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【小説】屑と宝石といつわりの ※R15

「お前の地獄は俺の天国」をテーマとする一次創作文芸アンソロジー(R15)に寄稿した作品の試し読みです。
これだけでも読み物としてお楽しみいただけるよう、16000字のうち13000字(約8割)を抜粋して掲載しております。
結末はぜひアンソロジーをお手に取ってお読みいただけましたら…!

公式ツイッターのモーメントから掲載作品のサンプルをご覧いただけます。
https://twitter.com/i/events/1194612189245538306

☠BOOTHにて通販中👼
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カバーサンプル(RGB)

下記の要素が苦手な場合には閲覧をご遠慮ください。

※嘔吐、飲酒、喫煙、暴力、性行為(近親相姦、同性愛、合意のない接触を含む)




屑と宝石といつわりの


 ドアの前に立つあたしを見るなり、託斗は露骨に顔をしかめた。
「久しぶりだね、お兄ちゃん」
 言い終わらないうちにドアが閉まってしまう。隙間に足を突っ込んでおくべきだった……と唖然としていたら、カチャカチャと鎖の鳴る音のあと、くぐもった声が「入れば」と告げてきた。あたしはホッとして、ドアノブを引っ張る。エアコンの冷気が弱い風となって流れてきた。
 室内と1センチ程度の段差しかない狭い玄関には、スニーカーとサンダルが一足ずつ。壁に立てかけられたビニール傘。上がってすぐ右側に流しと一口だけのコンロ、小さな冷蔵庫の上に電子レンジ。左側にユニットバスの折れ戸。その先の部屋では、フローリングに直に敷かれた布団が人間の抜け殻の形を保っている。棚の類はなく、壁に沿って本が並んでいた。真っ昼間だというのに、遮光カーテンのおかげか部屋の中は薄暗い。
「こんな時間に、まだ寝てたの?」
 振り向かないまま「ん」と短く返事をした託斗が、ふたたび布団に潜り込もうとするのを、あたしは腕を掴んで阻止した。
「遠路はるばる訪ねてきた妹に、その態度はないんじゃない?」
「頼んでない」
「心配するでしょ、ふつう。一年以上、一回も帰省しなかったら」
 肘を掴んでいるあたしの指を、託斗が剥がそうとしてくる。あたしは自分から手を放すと、託斗の腰に抱きついた。
「るり」
 たしなめるみたいに腕をトントンと叩かれた。叫び出したい気持ちをぐっとこらえながら、託斗の背中に額をぶつける。
「寂しかったよ、あたしは」
 託斗が息を呑むのが伝わってきた。
「あたしのこと、もうキライになった? 家まで来られて迷惑? 鬱陶しい?」
 ずっと……逃げたかったの? 続けようとして続けられなかったのは、湿っぽい布団の上に転がされてしまったせいだ。
 仁王立ちであたしを見下ろしている託斗は、怒った目をしていた。その顔のまま、あたしに覆いかぶさってくる。あたしは安堵して、目を閉じる。

 眠る託斗の隣で、あたしもいつのまにか眠ってしまっていた。夜行バスと列車を乗り継いでここまで来たうえ、手加減なしに責められたので、当たり前といえば当たり前なのだが。
 目が覚めたのは、ドアがガチャンと閉まる音のせいだ。託斗も同じ音で目を覚ましたのだろう、ん……と鼻を鳴らしながら身じろぎ——すぐに、ものすごい勢いで跳ね起きた。
「るり、動かないで」
 押し殺した声で命じられ、頭まで布団をかぶせられる。言われたとおりに息を殺していると、玄関のほうから近づいてきた足音がすぐそこで止まった。
「時計も読めなくなったのかよ、クズ」
 完全なる罵倒なのに、声音は場違いに明るい。
「シノさん、あの」
 対する託斗の声は掠れている。呼ばれた相手が喉だけで笑った。
「んな顔すんな、心配して迎えに来てやってんのに。感謝しろよ。つーか、まずは服を着ろ」
「あっ、は、はいッ」
 託斗の走る音、クローゼットを開け閉めする音の直後に、重たいものが壁にぶつかるような音と「ゔッ」という呻き声が聞こえた。
「服着たら、ぐずぐずしてねーで降りてこい。下で待ってる」
 足音は遠ざかっていった。ドアの閉まる音がしたのを確かめてから、あたしは布団をはねのける。
「託斗……!」
 託斗はまだ裸のままで、床に膝をつき、激しく咳き込んでいた。床は濡れていて、ツンと鼻を突く異臭がする。両手で腹を押さえているということは、殴られたか蹴られたかして胃液を吐いたのだろう。
「ひどい、どうして」
 あたしの悲鳴に、託斗はゆっくりとかぶりを振る。
「俺が悪い」
 五千円札を渡されて「バイトなんだ、今から。帰ってくるのは深夜になる」と説明された。
「それで何か食べて。コンビニくらいならいいけど、寝るときは鍵かけるの忘れないで」
 あたしには、慌ただしく部屋を出ていく背中を見送ることしかできなかった。

