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EdTech と教育改革(7) 〜 教育における「不易」と「流行」 〜

〇EdTechへの批判
「『未来の教室』とEdTech」のプロジェクトが発表した教育改革の提言に対しては、多方面から多様な批判や意見が寄せられているようです。

コロナ禍の下で早急に進んだGIGAスクール構想に対しても、現場がついていけない、教育現場を知らない理想論の押しつけだ、というものから、教育学の専門家ではない人たちが、教育学が長年の研究を経て積み重ねてきたその成果を理解することなく、デジタル化という新たな潮流に乗って、これまでのわが国の教育のよさを壊そうとしている・・・等、批判の内容はさまざまです。

それらの多くに共通している考え方は、教育の専門家が作り上げてきたわが国の方式は、世界的に見ても優れたものであり、それは変えてはいけない「不易」として維持していくべきであって、軽薄な「流行」に踊らされて変えるべきではない、ということのようです。

実にご尤もな意見だと思います。しかし、何が「不易」であって、何が「流行」であるかは相対的であって、あるものが「不易」であること、そしてそれが重要であることを証明することは容易ではありません。

一般に、これまでの経験の蓄積を重視し、それに基づいてものごとを運営していくのがよい、という「保守」の考え方は、これまでのやり方ではダメだ、変えるべきだという「改革」、「革新」が主張され、既存の価値や利益が脅かされるようになって、初めて自覚され反論として主張されます。

否定する意見が述べられるまでは、その状態が当然であって、それを維持すること、そのやり方に従うことは意識されないのが通常です。「不易」も、「流行」に乗るべきだという意見が現れて初めて認識されるといえるでしょう。

ただし、われわれの住む世界は常に変化しています。「不易」と言われる状態も、ある時代の一定の社会状態を前提として形成されたものです。もちろん、中には歴史を貫く人類に普遍的なものもあるでしょう。でも、多くは社会の変化や新たな技術の出現によって、当てはまらなくなることが多々あるのです。

私たちが考えるEdTechによる教育改革は、こうした社会の変化を教育の世界に反映していこうとするものです。新しい技術については、まだわからないことも多く、したがって、試行錯誤を繰り返しながら、現行の教育の問題点を解決し、目的を達成する上でよりよい方法があるならば、それを採用していこうという考え方です。

決して、今までのやり方を全面的に否定して、それに置き換えようとするものではありません。その意味では、段階的、漸進的な改革をめざしているといえます。

ただ、批判的な意見を聴いて感じるのは、「不易」の重要性を強調するあまり、改革の提案をすべて一時的で軽薄な「流行」として否定しようという傾向です。改革の提案のどこがどのような理由で問題があるのか、どの点に認識の誤りがあるのか、説得力をもって主張されているかというと、そうとは思えないのです。

〇必要なのは論理的思考と論争だ!
現状に問題点があり、改革が必要としても、どのようにすればうまくいくか不透明な状態で、重要なことは、多様な意見をもつ者が議論し、論争し、さらに実験によって、より優れたやり方を見出していくことでしょう。

論争で勝つためには、自らの主張の根拠を示して、そこから論理的に主張の妥当性を説明し、相手を納得させることが必要です。とくに、相手が依拠する原理や価値に基づいて論理的に主張を展開できるならば、より説得力は増すでしょう。

私は、わが国の教育のあり方をめぐる問題において不足しているのは、このような論理による議論であり、その前提となる論理的思考だと思います。これは、教育政策をめぐる関係者間のみならず、教員を含む教育従事者、そして教員と子供たちの間でもいえることです。

このシリーズの第3回で触れた校則の問題などはその典型です。なぜそのルールが設けられているのか、それは必要なのか、そのルールによってめざす目的が達成されうるのか、他によりよい方法はないのか、誰がどのような手続を経てルールを決めたのか。こうしたことがらについて子供たちが理解し、納得しなければ、自発的にルールを遵守しようという気持ちは育たないでしょう。

規則は、それを誰がどのような理由で定めたかにかかわらず、存在する以上は従うべきもの、昔からあるのだから従わなくてはならない、という教育では、柔軟な発想力や社会を変える意欲は形成されないのではないでしょうか。

同様のことは、前回論じた「学習権」についてもいえます。充分な教育を受けていないと感じたときに学習権が保障されていない、と主張されますが、前回述べたように学習権を抽象的に論じるだけでは生産的な議論はできません。権利の主張は、特定の相手に対してなされることから、具体的に何をどこまで保証すべきなのか、論理的、具体的に説明できなければ説得力はないのです。

こうした議論が、教育において特に重要と思うのは政治的な問題ですが、わが国では、なぜか教育の“中立性”が強調され、政策をめぐる議論や評価の仕方についての訓練が忌避されています。

