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「象は鼻が長い」「僕はうなぎだ」「こんにゃくは太らない」

誰か議論しませんか?

日本語の「は」を主語を示す助詞と解釈するとタイトルの3文はどう解釈すべきかということで論争が起きている。昔聞いたことがあったが、最近流行りのゆる言語学ラジオを聞いて思い出し、自分なりの解釈を考えてみた。

動画では三上章の提唱した「日本語に主語はない」という主張を紹介する文脈で紹介されているが、自分は「日本語に主語はある」という立場である。結構すっきり解釈できたので、誰か読んでくれた人と議論してみたい。

(なぜか後編が貼れないけど後編もあるのでぜひ・・・)

「は」は主語を示す助詞である

「象は鼻が長い」という文において「長い」が述語であることに異論はないとして、「は」が主語を示す助詞なので「象は長い」と結ぶと鼻の役割がよくわからない。「鼻が長い」が実際に表現されていることだろうが、そうすると象の役割がよくわからない。

「僕はうなぎだ」という文では、話者がうなぎであれば成立するが、うなぎでなくても発言する機会がある。飲食店での注文時に「僕はうなぎだ」と言えば、「僕はうなぎを注文する」という意味になる。ところが「AはBだ」という文の主語はA、述語はBであり、その意味はA=Bという解釈されるので、「僕はうなぎだ」は「僕=うなぎ」でないのにそう言うのはおかしい。

「こんにゃくは太らない」はこんにゃくが主語であるので、太らないのはこんにゃくである。何を言っているかわからないのは、実際に太る/太らないのはこんにゃくを食べた人であって、こんにゃく自体ではない。「こんにゃくを食べた人は太らない」であれば(文法的には)正しいが、一見正しくない「こんにゃくは太らない」が許容されるのはなぜだろうか。

これらの解釈がうまくいかないのは、「は」が常に主語を示す助詞だと解釈しようとするからである。そこで「は」は主題を示す助詞だというのが三上論で、彼はさらにもう一歩進んで日本語に主語はないと主張していた(らしい)。

「は」は常に主題を示すのか?

まず考えたのは「は」は主題・主語の両方を示す助詞ではないかということである。使い分けは次の通りである。

①動作文であれば「は」は主語を示す助詞

②コピュラ文(A is B)であれば、「は」は主題を示す助詞

説明します。

①動作文の場合

こちらはシンプルで、自動詞、他動詞問わず動詞が述語であれば「は」は主語を示す助詞である。

a.「私はりんごを食べた」I ate an apple.

b.「彼は駅に行った」He went to the station.

主語は動詞に対して、その動作を行った主体を示すものなので、a、bの文章では「私」と「彼」が間違いなく主語であるといえる。

これを主語も存在しないと解釈してしまうと、「食べた」「行った」という動作の主が誰かわからない。そこで三上は日本語には「主格補語」という概念を提唱し、動作主を示す「主格」であり省略できるので「補語」であるとした。しかし動作文の場合は英語同様主語であると解釈できるので、わざわざ新しい概念を作る必要があるとは思えない。

②コピュラ文の場合

コピュラ文というのは「AはBだ」や「 A is B」のようにA=Bとなっている文章である。

c.「私は学生です」I am student.

d.「僕はうなぎだ」I am an eel.

この2つを同時に正しく解釈する方法は「主語が省略されている」である。「は」は主題を示すものであり、「○○が」という主語が省略されている。すなわち、

c1.「私は(職業/身分/属性が)学生です」 Talking about myself, the occupation is a student.

d1.「僕は(注文が/食べるものが)うなぎだ」For myself, the order is an eel.

日本語では言わなくても良いこと、具体的に言えば、聞き手が話者と既に共有している情報である、と話者が判断していることについては省略が可能である。要するに文脈で判断できる(と話者が判断したこと)は省略でき、特に主語は省略されやすい。

cの文章についてはA=Bが成立しているので英訳は I am student で問題ないがc1のように解釈すると問題となっている3文もすんなり解釈でき、整合性が保たれる。

こう解釈することで日本語には主語があると説明できる。

問題の3文はどう解釈する?

①象は鼻が長い

これは「鼻が長い」(The nose is long)というコピュラ文であり、主語は「鼻が」、述語は「長い」、「象は」は「象についていえば」という主題を示す句であると解釈する。

As for the elefant, its nose is long.

②僕はうなぎだ

これは「注文がうなぎだ」(The order is an eel)というコピュラ文であり、主語の「注文が」が省略され、述語は「うなぎだ」、「僕は」は「僕については言えば」という主題を示す句であると解釈できる。「注文が」という主語が省略されるのは、「飲食店で注文をしようとしている」という文脈が共有されているためである。

For myself, the order is an eel.

③こんにゃくは太らない

これは少し工夫が必要で、まず太らないが動詞ではなく形用詞であると解釈する必要がある。「太らない夜食」という表現が許容されていることを考えると、*unweightgainingとでも訳すべき形用詞があると考えられる。

そうすると主語「それが」が省略され、述語は「太らない」、「こんにゃくは」が主題となる。

As for the konjac, it's *unweightgaining.

「太らない」と同じように解釈できる、形容詞化したとみなせる動詞の例が他にあればいいのだが、今のところ思いつかない・・・

自説を補強してみる

例の3文で「象は」「僕は」「こんにゃくは」は主語として考えるために以下のような説もある。「象は鼻が長い」を「象は鼻が長い(動物である)」と考え、「鼻が長い」は形容詞句で、省略された(動物である)を修飾していると考える。同様に「こんにゃくは太らない(食べ物だ)」と「太らない」を修飾語として、「食べ物だ」を述語に補う。「象は」「こんにゃくは」は主語として考える。

この解釈でもよさそうだが、英訳(別に英語でなくてもよいが)する際に困る。つまり、翻訳者が省略されたものを推測し、補わなければならない。また、コピュラ文らしさが無くなる場合もある。

The elefant is an animal whose nose is long.

The konjac is a food that doesn't cause weight gain. 

また、「僕はうなぎだ」はうまく述語を補うことができない。意味を変えずに「僕は」を主語にしようとすると「僕はうなぎを注文する」と動作文に変えるしかない。

すっきりするまとめ:「は」は新情報の提示

ここまで書いて、もっとすっきりした解釈を思いついた。というよりは以前の知識と結びついたという方が正しい。

たしか大野晋だったと思うが、「は」と「が」の使い分けは新情報か旧情報どうかであると読んだことがある。テーマとレーマのようなもので、共有していない事柄については「は」を使用し、共有している事柄については「が」を使用する。

「私学生です」と「私学生です」の違いは「私」と「学生です」のどちらが新しい情報なのかである。すなわち「私」という場合は私、学生の両方が新情報で、「私」という場合は学生という情報だけが新情報となる。

「が」を使用するのは「私」、「Aさん」、「Bさん」のように複数人いる中で、「誰が学生?」と聞かれたときである。この場合、話者は聞き手が既に「私」、「Aさん」、「Bさん」という情報を持っていると判断しているので、「が」を使用する。

もっと説明のしようがあるような気がするが、「は」は常に新情報と主題の提示を行うと解釈すればすっきりする。

整理すると、

・「が」は主語を示し、省略することができる

・「は」は新情報、主題の提示を行う

このルールですべて説明できる気がするので、反例お待ちしています。

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