 床をきれいにしてからシャワーを浴びたら、もう夕飯の時間だった。冷蔵庫の中も覗いてはみたけれど、カラカラに干からびた納豆が1パックと使い差しのマヨネーズが入っているだけだ。託斗のサンダルを借りてコンビニへ行った。おなかはそれなりに空いている、なのに食べたいものを思い浮かべられない。あたしは仕方なく、「期間限定」とか「地域限定」と書かれているカップ麺とスナック菓子を手当たりしだい買い物カゴに放り込んだ。
 部屋の床に直置きされていた電気ケトルでお湯を沸かしながら、壁に立てかけてあった折り畳み式テーブルを開き、買って帰った品々を広げる。
「まさか、勉強もこの机でしてるのかな」
 教科書とノートを開いたら、それだけでいっぱいになってしまいそうなサイズだ。不便じゃないのだろうか?
 そういえば、託斗は物を欲しがらない子どもだった。誕生日やクリスマスを控えて大人たちが「欲しい物は?」と訊いてくれても、曖昧な笑みを浮かべて「なんでもいい、なんでもうれしい」と答えるタイプの。あたしはといえばいつだって、絞りきれないくらいたくさんの欲しい物があったから、「『なんでもうれしい』なんて、ほんとうに?」と、ずっと不思議に思っていた。今なら分かる——あれは、何にも興味を抱けない人間の模範解答だ。
 誰にも相談せず全寮制の高校を選び、奨学金で大学に進んだ託斗は、父と母とあたしとあの家で暮らしていた十五年間、ずっと疎外感を味わっていたんだろうか。「ふたりだけの秘密」と嘯き、まだ胸も膨らまないあたしを裸にさせたのは、彼なりの復讐だったんだろうか。
 考え込んでいるうちに、辛子明太子味のカップ麺はすっかりふやけてしまった。

