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読書感想文 東浩紀「観光客の哲学」を読んで




 皆さんに一冊の本を紹介します。東浩紀「観光客の哲学」という本です。タイトルにもあるようにこれは哲学書です。本書冒頭にも作者自身そう言っています。えっ?哲学?ちょっと難しそうと思うかもしれませんが、「平成の30冊」とかいう権威があるんだかないんだかよくわからないランキングで、なんと哲学書としては異例の4位を獲得しております。因みに1位は村上春樹「1Q84」、2位カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」、3位町田康「告白」と、文学作品の重要作が並ぶ中の4位ですから大健闘と言えるでしょう。


 皆さんは「観光客」という大衆的な名詞と「哲学」という堅苦しい名詞が並んだタイトルに違和感を感じるのではないでしょうか?(そしてこのことは東の狙いでもあります。)あるいは、観光のことや、旅行業に関する本かなと想像する方もいるかもしれません。しかし、そのようなことは一切書いてありません。(期待した方すいません!)
 繰り返しますが、本書は哲学書です。観光や旅行業に関する本ではありません。じゃなんで「観光客」なんてタイトルつけるんだよ?てなりますよね。ややこしいですが、ここで言う「観光客」とは、実際の観光客のことではなく、あくまで概念としての「観光客」のことを指します。(このあたりが哲学を難解にしている一因です。哲学では往々にして耳慣れた言葉をまったく異質のコンテクストで使用します。)
 では、本書に於いて「観光客」とは何のことを指すのか。それはずばり「他者」のことを指します。ざっくり言えば、自分のまったく知らない他人ということです。その「他者」=「観光客」から始まる新しい哲学を構想するのが本書の目的である、と東は宣言します。
 しかし、なぜ観光客なのか?まず、観光の在り方を考えてみましょう。東は、観光とは、楽しむための旅行であり、報酬を得る活動はせず、日常の生活圏の外に出ることである、と定義します。その中で「観光客」になるとは、行く必要のないところへ気まぐれで行き、見る必要のないものを見、会う必要のない人に会う、「ふわふわした存在」になることである、と東は言います。そして、このある種の「ふまじめさ」性ゆえに、観光についてこれまでの哲学者は「まじめ」に考察してこなかった。そもそもそんなものは取り上げる価値もないと斥けてきたのでした。しかし、だからこそ東は21世紀の今、「観光客」をまじめに考察すること、そして「観光客」になることに、現代を生き抜く可能性があるのではないかと提言します。
 そこでまず東は、現代の哲学の困難を語る前に、その土台となった近代の哲学を再考し、問題点をあぶり出します。
 近代哲学では、個人はやがて市民となり国民、そして世界市民へと成熟していくと考えられてきました。抽象的な言い回しですが、わがままな子どもからやがて、分別を弁えた大人になり社会の一員として迎え入れられ、自立した存在となる、と考えればいいでしょう。このような単線的な精神史を提唱したのが、18世紀のドイツの哲学者ヘーゲルです。
 このヘーゲル的パラダイムでは、「私」と「公」、「特殊性」と「普遍性」が対置されます。わかりやすく言えば、自分がやりたいことと公衆が望むことです。この二つは当然一致することは難しいので、個人はいつもこの二つに引き裂かれます。そこで、国家がこの分裂した個人を統合する契機となります。個人は国家に属することによってはじめて成熟した個人となる。
 このようなイメージを国家で類推すると、統合、成熟された国家をネーション(国民国家)と呼びます。
 しかし、グローバリズムが覆い尽くし、日常的に人やモノが国境を越えている現代では、ネーションの統合性が変質したと東は指摘します。ですので旧来のヘーゲル的パラダイムでは捉えることが出来ません。
 では、現代のネーションとはどのような構造なのか?東は、現代はグローバリズムとナショナリズムという異質なふたつの原理が、統合されることなく、それぞれ異なった秩序を持った「二層構造」をなしていると措定します。
 本来ならば、対置、対立させられる二つの概念であるグローバリズムとナショナリズムですが、現代では併立し補完し合っている。このようなネーションを、近代のネーションと区別するために「帝国」と名付けます。(ここで使われる「帝国」という言葉も「観光客」同様、実際の帝国とは違い、あくまで概念としての「帝国」です。ホントややこしいです。)
 アーレントやシュミットといった現代の哲学者は、この「帝国」の「二層構造」性に気づかなかったため、現代をグローバリズムとナショナリズムの対立としてしか捉えることができませんでした。そのような認識のもとでは結局、自由主義対国家主義、動物的経済対共同体善といった単純な二項対立の変奏を生むだけです。その証拠に、思想的に全く対極的なアーレントとシュミットの文章、言葉遣いは驚くほど似ている点を東は指摘します。つまり、彼らは未だヘーゲル的パラダイムに生きていると喝破します。
 そして、ここにこそ現代の哲学のアポリアを見てとった東は、これまでの哲学者が取り合わなかった「観光客」に可能性を見出すのです。
 ここでキータームとなるのが「誤配」です。またよくわからない言葉が出てきました。「誤配」とは「偶然性」のことを指します。近代において「誤配」=「偶然性」とは、他者を短絡し、出会わせるものでした。抽象的なので一例をあげましょう。
 あなたは用事のため、電車に乗ろうと思って駅に行きました。ところが、天候不良のため列車が運休になっていました。運転再開するまで待合室に入って、ベンチに座っていたらたまたま隣の人に話しかけられて仲良くなった。みたいな、本来であれば出会うはずのない人同士が、偶然を介して短絡される、偶然が生み出す関係性のダイナミズムのことを「誤配」と言います。
 しかし、現代のような高度なテクノロジーと、管理された社会では「誤配」の機能は変質し、本来のダイナミズムは失われてしまいました。フェイスブック、インスタグラムといったSNSは、ある特定の著名人に一方的な富を集中させます。また、検索ワードを打てば即、予測検索されます。食べログやグーグルマップを使えば、失敗もしなければ道に迷うこともありません。このように、私たちの欲望は先取りされ誘導されています。先程の例で言えば、出かける前にネットで運行状況を検索したら電車が止まっていたので、出掛けるのをやめて家でYouTubeを一日中観てだらだらと過ごす、といったところでしょうか。失敗はしないけど何も起こらない、それが私たちの生きる社会ではないでしょうか。
 東は、この閉塞感を打破するには「誤配」をもう一度「帝国」の秩序から奪い返す必要があると言います。それは、「帝国」を外部から批判することでもなく、また内部から脱構築することでもなく「誤配」を演じ直すことです。  
 言い換えるならば、「観光客」=「他者」として、出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、「帝国」の体制に再び「偶然性」=「誤配」を導き入れるということです。