数年前に投票年齢が18歳まで引き下げられましたが、新たに有権者になった若者に対して、投票に行け、貴重な参政権を行使しろという教育は行われていますが、候補者や政党をどのように評価して投票すべきなのか、についての実践的な教育は、中立性に反するということなのか、行われていません。

果たして、このような教育で、新たな有権者は、自らの一票を賢明に投じることができるようになるでしょうか。ちなみに、スウェーデンでは、高等学校で、A党とB党の公約を示して、子供たちに、その特徴と妥当性、弱点等を議論させ、そこから安易に口当たりのよい公約に惑わされることがないように、生の政治の争点とその評価の方法を学ばせるそうです。

〇秋入学の是非をめぐる議論
このような論理的な争点の提示と論争の欠如は、教育政策の議論においても存在しています。

コロナ禍で学校が長期にわたる休校を余儀なくされたとき、秋入学の導入が問題となりました。私も、教育再生実行会議におけるこの議論に参加しましたが、そこで出された結論は現時点で秋入学は導入しないというものです。

私自身は、多くの国が秋入学であるし、夏休みを有効に使える、冬の気候が厳しい時期またインフルエンザの流行が懸念される時期に入試を行う負担等を考えて、新学年を9月に始め翌年の6月に終了という制度がよいのではないかと主張しました。

それに対する反論は、コロナ禍で急に変更するには準備ができない。変更の時期には、学年が重なるため、教員、教室等が不足し、教育の質が下がる可能性がある。その学年の子供たちだけに不利益を与えることになり、平等性を損なうことになる、ゆえに導入すべきではないというものでした。

結局、見送られたわけですが、ご覧の通り、反論のほとんどは移行期の問題点を指摘したものです。移行が難しいから、秋入学にすべきではないというのであって、学年を秋に開始することはよくない、現在のように春に始めるのがよいという積極的な意見は、ほとんどなかったと思います。

たしかに移行期のコストは大きく、そのときの子供たちに負担をかけることになるかもしれませんが、移行は一時のことです。全力を挙げてその時期を乗り切れば、あとは平常の状態に戻るはずです。

私自身は秋入学にこだわるつもりはありませんが、制度としての秋入学の是非をめぐる議論で、秋入学を否定するのではなく、一時的な移行コストが反対の理由とされていた点は、争点が論理的にかみ合っていないといわざるをえません。

〇変化の時代:不確実性の海への船出に当たって
やや脱線してしまいましたが、改革の是非をめぐって異なる意見が存在する場合、共通点を確認し、意見の相違点を明確にして、多角的に議論をすることが重要と思います。

現在は、大きな変化の時代です。文明社会になっておそらく初めての世界規模でのパンデミックもそうですが、わが国では10年ほど前から、少子化、人口減少が急速に進んでいます。

それまでは、右肩上がりで増加することを前提として、さまざまな仕組みが作られていましたが、今や多くが縮小モードになり、これまで仕組みがそのままでは機能しなくなってきました。

他方、デジタル化を始め、科学技術の進歩は著しく、うまくデジタル技術を活用して、縮小する社会の機能を維持する方法を考えなくてはなりません。

教育の世界も同様です。かつては多数の応募者の中から優秀な学生を選んで入学させていた多くの大学が、今では、若年人口の減少から、学生の確保に必死です。

こうした社会環境が変化し先行き不透明な状況下で、これまで積み上げてきた「不易」を守れ、安易に「流行」に流されるな、リスクを侵すな、という考えにも一理はあると思いますが、しかし、「不易」を貫くこと自体が難しくなってきているのが現状です。

では、どうすべきか。何度か述べましたが、人類がそうした状況で得てきた知恵は、さまざまな可能性にチャレンジし、その有効性を実験で確認することです。

利用できるようになったデジタル技術は、こうした実験において、大量、正確、迅速にデータを解析し、従来と比べて格段に高い精度でその評価を可能にしました。この技術を活用しないということはないでしょう。

繰り返しになりますが、長年維持され、改良が重ねられてきたとはいえ、その存在根拠が不明確な制度や形式を、ただそれが昔から存在していたという理由で維持し続けることは愚かなことだと思います。なぜ、そのような制度が存在しているのか、その制度や形式が作られた理由は何か。それを今こそ問い直してみるときだと思います。

このような視点から見たとき、わが国の教育の世界には、現実から乖離した古くからの枠組や制度が多数存在しているように思います。それが引き起こしている問題が、変化する社会において次第に顕在化、深刻化してきたように感じます。

たとえば、公教育の外にある塾や予備校が果たしている役割。1年に一度のチャンスで入学を決める入試。とくに、わが国の教育システムの原点であり、それに問題があるとすれば諸悪の根源ともいうべきは、大学入試の制度にあると思います。

したがって、現在の教育改革に続いて、次に取り組むべきは、大学を中心とする高等教育でしょう。それについては改めて、論じることにしたいと思います。