戦後78年目の終戦記念日に思う
●戦争の意味が変わった
この季節になると、メディアは一斉に戦争の悲惨さを報じ、平和の重要性を強調する記事や番組を発信します。戦争で受けた一般国民の犠牲を忘れてはならない、それを後世に伝えることこそ、戦争を体験した世代のなすべきことと述べ、戦争の愚かさ、平和憲法を守ることの大切さを伝えようとしています。
私自身は戦後生まれですが、父は、私が生まれる前に出征し、1945年8月に今の北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で武装解除され、その後2年ほどシベリアに抑留されていました。義父もシベリヤ抑留を経験しています。伯父は、ガダルカナルで戦死しました。私の幼少のころには、あちこちの街角で傷痍軍人がアコーディオンを奏でて支援を求めていました。そして、NHKのラジオでは、連日「尋ね人」の放送がありました。
このような話を聞いても戦争を知らない世代の人たちには何のことかわからないでしょうが、戦争によって、身近な若者が多数亡くなる、住み慣れた家や財産を失う、そして物資が欠乏し社会が荒廃するという不幸な状態が、この国には存在していたのです。
その後の平和国家の建設と経済復興で幸せな社会が実現しましたが、戦中戦後のつらい経験を忘れず、再び国民が戦争に巻き込まれることがないように、戦争の悲惨さ、平和の尊さを伝承していこうというのが、メディアや教育の方針でしょう。
でも、実体験をした者が少なくなるにつれ、伝承しようという内容は、いかに再現を試みても、次第に抽象的、観念的なものになってきます。その結果、戦争の意味するところが曖昧になり、反戦のメッセージも観念的な祈りや願望に近づいていると思います。
私は、そのような平和教育、戦争を否定する姿勢に反対するわけではありません。しかし、われわれが現在そのリスクに直面している戦争の現実は、2022年のロシアのウクライナ侵攻によって全く変わってしまったのではないでしょうか。
第二次大戦後、不安定とはいえ、核戦争に陥りかねない紛争を避け、戦争を行う場合にもそれなりの正当性が求められてきましたが、今回のロシアのウクライナ侵攻は、身勝手な大義名分はともかく、そのような正当性を無視したむき出しの国家の欲望による侵略です。
深層においてはそのような支配欲を有する国家は多数存在していたとしても、それを正当化することにおいて一定の理性がそのような欲望の発現を抑制していたと思われてきましたが、今回の侵攻に関しては、理性による抑制が効いているとは思われないのです。
このようなむき出しの欲望の発現としての戦争が、現代の国際社会で起こるとは、多少なりとも政治学を学び、国連を含む第二次大戦後の国際社会の秩序形成の枠組を信頼し、人類の進歩を信じてきた者には、大変大きなショックです。
戦争に訴える政治的指導者の心理を分析し、その理性、より率直にいえば、利害得失の評価に訴えて戦争の発生を制御する方法を研究してきたのが、近年の国際政治学だとしますと、理性を欠いた無謀な戦争を始め、その終結についての見通しもなく、ただ領土の拡大欲の延長として戦争を開始したのが国連安保理の常任理事国であったことは、とても大きな衝撃です。
このようなできごとが起こりうるとすれば、これまでの地球上における平和構築の仕組みを根本的に見直さなければならないということでしょうか。そうだとすれば、このような万人の万人に対する闘争である自然状態に秩序をもたらすには、恐怖とそれを示す力の支配しかないということなのでしょうか。
このように国際社会は大きく変わったのです。そのような時代に、旧態依然として、戦争の悲惨さ、平和の尊さのみを訴え続けるわが国の「空気」が支配する状態で、果たして有事の際に国民の安全を守ることができるのでしょうか。政治学を多少なりとも囓ったことのある者としては、この点がとても不安です。
●国がすべきは、国民の犠牲を最少化すること
国家、あるいはその代表者である政府がなすべき最も基本的なことは、国民の生命、財産を守ることです。もちろん自然災害もありますが、他国からの侵略に際して国民と国土を守ることが最も基本的な責務といえるでしょう。