 私は本書を読了するや、また最初から読み返しました。そうせずにはいられない吸引力がこの本にはあり、それは文面から照りかえす情熱がそうさせたのかもしれません。
 「良い本」とは、このように何度も繰り返し読み、そのたびに新たな発見をさせてくれるものです。(夏目漱石の「こころ」や安部公房の「砂の女」なんか何回読んだかわかりません。)
 しかし、「良い本」とは、読みにくさが伴います。何故か。それは、今まで自分が考えたこともない思考法を、馴染みのない言葉で語るからです。私たちは、本の中で何度も門前払いを喰らいながらも必死にわかろうとします。だから「良い本」とはとても疲れます。「良い本」は不親切なのです。
 それに比べ「親切な本」は、口当たりもよくスラスラと読めます。あんまり疲れません。なんかわかったような気にさせます。だからそんな本はよく売れます。でもそこが罠で、それはつまり自分の既存の知識の上塗りをしているだけで、何一つ新しい発想を提供してくれない。自己閉鎖的です。それは「消費」に似ています。読み終わったらそれっきりです。
 対して、「良い本」は「消化」に似ています。その新しい発想は、懸命に咀嚼し、飲み込み、吸収することにより栄養に変わるのです。つまり思考させるのです。
 しかし、「良い本」の本当に凄いところはここからです。新しい思想、新しい言葉は、私たちを開眼させ、高揚させます。雲間から射し込む一条の光のような言葉たちは、私たちを鼓舞し躍動させ、思弁から実践へと駆り立てるのです。
 私にとって、そのような本のひとつは、デカルトの「方法序説」です。そして私は、本書では一切言及されなかったこの17世紀の哲学者と本書とを結びつけたい誘惑を禁じ得ません。デカルトはこのように言います。

またその後旅に出て、われわれの考えとはまったく反対な考えをもつ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、われわれと同じくらいにあるいはわれわれ以上に理性を用いているのだ、ということを認めた。そして同じ精神を持つ人間が、幼時からフランスまたはドイツ人の間で育てられたとき、かりにずっとシナ人や人喰い人種の間で生活してきたとした場合とは、いかに異なった者になるかを考え、またわれわれの着物の流行においてさえ、十年前にはわれわれの気に入り、またおそらく十年たたぬうちにもう一度われわれの気に入ると同じものが、今は奇妙だ滑稽だと思われることを考えた。そしてけっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかに多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、真理にとっては賛成者の数の多いことは何ら有効な証明ではないのだ、ということを知った。
デカルト「方法序説」

