「レールの敷かれた人生」
よく「レールの敷かれた人生」という言葉を耳にする。
「学生時代まではレールの敷かれた人生である」
「これからはレールのない人生を歩むことになる」
ある程度はそうだろう。
たいていの人にとって人生のある時期までは「レールの敷かれた人生」を歩むことになり、いつしか「レールのない人生」を歩くことになる。
とはいえ、これも全ての人に当てはまることではないだろう。
本来であれば敷かれていたであろうレールの上から不本意ながら脱落してしまうこともあるだろうし、意図的にレールから外れることもあるだろう。
あるいは、通念上「レールのない人生」を歩み始める時期であるにもかかわらず、そこにはレールが用意されていることだってあるかもしれない。
人生の岐路、多様な選択肢
「像に溺れる」特設ページにはこんな言葉を綴った。
レールを敷かれた人生を歩むことが正しい生き方なのか。
レールから外れた人生を歩むことが正しい生き方なのか。
それとも——。
予測困難な社会を生きる我々の前に並べられた多様な生き方の可能性。
我々はどのようにして生き方を選びとっていくのか、あるいはどのようにして生き方を選びとらないのか。
少し大袈裟な、格好つけた文章であることは否定しないものの、これは私の心の中で常に迷い続けているテーマでもある。
私がこのテーマと向き合った最初の記憶は、就職活動シーズンだろう。
私自身、小学校→中学校→高校→大学と、近年では一般的となったと言って良いであろうレールに従って学生時代を過ごしてきた。周囲の友人たちと同様、部活に勤しみながら高校までを過ごし、大学ではまた周囲の友人たちと同じようにサークル・飲み会にも参加し、アルバイトもしていた。
周囲と異なる部分はあったにせよ、おそらくそれなりに標準的な大学生だったと思う。
そして迎えた就職活動シーズン。
変わり者が多いと言われる大学ではあったものの、周囲の友人たちは次々に官公庁・大手金融機関・一部上場企業をはじめ、名の知れた場所からの内定を手にしていった。
一方で私はというと、大学入学当初はとある業種への就職をイメージしていたものの、世間で言われるような就職活動というものを経験しないまま卒業を迎えることになる(予備校の採用試験は就活には入らないだろう)。
このときおそらく初めて、途中までは周囲と同じレールに乗って過ごしていた人生が終焉を迎えたのである。
答えの見えない問い
「有名」大学→「一流」企業という、かつてはある種ほぼテンプレート化されていた人生からの逸脱。
もちろん、周囲と同じように就職活動をしていたからと言って、私も同じような結果を手にすることができていたかどうかは不明である。とはいえ、当時の私は「生きたいように生きる」と心のどこかで思っていたであろうことは否定できないだろう。
この選択が正しかったのかはわからない。
もしかしたら、周囲と同じ道を進めるように努力することが正しかったのかも知れないし、この時の選択が自分にとっては「正しい生き方」だったのかもしれない。
その答えはおそらく最後までわからないのだろう。
ありがたいことに今の私は充実していると感じているし、仕事もプライベートも含めて、好きなことを好きなように過ごしているとは思う。
とはいえ先の問いの答えは、今が充実しているか、今が楽しいか否かとは別問題だ。
予測困難な社会の中で
私が大学に入学した10年前と今とでは社会のあり方も大きく変化している。
新型コロナウイルスの影響で強く意識されるようになった部分も大きいものの、それでなくとも現代の社会は予測困難なものである。
AIの進歩、労働力の多様化、家族のあり方の変化、少子高齢化、グローバル化……。未来の予測がますます困難になるであろうことが容易に想像できる要因はたくさんある。
これからは人生の様々な場面において、これまで以上に多くの選択肢を用意され、その中からの選択が求められるようになっているのかもしれない。
とはいえ、その「選択肢」は、本当にその中から選び取らなければならないものなのか。
今はまだ見えていない隠れた選択肢が存在する可能性や、新たな答えを自ら導き出すことの可能性を探ることもできるのではないか。
「何かを選ぶ」ことの裏側には常に「何かを選ばない」ことが潜んでいる。
私は現代文の指導においては消去法を極力避けるように伝えているけれど(笑)、生き方の選択においては「何を選ぶか」の前に「何を選ばないか」という考え方も許されるのではないか。
それでも「何を選ぶか」の方が大切だとされるなら、それはなぜなのか。
「像に溺れる」は今後、そんな問いに自然と向き合う小説になっていくのではないか。
草稿を読み進めながらそんなことをこの数ヶ月間考えていた。
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