 託斗が帰宅するまで待つつもりだったが、0時を過ぎたくらいから目を開けていられなくなってきた。電灯は消さないまま、Tシャツと下着だけになって布団に潜り込み、枕を抱きしめてみる。託斗のうなじの匂いがした。懐かしい……
 あたしたちは、誰から見ても仲のいい兄妹だったと思う。二歳年長の託斗は面倒見がよく、自分の友だちと遊ぶときもあたしのことを邪魔者扱いしないでくれた。あたしは託斗が大好きだったし、いつもいっしょにいたかった。兄妹でありながら性的な関係に至ったことは、むしろ自然な流れだったと思う。
 好奇心から始まった行為は、すぐに習慣と化した。あたしたちは両親の目を盗んで身体を重ねた。声を殺して達する瞬間、苦しげに歪む託斗の顔を見ると、心が満たされた。
 今日、久しぶりに託斗と交わって、やっぱりこの人しかいないと感じた。託斗だって同じ気持ちのはずだ。あたしたちは離れているべきじゃない——
 とりとめなく思い巡らせながらうとうとしていたら、ガチャ、と鍵の回る音が響いた。託斗が帰ってきた! あたしは布団を飛び出して玄関へと向かう。
「おかえりなさい、遅かっ……」
 唇を「た」の形に開いたまま、あたしはその場に立ちすくむ。大きく開いたドアの向こうに立っていたのは、託斗だけではなかった。
「あれっ、まだ起きてたんだ。寝ててくれてよかったのに〜」
 枯れ草みたいな彩度の低い金髪にホスト風のスーツ姿、年齢は託斗より少し上に見える。こんばんは〜という明るい声に聞き覚えがあった。昼間、託斗を迎えに来た人だ。
「……『シノさん』」
 あたしのつぶやきにシノさんは相好を崩した。彼の肩にもたれかかっている、もとい、彼に担がれている託斗に向かって「いい子だねぇ、おまえの妹ちゃん」と囁く。ほとんど閉じていた託斗の目が、カッと見開かれた。
「シノさん! こいつのことは……!」
「分ぁってるって」
 後ろへ蹴るようにして革靴を脱いだシノさんが、足許のおぼつかない託斗を運び込もうとする。あたしは急に、自分が下着姿なことを思い出した。慌てて奥の部屋に飛び込み、枕許に置いていたパーカーを腰に巻く。
 まるで砂袋を扱うみたいに、シノさんは託斗を布団の上へ落とした。どこか打ったのかもしれない、低く呻いた託斗の足から靴を脱がせ、玄関へ放り投げる。それから、しゃがみ込んだままで顔だけを、あたしのほうへと向けてきた。人懐こい笑顔に目をくらまされていたけれど、相当な美貌の持ち主であることに、遅まきながら気がついた。
「お兄さんと同じ店で働いてます、シノモトユウイチっていいます」
「あ、ち、、瑠莉、です」
 兄がお世話になってますとあたしが頭を下げると、シノさんは「めちゃくちゃしてます世話」と真顔で宣いながら立ち上がった。
「るりちゃん」
「はい」
「七宝の瑠璃?」
「『る』はそうです。『り』はくさかんむりに利子の」
「ああ、茉莉花の『莉』だ」
 うなずきながら、あたしは驚いていた。男の人で、花の名前だと気づいてくれる人は珍しい。
「かわいい名前だね」
 シノさんからは煙草とお酒と、香水の匂いがした。湿った樹皮みたいな、独特の香り。
「あの……兄が働いてるお店、って」
 長い前髪を掻き上げながら、シノさんが「カラオケ」と答える。
 カラオケ店で、歩けなくなるほど酔わされる業務などあるわけがない……という思いが顔に出ていたらしく、シノさんが「今夜は、店が終わったあとに俺が連れ回しちゃった。ごめんね」と謝ってくれる。
「あ、いえ! こちらこそ、重ね重ねご迷惑をおかけして」
 託斗を迎えに来たときの剣幕を思い出し、あたしは慌てて頭を下げた。シノさんが「ああ、そうだった」と笑う。
「あのときは、まさか『妹さん』だなんて夢にも思わなかったからさぁ」
 明るい口調にいくぶんホッとして、あたしは顔を起こした。シノさんと目が合う。満面の笑み……それなのに、剃刀で背中を撫でられる心地がした。
「あのね、るりちゃん」
「はい?」
 不協和の正体を捉えようと、あたしは無意識に身を乗り出していた。シノさんの目がいっそう細くなる。その奥に、ちらりと閃いた炎のようなもの——
「!」
 しまった、と思ったときにはもう、シノさんの指が手首にかかっていた。とっさに腕を引こうとしたが力の差は歴然としている、びくともしない。シノさんがあたしの耳許に唇を寄せてきた。
「昼間、千茅とセックスしてたよね? そのせいで、千茅は寝過ごした」
「シノさん……!」
 目を覚まし、非難めいた声を上げてしがみつこうとした託斗を、無造作に脚を上げて振り払ったシノさんが、自然な流れでその手の甲を踏みつける。
「お兄ちゃんっ!」
 託斗は身体を丸め、喉の奥から悲鳴を漏らしている。何が起きているの? シノさんが、震えるあたしに笑いかけてきた。
「俺に申し訳なかったと、本心から思ってる?」
 絵のように完璧な笑顔、なのに……怖い、目の奥がちっとも笑っていない……あたしはガクガクとうなずいた。
「信じていいのかなぁ。こういうことがたびたびだと、俺もさすがに庇いきれねーんだけど」
「ほ、ほんとに、す、すみませんでした……に、二度とないよう、気をつけますので」
 信じてください……! と、あたしは身体を二つに折り曲げた。シノさんが溜息をつく。
「俺だって、そりゃ信じてあげたいんだけどね。千茅はかわいい後輩だし」
「どうすれば、信じてもらえますか……」
「そうだなぁ」
 シノさんの冷たい指先が、あたしの手首の内側をなぞってきた。いやらしいくらいにゆっくりと優しく。肌に漣が走る。
「るりちゃんはさ……お兄ちゃんのこと、助けたい?」
 あたしは顎を引いてシノさんを窺い見た。
「そのためなら、どんなことでもする覚悟?」
 うずくまっていた託斗が弾かれたみたいに頭を起こし、「るり」と喘いだ。もういちど、こんどははっきりと、あたしはうなずく。
「あたしにできることなら」
「ほんとうにいい子だねぇ、るりちゃんは」
 シノさんがあたしの手首を放す。去り際にぐっと圧迫されて、自分の脈がすごく速くなっているのに気づかされた。
「るりっ、ダメだっ」
 シノさんが、一瞥もしないまま託斗の肩を足先で押しやる。
「じゃあ、本気の証に見せてもらおうかな」
「るり……ッ!」
 シノさんの朗らかな声と、託斗の悲痛な叫びが重なった。
「ふたりの近親相姦ファック」