外交によって侵略を防ぐ努力をすべきことはもちろんですが、理不尽な武力侵略があった場合には、国民の犠牲を最少にして戦争を終結させることこそが国の任務のはずです。
いかに侵略の危機が迫っているとはいっても、こちらからは決して仕掛けないというのが現憲法の姿勢でしょうが、侵略を受けたときも抵抗してはいけないとまではいっていないはずです。全力を尽くして国民の生命財産を守ることが、地球上における国家に内在的な自衛権というものでしょう。
もちろん侵略を受けても抵抗すべきではないという考え方もあるでしょうが、降伏して侵略国のいいなりになれとまでいうものではないはずです。抵抗せずに降伏すれば、国民の生命と一定の国土の保有は認めてくれるはずだ、それは抵抗して多くの犠牲を出すよりはよい、という意見をウクライナ戦争の当初述べた論者もいましたが、それこそ東欧、北欧、バルト諸国の歴史を知らない空虚な楽観論ではないでしょうか。
勝者が、敵の降伏を奇貨として、敗者に対する隷従の強制と彼らが不要と考える者の殺戮を行わないという保証はないのです。むしろ東欧諸国は、歴史的経験から、そのような運命を受け容れるよりは、死を賭けても徹底抗戦を選択しようとしているのでしょう。現実に、この現代においても国内に住む少数者に対して”民族浄化”を行おうとしている国もあるのです。
もちろん小国の抵抗には限界があります。それゆえに、安全保障政策は、軍事力よりも、同盟国の形成や経済的な相互依存関係の強化によって、戦争に踏み切りにくい状態を作る外交こそが重要といわれています。その通りだと思いますが、その外交も、最後はその国の、あるいは同盟国の軍事力が担保として存在してこそ効果を発揮することはまちがいありません。
ヨーロッパの多くの国は、第一次大戦後、中立、平和主義の道を選びました。しかし、第二次大戦当初にナチスによってあっという間に席捲された経験から、戦後は、NATOという集団的安全保障の道を選択したのです。
総兵力がわずか数千人のエストニアでも、NATOへの貢献の証しに、アフリカの紛争国に多数の若者をPKFとして派遣しており、犠牲者も出していると聞きました。
このように、安全保障政策とは、有事に際して、最少の犠牲によって国民の生命と財産、国土を守ることを目指した政策です。それを考えるには、まず起こりうる可能性のある事態を想定して、犠牲を最少化するためにとりうるあらゆる方法を検討することが必要です。そして、現有のリソースで実現できる最善の、つまり最も効果的な策を選択するのです。
このような政策形成において重要なことは、一定の価値前提や偏見に縛られることなく、考え得る選択肢を広く検討の対象とすることであり、それらについて科学的、客観的な評価をしっかりと行うことにほかなりません。
あえて言えば被爆国の経験から、わが国では、軍事力としての核の保有はもとより、核抑止論についても否定的です。わが国の核保有については私も反対ですが、なぜ抑止論がよくないのか、それに代わるより有効な安全保障の方法としてどのようなものがあるのか。それを提示することなしに、核兵器はいけない、とのみ唱えても説得力はありません。
戦争が外国との争いである以上、いかなる主張も相手に対して、さらにいえば国際社会を構成する多くの国に対して説得力をもつ内容でなければなりません。自国民や他国の人々の感情に訴えることももちろん重要ですが、平時の反戦の国民感情が容易に好戦のポピュリズムに転換することを、われわれはしばしば目にしてきました。まして、フェイクニュースによって簡単に世論操作ができる今日、しっかりとした自国の安全保障についての原則を国民の間で共有しなければ、危機が訪れたときにこの国の国民と国土を守ることはできないでしょう。
このような観点からみて、わが国の安全保障をめぐる議論が、軍事費の財源や増税の話か、具体的な兵器の話に終始していることはとても残念に思います。国内の米軍基地の存在がわが国の平和に貢献しているという現実を直視し、それを前提にして、より犠牲の少ない安全保障のあり方を議論してほしいものです。
