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二項対立に塗れた世界像——「中動態」の世界線に生きるという話。

現代文を指導する中で、教え方がどうであれ、さらには指導するかどうかは置いておくとして、自分が考える上で避けては通れないテーマの一つが「対比」「二項対立」であるのは間違いないと思うんですね。

現代文に限ったことではなく、周りを見渡してもあらゆることが二項対立的な発想で語られることが多いように感じることは多々ある今日この頃です。嘘です。今日この頃ではなく、昔からぼんやりと思っていました。

でも、どう表現すれば良いかは迷うところですが、生きづらさというか日常生活が窮屈に感じる原因の一つはこの二項対立的な発想にあるような気がしてならないんですよね。

中動態の世界

2017年に発売された國分功一郎『中動態の世界: 意志と責任の考古学』は、初めて読んだときに衝撃を受けた一冊です。

不勉強の権化である私は恥ずかしながら「中動態」という存在をこの時まで知らなかったのですが、近代という時代からさまざまな局面の根底にある「二項対立」的な世界像に疲弊していた感が否めなかった私にとって、一筋の光明が差したような感覚がありました。大袈裟ではなく。

こんな物の見方を知るだけで救われた思いになる人は多いのではないかとも。

受動/能動では語り得ない世界

考えてみれば、我々の生きる社会は二項対立で語り切ることは難しい世界なのでしょう。

たとえば勉強。

勉強を「やらされている」と感じている人もいるかもしれませんが、「勉強しない自由」というのも本来はあるはずで。それでも勉強していたりするわけですよね。
じゃあその状況を自分から能動的に選んでいるかといえば、そうとも限らない。今の社会では「勉強する必要性」というのがあるように感じるから勉強しているという人もそれなりにいると思うんですよね。もちろん自分から進んで勉強しているという人も一定数いるとは思いますが。

あるいは、「勉強したいけれど、他にやらなければならないことがある」という人。
強制的にやらされているのでない限り、究極的には「やらなければならないこと」をやらない自由もあるにもかかわらず、その権利は行使できない事情がある。それでも、完全に強制されているのかというとそうとも限らない。それでもやらざるを得ない。

考えれば考えるほど、袋小路に迷い込む感はあるわけです。

そして、世の中に蔓延る「自己責任論」に窮屈さを感じる一つの原因ってここにあるような気もするんですよね。

全ては「自己責任」なのか

自分がフリーランス、個人事業主だからなのか、SNSを開くたびに不遇な状況を訴える人に対して「それを選んだのはお前だ」「自分が頑張らなかったからそうなる」「自業自得」という批判が目につきます。

もちろんそうした側面はあると思うんですね。でもそれを全て「自己責任」だと片付けることには抵抗感を覚えます。

たしかに自分で選んだことであるかもしれない。より良い選択肢を選べなかった自分のせいなのかもしれない。でもその時にはその選択肢しか選べなかった事情があるのかもしれない。案外そういうことってあるんじゃないかなと思うんです。

全てが自己責任でもなく、全てが他者のせいでもなく

だからといって全てを「自分が悪いわけじゃない」とは言いきれない部分もあり、自分に目を向けることも時として必要ではある。
かといって追い詰められるほど「全て自分が悪い」とも考えすぎる必要はないことも多いと思うんですよね。

その辺りの折り合いをつけていくことが、生きていく上で重要なことなのでしょう。

結局のところ、全てを二項対立的な世界観に帰すことは出来ないのではないかと思うわけです。世界はそんなに単純じゃない。

じゃあどう考えれば良いのか、案の定自分の中でも結論はまとまっていないわけですが、いろいろ考えるきっかけになった一冊であるのは間違いないと思うんですね。

この『中動態の世界』は、もし今「生きづらさ」を感じている人がいるなら一読をお勧めしたい一冊ではあります。

相変わらずまとまらないですが、今日はこの辺で。


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