 人生でいちばん長い夜になった。
「や、だ……やだ、やだ……ッ! むり、む、り……っ……!」
 泥酔しているから勃たないと言い張る託斗の頬を、シノさんが平手で打つ。小気味いいほど高い音が響いて、託斗の頬が左右とも赤く色づいてゆく。
「やってみねぇとわかんねーだろ?」
「イヤ……だ……」
 あたしの目には、泣き声で「イヤだ」と訴える託斗の抵抗が、どうしても本気に見えない。男同士だし体格だって互角なのだから、いくら酔っているとはいえ全力で暴れれば、ひっくり返せるんじゃないの? 弱々しく手脚をばたつかせたり、シノさんの肩に頭突きしてみたり——むしろ、飼い犬が主人にじゃれついているみたいだ。
「ゆ、ゆるして」
「るりちゃんの覚悟を無駄にする気か。いいかげん腹くくれ」
 子どもみたいに泣きじゃくる託斗の衣服を、シノさんは手際よく脱がせてしまった。自らもジャケットを部屋の隅に放って、託斗に跨ると、スラックスのポケットからコンドームを取り出す。何に使うのだろうと見ていたら、自分の指にかぶせて託斗の内臓を探りはじめた。
「ほら見ろ、ちゃんと勃ったじゃねーか」
 ふ、と鼻で笑ったシノさんが、部屋の入り口に突っ立ったままのあたしを見上げてきた。
「るりちゃんも脱ごうか」
 あたしは、腰に巻いていたパーカーを床に落とした。シノさんが差し伸べてきた手に掌を重ね、導かれるまま託斗の上に腰を下ろす。
「る、り」
 託斗は首を横に振りながら、縋るみたいにあたしを呼んだ。あたしはTシャツを脱ぎ捨てる。ブラも外した。
「るり、やめて」
 涙と洟水でべしょべしょになっている顔を脱いだTシャツで拭ってやりながら、「やめないよ」と宣言する。
「あたしたちが真剣だってこと、シノさんに信じてもらわなきゃ」
 託斗の顔が絶望に歪む。
 そうして、缶チューハイ片手に観戦しているシノさんに命じられるまま、あたしたちは夜通し睦みあった。
 託斗が額を床に擦りつけて「動画だけは勘弁してほしい」と訴えたおかげで、ハメ撮りは免れたのでホッとした。
「おまえがどう思ってるか知らねーけど、俺にだって真心はあるんだよ」
 るりちゃんに言ったの聞いてたろ、「かわいい後輩だ」って——愉快そうに笑って、シノさんは託斗の顔にカメラを向けてくる。
「シノさ、んっ……!」
「るりちゃんは1ミリも写ってねーから安心してろ、バーカ」
 約束したからねとあたしに向かって微笑むシノさんは、心の底から楽しんでいる様子だった。
「おまえの写真も、記念に撮ってるだけ。ネットにばらまいたりはしねーよ」
 あたしの下で苦しそうに呻く託斗を「不細工だなぁ」と罵りながら連写している。
 午前五時——ついに意識を飛ばしてしまった託斗を挟んで、シノさんとあたしは向かいあう。
「るりちゃんも呑む?」
「未成年なんで」
「真面目か」
 シノさんは可笑しそうに目を眇めながら、カーテンをほんの数センチ開く。夜明けが見たいんだなと、なんでだか分かった。
 窓枠とベランダに切り取られた隙間の夜空が、濃藍から瑠璃紺、薄群青へと移っていったあと、真っ白に弾けてから、ゆっくりと昼の青に染め変えられてゆく——
「この時間、なんかよくない?」
「あたしも好きです」
 フッと笑って目を伏せたシノさんの、逆光に透ける睫毛は髪の毛と同じ色だ。生まれつきこの色なんだろうか。よく見ると虹彩の色も薄い気がする……そっと観察していたら、カーテンを元通りに閉じたシノさんがあたしを振り向いた。
「血の繋がった男とのセックスって、ぶっちゃけどんな感じ?」
 あたしは苦笑した。
「フツウですよ」
「ふーん?」
 喫ってもいい? と律儀に断ってから、シノさんは煙草に火をつける。
「物心ついたときには目の前にいたので、兄のいない人生のほうを想像できない……それだけのことなんで」
 なるほどね、とシノさんは手近な空き缶に灰を落とした。
「千茅にこんな仲いい家族がいるの、なんか意外だったわ。こいつ、自分のこと話さねーから」
「お兄ちゃん、昔からそうなんです。考えてること、ちっとも話してくれない。高校も大学も自分で決めてきて……あたしたちには事後報告だけ」
「へー……」
 不思議だった。どうしてあたしは、初対面の相手にこんな話をしているんだろう。しかもこの人は、託斗に暴力を振るってあたしたちを脅した、非道い人間なのに。気がつけば、心を許してしまっている。
 死んだみたいに眠っている託斗の背中に、シノさんが足の裏をくっつける。浮き出た背骨をつまさきで辿ったり、優しく揺すってみたりしながら、ぽつりとつぶやいた。
「兄妹かぁ」
 くゆる煙がシノさんの表情を分かりにくくしている。託斗は目を覚まさない。