 ここには私たちのアプリオリな認識を根底から揺るがす凄いものがあります。震撼させられました。注意していただきたいのはデカルトは「旅」を介してこの認識に至ったという事実です。
 彼は、私たちがいる「いま、ここ」の絶対性にはなんら根拠はなく、自明だと私たちが信じて疑わないものは単なる習慣の集積にすぎないと断言します。それは、あらゆる場所に中心があるということです。私はその取り留めのなさ、茫洋さに気が遠くなりました。同時にこの言葉は、私に遠い過去の記憶を呼び覚ましました。それは子どもの頃に知らない土地に出かけたときに感じた、ある名状し難い感情です。
 子どもの頃は、自分の家のせいぜい半径50メートルくらいの近所が全宇宙でした。しかし、隣の町に行くと、そこには自分の宇宙と同じような場所が存在し、人々が生活をしている。そして、「いま、ここ」にいる人たちは「いま、ここ」が中心なのであり、そしてまた、このような「いま、ここ」が世界中に人の数だけ無数存在する。なぜ自分はこの「いま、ここ」ではなく、あの「いま、ここ」なのか、それが不思議であり、不条理であり、なんだか空恐ろしい気がしました。
 そして、私を駆り立てた決定的な言葉がこれです。

今までのことをすべて考えた炉部屋にこれ以上とどまっているよりは、世間に出て人と交わるほうがよい、と思われたので、その冬がまだ終わりきらぬうちに私はまた旅に出た。そしてそれにつづくまる九年の間、世間で演ぜられるどの芝居においても役者であるよりも見物人であろうとつとめながら、あちこちめぐり歩いてばかりいた。
デカルト「方法序説」

 まさに天啓でした。目の前の厚い扉が一気に開かれ、眩しい光に眩暈を覚えるかのようでした。ここで注目してほしいのが、「世間で演ぜられるどの芝居においても役者であるよりも見物人であろうとつとめながら、あちこちめぐり歩いてばかりいた。」という箇所です。これは本書の言葉で言えば「観光客」という言葉がピタリと当てはまるのではないでしょうか。
 デカルトも東も「旅」を介して思惟しているのは決して偶然ではありません。哲学者とは、現在私たちがイメージするような象牙の塔の住人などでは決してなく、本来、観光客のような存在だったのではないでしょうか。炉部屋を抜け出し、今まで見たことのない景色を見、知らない人と話し、自らの欲望を変えること。
 また、デカルトと東は「欲望」についても考察しています。デカルトは、「世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えよう」と言います。自然のあらゆる制限を課せられた無力な存在である人間が、その中で唯一できることは、自分の意思=欲望を変えることだけだということです。それを自らの格率とし、デカルトは旅に出ます。いっぽう東も別の著書、「弱いつながり」の中で、観光地に訪れ、様々な対象を見て、触れて、新しい「欲望」を自分の中で芽生えさせることが旅の目的だと言います。

 「旅先で新しい情報に出会う必要はありません。出会うべきは新しい欲望なのです。」東浩紀「弱いつながり」より

 欲望は意思を変え、意思は言葉を変え、言葉は人を変える。哲学の意義とは、そこにあるのではないでしょうか。哲学者とは「いま、ここ」の自明性を疑い、相対化し、外部と内部のあいだを不断に行き来し「ふわふわした存在」であり続ける人のこと、そんな「怪しいヤツ」のことではないでしょうか。思えば、哲学の基礎を作り上げたソクラテスも、道行く見ず知らずの人を次々と掴まえては、「愛とはなんだ?正義とはなんだ?」と吹っかけては議論する「怪しいヤツ」を通り越した「アブナイヤツ」でした。
 彼らのようなあらゆる境界線を越境する人間は、いつの時代も何処かいかがわしく、同時に人々を惹きつけてやみません。そしてその存在は、私たちの硬直化した感性を解きほぐし、思考させ、行動へといざないます。
 本書はいわゆる「不親切な本」ですが、ひとりでも多くの人に読んでいただき、皆さんの好きに解釈(そう、決まった読み方なんてないのです。好きに解釈しましょう。それこそまさに「誤配」です。)して、なんだかよくわからない高揚感を感じ、興奮していただければサイコーです。

 あら、まあ。人ってほんとにあちこち行けるものなのねえ。アラバマを出てから二ヶ月もたたないのに、もうテネシー州にいるなんてねえ
 フォークナー「八月の光」

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