想の中には、「実際の出来事と順序が異なる」「フレディが似ていない(歯を強調しなくても……)」「ロジャーはもっとかわいい」とかいったものが散見される。実際に映画を見た自分は、それらに対して「そんなん分かっとるがな」と返すことができる。
 この作品は、嘘と真実が、絶妙な塩梅で調理されたものだ。
 QUEENのメンバーであり、映画の音響監督でもあるブライアン・メイが『これは伝記映画ではなく、硬い岩から掘り出されたような、純粋なアートだ(パンフより)』とコメントしているように、この作品は忠実な伝記ではない。時系列や出来事には、順番が前後したり脚色されたりしている。だが、それが映画を魅力的に仕上げている。
 何より私が良いと思ったのは、この映画がお涙頂戴の泣ける映画ではなかったことである。泣ける映画というのは、いわゆるエンタメであり「ほら泣けーいまが泣くところだぞ」といわんばかりに涙を誘ってくる。だが、今作はそうではなかった。と、思う。辛いシーンはたくさんあったが、それ以上に受け取ったエネルギーが大きすぎて、とても泣くことができなかった。

 以下、作品の内容に大きく触れる。

 本作には、QUEENの史実を知らないという人にも、あるいは純粋な映画作品として楽しむ人にも配慮された作品づくりがされている。とにかく構成が美しい。
 まず、主人公であるフレディが目覚めるところから始まる。彼は何やら準備をして、大きなライブ会場へと向かっていく。彼がステージに上がったところで、時系列は過去へと遡る。……このシーンまでで、フレディの顔が映されることはない。しかし、その後ろ姿や身振りを見ただけで、既に彼を知るファンは「フレディだ」と画面に釘付けになっている――それから、彼の半生が描かれて、再び冒頭のライブ・エイドに戻ってくるという構成だ。終盤で、同じシーンが繰り返されるのがまた素晴らしいと思う。ループ構造になっているのである。
 この映画では、フレディが生まれたり、死んだりする描写はない。私たちは彼の「現在」を常に見る。だから、映画の冒頭はライブ・エイド当日の目覚めから始まるし、ライブ・エイドで終わる。なんだか、ライブ前日の、長い夢を見て微睡むフレディを見ているような気もしてくる。

 QUEENメンバーの役者は本家にそっくりだと思う。なんというか、QUEENの一番輝かしいころを詰め込んで、活き活きと動いているのだ。特にフレディは若い頃に似ている。そして、"Keep Yourself Alive"でタンバリンを客に向ける仕草、身体の逸らし方、足の曲げ方やブライアンに寄って行くところなどなど動きが完全に本家であった。
 ブライアンもめちゃくちゃ似ている。本物なのではないかと思ったほどだ。ロジャーのフレディとのつるみ方や、ジョンの扱いなども、まるで本物を見ている気分にさせられた。
 フレディの、マイクの上部分だけを持つライブパフォーマンスはよく知られているが、作中でフレディが初めてのライブでマイクの高さ調節をする時に誤って引っこ抜くという描写をしていることで、知らない層にも後々のライブパフォーマンスのシーンが受け入れられやすくなっている。
 作中に流れるのはすべてQUEEN(おまけの例外も有り)の楽曲で構成されており、場面ごとに歌詞やタイトルが合致している。それに、これはちょっとしたファンサービスかもしれないが、QUEENの楽曲やライブやらを連想するアイテムが散りばめられているのも面白い。王冠を被ったフレディ、自転車を漕ぐ女性などがそうだ。フレディの最初のライブで、前説で”Beautiful people~”と言うが、これは実際のライブ・エイドで彼が口にするセリフだったはずだ。彼の一貫性も表現されていると思う。

 作中で最も悪人として描かれているポールは、初登場の場面でバックに"DANGER"の看板を映り込ませる演出がなされるほどの徹底ぶりで、フレディをメアリーや他メンバーから引き離し孤独にしていく。実際に彼が何をしたのか、あるいはしてないのかを私は知らない。それでも彼が悪の代表の役割を担ったことで、この作品は彩りが増したことは間違いないと考える。
 フレディはポールに翻弄されっぱなしである。ポールはゲイである。ポールは彼をゲイの世界に誘う役割を果たしている。フレディにキスをしたり、まっぱの男をフレディが訪れる部屋に寝かせていたり、ボヘミアンラプソディをラジオで流してもらうため、ケニーを紹介したのも、恐らくポールであろう。ちなみに、ポールやケニー、フレディの愛人ジムも、エイズで亡くなっている。
 結果、フレディは家族同然だったメンバーに「家族ではない」と言い放ち、ポールの元で、酒や薬やらに溺れていく。一度はソロデビューを蹴ったことをメンバーが知らないだけに、辛い場面だった。
 ライブシーンや感情的になるシーンが多いので、映画だけでは勘違いをしてしまいそうになるが、本来の彼は恥ずかしがりやであるという。実際、映画内でもロジャーとブライアンに自身を売り込むときにもじもじっとするのを見ることができる。全体的に、スターではなく、彼が非完全なただの人間であるということに改めて気づくことのできる内容だと思う。
 また、これはまだ確信が持てていないのだが、映画内ではフレディが遅刻する描写がよくされている。彼が終盤距離の離れたメンバーと仲直りをするシーンでは、遅刻魔のフレディではなくメンバーがわざと遅刻してやって来るというのが笑いどころだ。しかし、思い出してみると、フレディが序盤でジョンの車に「遅いぞ」と声をかける場面がある。あの仲直りは、単にフレディが早く来て、メンバーが遅れたというよりは、みながスタート地点に立ち初心に返ったことも表現しているのではないだろうか。


 ライブ・エイドでは、完全に我々は観客となって追体験ができる。拍手ができないことをこんなに歯がゆい映画はなかった。後日、声出しOKの応援上映会を見に行ったほどだ。
 もう、この時点では役者のラミはフレディにしか見えなくなっている。それに、彼の動きは本家フレディを追いかけて完全再現していた。それだけではない。再現率の高い会場(マイクに巻かれたテープやピアノの上の飲み物の数まで)、スタッフの服装や動き、メンバーのパフォーマンス、指の動き(音源編集はされているが、手元も全て役者本人のものである)。作品の情熱がこれでもかと詰め込まれている。いわばライブ・エイドのイデアである。我々はイデアを通して、本物のライブ・エイドを見た。
 ライブ・エイドの最後、フレディは大きく手を振りながら、我々観客に「お別れの時間だ」という。行くな、とみんなは思う。私も、彼がいなくなってしまうのが怖かった。だが、たとえ彼が、我々に忘れられたとしても、再びこの映画を見れば、たちまち彼は微睡みから目を覚まして、その歌声を響かせてくれるに違いない。

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