 驚くべきことに、二日酔いに呻きながら昼過ぎに目を覚ました託斗は、帰宅後の記憶をほぼ失っていた。
「あの人に滅茶苦茶されたんだな、ってことは……まあ、見れば分かる……」
 身体のあちこちについた痣。大量の空き缶とティッシュと使用済みのコンドームが部屋中に散らばっている惨状。起こったことを類推するのは、当事者じゃなくても容易だろう。
「ごめん、るり」
 頭を垂れる託斗を、あたしは「気にすることないよ」と慰める。
「呑み過ぎには注意してほしいけど。シノさん、いい人じゃん」
「えっ」
「託斗が土下座したら、撮影はあきらめてくれたし」
「ええっ」
「『千茅はかわいい後輩だ』って言ってたよ」
「……それは嘘」
「ほんとだってば」
 託斗は苦い顔をしている。録音しておけばよかった。
「同じ店で働いてるって、ほんと?」
「あー……あの人はバイトじゃないけど」
「カラオケ屋さん」
「まあ……広義では」
「あたしには教えたくない?」
「未成年は出入りできない店だから……」
「ふーん」
 帰り際にシノさんが名刺をくれたことは、託斗には秘密にしたほうがよさそうだ。
「『ユウイチ』って、どんな字を書くんですか?」
 ふと気になって訊いたあたしに、シノさんは「遊ぶ市」と答えながら、羽織ったジャケットの胸ポケットから名刺入れを取り出した。
「書くものある?」
 あたしは慌てて、ペンケースを取りに走った。
「そんなに急がなくても、逃げねーよ」
 シノさんは笑って、お店の名刺の裏に11桁の数字とメッセージアプリのIDらしきアルファベットを書きつけてくれた。
「高校を卒業したら遊びにおいで。お祝いに奢ってあげる」
 ボールペンといっしょに渡された名刺の表には、気取ったフォントで「遊/ユウ/YOU」と記されている。
「託斗にも、こういう名前があるんですか」
「千茅はフロアに立たないから」
「裏方?」
「そんなところ」
 シノさんが「妹には明かさない」と判断し、託斗もあたしに教えたくないのなら、強引に暴く必要はない——
 資源ゴミの袋を手に空き缶を拾い集めている託斗に、あたしは声をかける。
「で、今日は?」
「今日も明日も出るけど、早番だから終電で帰れる」
「丸一日お休みになる日ってあるの?」
「明後日。それより、るりはいつまでうちにいる気」
 まだ決めてないと返すと、託斗は眉間にシワを寄せた。
「父さんと母さんには、なんて言ってきたの」
「ええっと」
 本来なら今ごろ塾の夏季合宿に参加しているはずだったと打ち明けたら、想定を超える勢いで叱られてしまった。
「ちゃんとキャンセルはしたよ! 戻ってきた代金を、今回の旅費に当てたんだ」
「受験生の自覚!」
「お兄ちゃんの大学のオープンキャンパスに行きたくて」
「ちょうど来週だけどな!」
「もちろん知ってる」
 自分の髪をくしゃくしゃと掻き回しながら、託斗は派手に溜息をつく。
「おまえのその大胆なところ、誰に似たんだ」
「お兄ちゃんじゃないかな」
 ほんとうに何気なく、口をついて出てしまった。形容しがたい表情であたしを見つめてきた託斗は、詰めていた息を何秒もかけて静かに吐き出したあと、ゴミを拾い終わるまで一言も発しなかった。

