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コンセイユ・デタ

先日13日(火)に、情報法制研究所(JILIS)のシンポジウムを聴講した。プログラムは、慶応大学の新保教授の「EUのAI整合規則提案」についての講演とフランスで弁護士されている金塚彩乃氏の「体温自動測定GDPR違反コンセイユ・デタ判例解説」についての講演とそれについての討論である。

それぞれの講演の内容についてはもちろん大変勉強になったが、むしろ印象に残ったのは、金塚氏が、講演の冒頭で触れられたフランスのコンセイユ・デタについての解説である。

フランスの司法制度は複雑で容易に理解しがたいのだが、今日の講演を聴いて、30年くらい前、東京大学法学部のフランス法の教授を勤められ、定年後千葉大学に移られた山口俊夫先生からコンセイユ・デタについて教授いただいたときのことを思い出した。その当時、私も千葉大学に勤めていて、たまたま同僚であったのだ。

フランスのコンセイユ・デタは、国務院と訳され、公法分野における法制局のような諮問機関であるとともに、公法の領域では最高裁判所と同様、最終的な法的判断を下す権能を有していると、解説書等には説明されている。

今回のシンポジウムの解説でもあったが、コンセイユ・デタの判決の効力は強く、大統領の決定を覆すことができるのみならず、それに替えて作為を命じることもできるという。要するに、公権力行使の有無、内容を最終的に決定できる権能を有しているのだ。

このコンセイユ・デタについて、とくにトクヴィルなどの影響を受けて、アメリカ的な権力分立の重要性、つまりチェックされない権力は必ず腐敗するので、制度上チェックする仕組みを組み込んでいない統治機構は民主的ではない!と信じていた素朴な政治学者であった私などは、このような裁判所に権力を集中させる仕組みは、当時の言い方をすれば「司法ファッショ」を生みかねない仕組みだと思い、恐れ多くも山口先生に、フランスは民主主義国家といえないのではないか、と質問したのである。

山口先生は丁寧に説明してくれたが、納得できず、しつこく尋ねたら、最後に曰く、「コンセイユ・デタの権威は、フランスでは誰もが認めるところ。確かにそれをチェックする機関はないかもしれないが、その正統性とそれが出す判決の妥当性を否定するものはいない。それを理解するには、君もコンセイユ・デタの判決をたくさん読めばわかるはずだ。」といわれ、思わず絶句。

「それでは、社会科学的にロジカルな説明になっていない。」と食い下がっているうちに次第にわかってきたことがある。

確かに、コンセイユ・デタの裁判官も人間。中には変なヤツもいないとはいえない。にもかかわらず、権威ある、説得力ある判決が出せるのは、それに至る議論の過程で、いろいろな角度からのツッコミに対して、徹底的に議論し、異論に対しては反論し、隙のないように論理を詰めるからであるらしい。

つまり、権威を笠に着て説得力がない結論を押しつけたりせず、あくまでも論理で勝負するのだろうという理解に到達した。

それが本当かどうかはわからないが、それに比べると、わが国の法律をめぐる議論は、門外漢の目からみて細かい理屈や一面的な原理に依拠して展開していると思われるものが少なくなく、全く異なる価値観に基づく反論や主張について正面から議論して論破する、あるいは、納得して受け容れるということは少ないのではないか。そのように感じる。

話は脱線するが、このようなことを考えているうちに、フランスの幹部公務員の養成を行うENA(フランス国立行政学院、École nationale d'administration)での教育の話、なかでも官僚として身に付けるべき議論の仕方についてのトレーニングの話を思い出した。共通するところがあると思うが、フランスの官僚養成とENAについては、また機会を改めて述べたい。

以上に述べたのは、コンセイユ・デタということばを聞いて思い出した山口先生とのやりとりだが、それはともかく、EU自体、多国の共存の世界であり、共存という枠を壊さずに自国の利益主張のための原理や価値を生成してきた世界である。そこで生み出された知恵は相当なものであり、議論をする上で大いに学ぶべきものと思う。それに比べると、わが国の法治主義はややタテマエ論の匂いがするというのはいいすぎであろうか。

ヨーロッパにももちろん法理論のタテマエの世界はあり、現実の法執行の世界とのズレは存在する。だが、そうだとしても、そのズレを繕う辻褄合わせの努力、言い方を変えれば主張を法原理に基づいて正当化する頭の使い方は、歴史上世界の法制度をリードしてきただけのことはあると思う。

元政治学者、元行政学者としては、国家論の観点からこうしたフランスを含むEUの法治主義の考え方のカラクリも何となくわかるような気もするが、それについてはまたの機会に述べることにしよう。