【散文詩】めりのには穴がなかった
〈めりの〉には穴が無かった。
いわんや突起も無かった。去勢した羊のように害のない人間だった。
〈めりの〉は閉じた世界を愛する。過不足なく完結した円い世界[はこにわ]を。
日が昇って沈み月が昇って沈み、季節が巡りゆくそれさえ〈めりの〉には何等の意味をもたらさなかった。
もしも「時間」が、等しく万物を支配下に置いたつもりでいるなら、
〈めりの〉の場合はどうだろう――彼の玉座は、多少の揺らぎを禁じ得まい。
〈めりの〉は自分がいつ生まれ、いつ死ぬかという事に関心がない。
いわんや、その間に挟まれたものたちについてをや。
いま、天空[そら]の彼方より飛来せし1羽の烏が……〈めりの〉の居る牧場の柵に留まり、その深遠なる宇宙[そら]いろを映した美しい羽根へ、くちばしを挿しいれる。
つくろいの合間、漏れ出でる低声は問い掛けの如く、それらは〈めりの〉の耳の穴より入り、体を通過して口から外へ、足されもせず引かれもせず、ただの反射現象として。
「この内部[せかい]には何が在る?」
「めりの。そしてめりのにとって充分なもの。」
「外の世界には何が在る?」
「何も。世界は外には無いから。」
「外へ出たいと思わないか?」
「思わない。」
「出てみようとした事は一度も無いのか?」
「無い。」
「では、もしも無理やり出されるとしたら?」
「もしもというものもここには無い。だからめりのも持ちえない。」
「だが、お前が認めなくても、」
鳥のくちばしがかつかつと刻む。
「ここに在るすべてはいつか必ず滅びるものだ。どのような字を当てられようが、どのような役を当てられようが、何であれここが【世界】であるなら、それに含まれるすべてのものは、意思があろうとなかろうと、世界の法に従っている。お前は常に失い続け、失われる運命から逃れられない。それでもお前は完全と言えるか?」
〈めりの〉は口の端で草を噛みながら、ぱちぱちと円らな目をまたたいて烏を見た。
身づくろいを終えた烏は活力に満ちた羽根で、おおきく空を打った。そうしてまたどことも知れぬ天空[そら]の深淵へ沈んでいった。
それから、
〈めりの〉は咀嚼して余った滓を、消化しきれなかった胃の内容物と共にまとめて傍らに吐き捨てた。そしてまた次の草を口に含んだ。
……黙々と草を食み……
……淡々と消費する……
…………………………………。
平野は見渡す限り果てしなく続き、〈めりの〉の食物も尽きる事はない。
〈めりの〉は過不足なく完結していた。
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