 【 こんにちは。瑠莉です。】
 【 るりちゃん! オハヨウ☀ 】
 【 もう午後ですよ…笑
   ところで今日か明日 会えませんか? 】
 【 明日なら会えるよ! 何時? どこ?
   車で迎えに行くよ 千茅も来る? 】
 【(お兄ちゃんには内緒で)】

 返信されてきた画像が【OK】のプラカードを掲げるのを確かめて、あたしはホッと息をついた。
 我ながら、思いきったことをしているなと思う。けど、こちらでの託斗と繋がる人をシノさん以外に知らないのだから仕方がない。さらに、シノさんはこの世で唯一あたしたちの関係を把握している人でもある。その点ではむしろ、地元や大学の友人よりも頼りになるはずだった。
 翌日。託斗が預けてくれた合鍵でドアを閉めて、あたしはシノさんとの待ち合わせ場所へ向かった。
「シノさんとお兄ちゃんって、やっぱり仕事仲間として知り合ったんですか」
 シノさんの車は高速道路を滑らかに滑っていく。あたしの質問に、シノさんは首を横に振った。
「初対面は別の場所だったよ。共通の知人を介して、ってことにしといて」
「機密事項?」
 そうです、とシノさんは笑い声を立てる。
「るりちゃんは理解が速くて助かるなぁ」
「お兄ちゃんと比べてます?」
「千茅も回転は速いんだけど、融通が利かないからなぁ〜」
「分かります」
 口角を持ち上げたシノさんが、横目でちらりとあたしを見る。
「昔から?」
「子どものころからずっと、あんな感じです」
「じゃあ苦労してきたんだ、るりちゃん」
 あたしは笑って「いいえ」と応えた。兄との関係を苦役だと感じたことは、不思議にいちどもない。
「常々、めんどくさい人だなとは思ってますけど」
「あ、それそれ。何かにつけてめんどくさいんだよなぁ、あいつ」
 具体的な出来事を振り返ってでもいるのか盛大な溜息をついたシノさんが、「相談は千茅のこと?」と水を向けてくれる。
「実はお兄ちゃん、大学生になってからは、いちども実家に帰ってなかったんです」
「それで、るりちゃんのほうから会いにくることにしたんだ?」
 あたしはうなずく。
「来るの、怖くなかった?」
「それは……怖かった、です。でも」
 それでも、このまま会わないでいることだけはできないと思った。
「もう限界で。ただただ、会いたかったんです。そのことが、兄を苦しめるかもしれなくても」
 託斗なりの事情があるのだ——そう納得しようとしたけれど、心はどうしても説き伏せられなかった。
「ずいぶん情熱的だ」
「わがままなだけです」
「似てないんだな、兄妹なのに」
「……似てない、ですか」
「顔は似てると思ったよ。特に、眉と目が」
「『キツそう』って、よく言われます」
 言いながら自分の眉間を指先でこすってみる。シワが寄っていた。
「俺は好きだなぁ。千茅の顔も、るりちゃんの顔も」
「父にそっくりなんです」
「じゃあきっと、お父さんの顔も好きだ」
 シノさんは笑いながらウインカーを出すと、追い越し車線に入った。制限速度で走っている車たちが次々に抜き去られてゆく。
「それで……るりちゃんとしては、千茅をどうしたいの? 本人の意向を無視してでも連れ戻す気? 俺に、そのための協力を求めにきた?」
 こちらから切り出す前に畳みかけられてしまい、焦ったあたしはとっさにかぶりを振る。
「そんなつもりじゃ」
「じゃあ、どういうつもりだった?」
 口ごもることしかできない。
「まさか『つもり』もなしに、こうやって俺を呼び出したわけ?」
 口調こそ穏やかだけれど……あたしは居たたまれなくなって身を縮める。あたしを一瞥したシノさんが、「そもそも」と呆れ気味に息を吐く。
「あんな目に遭わされたばかりで、どうして俺を信用して車に乗ったりするんだろうね、この子は」
 シノさんの端正な横顔を、あたしはまじまじと見つめた。視界の隅では速度計が振り切れている。怖くて、正確な数値は確かめることができない。
「どこへ向かってると思う、この車」
「どこ……」
「分かるわけないか」
 形のよい唇の端が持ち上がる。「酷薄そう」というのは、こういう表情のことを言うんだろうか。
「俺に、レイプされるかもしれないって、カケラも想像しなかった?」