● ”平和主義”の幻想と解けないタブー
では、わが国では、なぜ国際社会の激変にも関わらず、安全保障に関して、このようなズレた議論や非現実的な議論しか出てこないのでしょうか。
すでに2,3年前にJBpress(*)に書きましたが、その理由は、戦後のわが国の特殊な政治環境が、戦争を引き起こす政治的メカニズムの究明をあえて避けてきたことにあると思います。
自然災害ではない戦争は、人間の、より正確にいえば政治的指導者の決断によって引き起こされます。その場合、重要なことは、開戦を決断した政治的リーダーが、どのような要素を考慮し、どのような思考過程を経て決断に至ったかということを可能な限り明らかにし、その決断が適切なものであったか、犠牲を最少化するために、他の選択肢を選ぶポイントはなかったのか、あったとすればなぜそれが選択されなかったのか、それらを明らかにすることだと思います。
そして、将来そのような状態になったときに、可能な限り戦争を回避する方向に決定を行うための知見を得ることが重要なのです。
このような探求は、場合によっては、結果についての責任を問うことになるでしょう。わが国の場合、こうした探求を、戦後あえて避けてきたといわざるをえません。多大な犠牲を生んだ原爆投下について、ゲバラがいったように、アメリカの責任を問うことはしてきませんでした。他方、アメリカに原爆投下させる原因を作ったわが国の戦前の体制とその支配者に対しても、その責任を問い、糾弾することはしてきませんでした。
戦後のわが国は、民主主義を否定した戦前国家に対する愛国心はもちつつ、戦後アメリカがもたらした民主主義も享受したのです。この矛盾に触れることを避けるために主張してきたのが、「戦争」という抽象的な概念に対する批判と、ものとしての「原爆」の否定でしょう。
戦争は、前述のように誰かの決断によって行われます。原爆も、意図をもって投下の決定がなされます。しかし、それを決断した者の責任を追及することは矛盾に陥ることになるため、あえてタブーとして封印してきたといえるでしょう。それを象徴するのが、広島の原爆碑に刻まれた「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という主語のない碑文の言葉です。
こうした最も重要な戦争が引き起こされるメカニズムについて、しっかりと後世に伝えるのが、教育の本来の役割のはずです。しかし、いうまでもなく、わが国の戦後教育では、この論点に触れることを避けてきたといわざるをえません。とくに、戦争とそれを防ぐ方法について科学的に研究を行うべき大学が、「軍事研究は行わない」という合理的とはいえない理由でそれを行ってこなかったことの責任は重いと思います。
率直にいって、戦中戦後の苦しい生活体験や核兵器の恐ろしさをいかに教育したとしても、観念的に反戦感情は醸成できるにせよ、有事に際して冷静に、ロジカルに対処し、国民の生命と財産を守るために何をすべきかに関する思考方法は身に付かないと思います。
一昨年のロシアのウクライナ侵攻が行われるまでは、戦争を別世界で起こる出来事として捉えることが許されたのかもしれませんが、侵攻が行われた今日、本当に有事が発生した場合に対応できるのでしょうか。
今年も相変わらずの終戦記念日特集の報道に触れて、国民のそうした安全保障に関する意識の欠如を危惧する気持ちを強くもちましたが、私のこのような認識は誤っているのでしょうか。
(8月16日 文章を一部修正)
(*)JBpress に掲載した記事は下記です。
「戦後75年、このままでいいのか日本の「戦争総括」」2020.8.13
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61681
「今こそ明らかにしなければならない「先の大戦は誰の過ちか」」2021.8.14
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66470