 実際にはシノさんは、あたしの上を通り過ぎていったどの相手よりも紳士的で、これ以上はないくらいに巧みだった。
「るりちゃんはさぁ……オニイチャンじゃなくてもいいんだね」
 あたしは必死に「違う」と訴える。口枷越しの不明瞭な発音を聴き取ったシノさんが、憐れみに満ちた目をする。
「違わねーだろ。だって……ほら」
「ぅ、ゔぅぅッ……!」
「やっぱり兄妹だ。素直じゃないところが、そっくり」
 シノさんは、お兄ちゃんとどういう関係なんですか。お兄ちゃんはどうして、あなたに逆らえないんですか——涙で視界が曇る。手の甲で拭ってくれたシノさんが「困ったなぁ、泣かないでよ」とせつなげに眉尻を下げる。
「そんな顔されたら、よけいに苛めたくなるだろ?」
 獲物が毒矢に身をよじることすら、この美しい人にとってはスパイスにしかならないのだ——絶望の淵であたしは悟った。
「こないだも思ったんだけど、るりちゃん、すっごく身体がやわらかいね」
 容赦なくあたしにのしかかり、真っ二つに折り曲げながら、シノさんは薄く笑う。
「あ……行き止まりまで届いた」
「ゔ、ゔッ」
「酷くされるほど感じる? るりちゃんもドMか〜」
 この単純な動作によって、こんなにも深い場所を撹拌され、の底から快感を引きずり出されるなどとは、思い描いてみたことさえなかった。シノさんとの交歓を知ってしまったら、これまでの経験を〝セックス〟だなんてとても呼べなくなる。意地を保っていられたのは、せいぜい全裸にされるまでのこと——あたしの肉体は、しだいにあたしの操縦を離れ、シノさんの指揮のとおりに振る舞いはじめていた。
「そう、上手……」
 シノさんはあたしを、愛玩動物に芸を教え込む辛抱強さで導こうとする。ようやく外してもらえた口枷の代わりにやわらかな塊を、喉の奥まで押し込まれれば苦しい、苦しいけれど、嘔吐感に耐え抜けばシノさんが褒めてくれる、あたしを認めてくれる。
 この部屋には窓も時計もない。連れてこられてから、どれくらいの時間が経った? 限界まで搾り取られては気を失い、しばらく眠って目を覚まし、シノさんが与えてくれる飲食物を貪ったら、また飽きるまでまぐわう。獣の暮らしみたいだ。
「ここはどう?」
「ぃ……」
「厭だ?」
 あたしは震えながらかぶりを振った。それなのに、退かれてしまう。
「あ!」
 なんで!? 涙目のあたしを見下ろして、シノさんは人の悪い笑みを浮かべる。
「厭だった? 悦かった? 今のじゃ俺には分かんねーわ」
 いい、よかった、もっと、と訴えながら、あたしはシノさんに向かって両手を差し伸べた。
「やめないで、続けて、お願い」
 シノさんがあたしの手を取る。ひとまとめにされ、頭上で固定された。無防備に晒されるあたしの喉を、シノさんの掌がぴったりと覆う。指先が冷たい。
「……最高」
 左右の頸動脈を、強く圧迫された。

 瞼の隙間から最初に見えたのがまぶしい白だったので、夜明けかなとまばたきをしたところで、自分がどこにいるかを思い出した。白は天井と照明の色で、どちらもさっきから揺れていて、揺れの原因はあたしの腰を掴んでいた。
「お、生きてた。よかった」
 どうやらあたしは、首を絞められて失神してしまったらしい。
「『やめないで、続けて』」
「言いましたけど……!」
 睨むあたしをニヤッと笑って見下ろしながら、シノさんがゆっくりと腰を回す。
「ぁ……」
「いい?」
「ぅ、ん」
「どこを、どうされたい?」
 シノさんに追い上げられるまま、あられもない声を上げながら、あたしは「奥、おく……っ」とねだる。
「こう?」
「あ、もっと……」
 シノさんは、あたしを抱き起こすと膝の上に座らせた。それから枕に向かって、「聞こえたろ?」と声をかける。
「ま、そういうわけだから。心配いらねーし」
 ざぁっと全身の血が引く。
「シ、シノ、さ、ん……?」
「ああ、るりちゃんも話す?」
 シノさんは、拾い上げたスマートフォンをあたしに握らせてきた。画面には「千茅:通話中」の文字。シノさんがスピーカーのマークを叩く。押し殺した唸り声。
「お、にぃちゃ……」
 言語としては意味を成さない罵声とほぼ同時、ガッという衝撃音がして、通話は切断されてしまった。
「あーあ……壁にでも投げつけたかな」
 呆然としているあたしの手から、シノさんはスマートフォンを取り上げる。
「今の電話があいつの家からなら、ここに着くまでは一時間ちょいってとこ」
「ど、どうしよ……どうすれば」
「とりあえず、続きしながら待ってようぜ」
 シノさんはあっけらかんと言い放ち、行為を再開しようとする。さすがにそんな気分になれない! と押し戻すと、不満そうにしながらもあきらめてはくれた。
「なんでそんなにうろたえてんの、るりちゃんは」
「シノさんこそ、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか……」
 強引に連れてこられたとはいえ、あたしはシノさんと浮気したことになるわけで……と説明するあたしを、シノさんは一笑に付す。
「セックスくらい、誰としようが自由じゃんね?」
「兄も同じ意見ならいいんですけど」
 あの態度では、寛容さを期待できそうにない。
「とっさのことで、頭に血が昇っただけだろ」
「言いましたよね……めんどくさい人なんです」
 託斗が実家にいたころは、あたしに彼氏ができそうになるたび露骨に妨害されてきた事実を伝えると、シノさんは肩をすくめた。
「あー……けど、今回は俺だし。心配ないって」
 不安は拭えないものの、シノさんに任せるしかなさそうだった。
 シャワーと着替えを借り、シノさんが作ってくれたカップ焼きそばを食べていたら、玄関のほうから物音がした。
「お、来た来た」
 シノさんは立ち上がり、投球前のピッチャーみたいに肩を回しはじめる。
「なんで、ちょっと楽しそうなんですか」
「まあ見てな」
 ドアの閉まる音と廊下を歩いてくる足音で、あたしは託斗がこの部屋の合鍵を渡されていると気づく。そういえばシノさんも、呼び鈴を鳴らさずに託斗の家に上がり込んできた……
「るり!」
 リビングのドアが勢いよく開く。夜風の匂い。走ってきたらしく、託斗の短い髪は乱れていた。目が合ったので軽くうなずくと、いからせていた肩から力が抜けた。あたしの無事な姿に、とりあえず安堵したのだろう。
「店から直行してきた? おつかれさん」
 シノさんの発言によってあたしは、「今」が家を出た日の深夜であることを把握した。12時間近くベッドの上にいた計算だ。
「シノさん……っ」
 低く吠えた託斗が、シノさんに詰め寄ってきた。
「『妹には、誓って手を出さない』って……!」
 シャツの胸倉を掴む託斗の手首を、シノさんは鼻で笑いながら掴み返す。
「おまえさ、いつの話をしてんの? そのあと状況が変わったんだよ。考えりゃ分かるだろ」
「ひ、ッ」
「シノさん!?」
 目の前で見ていたのに、何が起こったのかちっとも分からなかった。シノさんが軽く手をひねった次の瞬間には、託斗はもう床に転がされていた。手首を押さえて、痛みにもがいている。
「ごめん、るりちゃん。骨は折ってねーから安心して」
 ぼろきれを拾うみたいに、託斗の襟首を掴んで寝室へ引きずっていこうとするシノさんに、あたしは追い縋った。
「お、お兄ちゃんをっ……ど、どうするつもり……」
 シノさんは、あたしの頭を掌でポンポンと押さえる。
「〝主人〟を忘れたみてーだから、躾け直す」

〜アンソロジーへ続く〜

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