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是枝裕和「万引き家族」評/未開家族VS文明家族




 郊外のスーパーマーケット。父親らしい人物とその息子が入り口に佇み、決心したように入店する。商品カートを滑らせ、品物を物色する二人。何よりこの一連のシーケンスで感動するのは父親の衣装である。くたびれた茶色ともオレンジ色とも判別し難いジャンパー、ノーブランドの運動靴、そして、中でも白眉なのはジャージのパンツである。サイドに三角形の白と赤のラインが入り、紫とも水色ともつかない配色バランス。このタイプのジャージを今外で見かけることは容易ではない。30年程前であれば、小学校教師や町内会で、この手のジャージを穿く幾分くたびれた風貌の中年を散見することできたが今はそうもいくまい。「ユニクロ」のような、安価でコンサバな、それなりに洒脱にも見えさせもする衣料品店が、この国のファッションの基準を悲しくも底上げしたからだ。これは断じて「豊さ」などではない。安くて質の悪いそれなりの服を買うこと。これは「欺瞞」であり「隠蔽」であり絶対的な「貧しさ」を胚胎している。
 そんな記憶の奥深くに埋もれていた昔日の原風景を、リリーフランキーが履くジャージを見た瞬間に生々しく蘇る。そしてこうつぶやくのを禁じ得ない。「神は細部に宿る。」

 この徹底したリアリズムは、映画の全編にわたって通底する。安藤サクラの役作りの精緻さ、精巧さは、またしても彼女のフィルモグラフィの最高値を更新したし、樹木希林の蜜柑や餅を食す時の咀嚼音や、風呂場のタイルの目地に繁茂する黒カビ、部屋に散乱する弁当殼や空き缶など、「あー、こんな女いるよね」「こんな部屋に住んでた友達いたわ」と、いたるシーンで思わず共感の声を漏らしてしまう。


 物語は万引きを生業とする父親とその息子が、寒空の下、ベランダに置き去りにされた少女を連れ去ることから始まる。
 最初は一晩だけのつもりが、なし崩し的にそのまま少女は居座り続けることになる。狭い借家には祖母、父親、母親、息子、娘の五人が肩寄せ合って暮らす。日雇いや万引き、クリーニング店でのパートで糊口を凌ぐ両親の下、これに新たに少女を加えて、果たしてまともに生活できるのかと我々は不安に感じる。貧困、犯罪、生活保護といった言葉が浮かんでくる。
 しかし、そんな世間一般の価値観をよそにこの家族は何やら楽しそうだ。毎日一家団欒で食卓を囲み笑いが絶えないし、娘は女親に悩み事を相談したりもする。昨今巷間を騒がす虐待やDVといった事柄とは全く無縁なのである。
 貧困や犯罪に手を染めている事を別とすれば理想的な家族だとさえ言える。しかし、物語が進むうち、我々はこの家族に対するある違和感を覚える。それは、この家族は「本当」の「家族」なんだろうかと。息子は父親のことをお父さんと呼ばないし、母親のこともおばさんと呼ぶ。娘にしても同様である。その予感通り、実はこの家族は相互に何の血縁関係もないことが明らかとなる。そう、血のつながりのない、全くの赤の他人がひとつ屋根の下で生活していたのだ。ここで我々は理性のもと、納得しようとする。なるほど、祖母の年金、住居を当てにし、また細々とではあるが、母親のパート代や、娘の水商売で得る給金といった互いの金銭を頼っただけの利害関係の上に成り立っている利己的な関係なのだと。その証拠に実は一家の一番の稼ぎ頭だった祖母が死んだ後、このニセの家族は解体したではないかと。
 しかし、それならば海水浴に行き浜辺で戯れる家族を見守る樹木希林の慈愛に満ちた表情や、縁側で打ち上がる花火を見上げる彼らの顔、はたまた安藤サクラが少女を後ろから抱きしめ涙するといった、あの胸がしめつけられる程美しく温かなシーンは何だったのかと問いたくなる。
 前述した冷たい利害関係では片付けられないある過剰さがそれらにはあるのだ。それではこの家族とは何だったのだろうか。我々の尺度、価値観では計れないこの家族はいったい何によって結ばれていたのか。



 それは他でもない「憐れみ」である。後半、母親である安藤サクラが告白するように、この家族は「捨てられた」者同士が寄り集まり共生していたのだ。世間によって、血縁で結ばれた「家族」によって捨てられた者たちが「憐れみ」によって家族として再生する。少女が冒頭のシーンで、家族の一員となるのも「憐れみ」からである。また、娘が働く風俗店に、客としてやって来た失語症の青年と心を通わすのも「憐れみ」を通じてだ。もし、この家族が後に解体することがなければ、青年は四人目の子どもとしてこの家族に迎えられた筈である。(この青年が店内で呼ばれる整理番号の「4番」という数字はこれを暗示する)



 ルソーの著作「人間不平等起源論」によれば、未開社会に於ける原始家族の形態は、「血」よりも「憐れみ」で繋がっていたと措定する。「血」の繋がりではなく「憐れみ」で共同体を作り生活を共にしていた。そうでなければ肉体的、経済的に何の利益も共同体に齎さない赤子を、見返りもないのに育てたりするだろうか。それは、放っておけば死ぬしかない赤子に対する憐憫、同情の感情に他ならない。
 そうやって集まり、形成されたのが「家族」の起源なのでは、とルソーは思弁する。

 翻って文明社会にとって「血」のつながりこそ「家族」の紐帯の証、象徴であり、またそれがあるからこそ先天的に家族に対する慈愛があるのだと我々は思う。誰もがそれを自明のこととして疑わない。
 しかし、ルソー、そしてこの映画はそんなアプリオリな認識を揺るがす。我々が絶対視し、「家族」である証である「血」の関係。しかし、その「血」のもとで、彼らは殺し合い、弱者を容赦なく排除してきた。そんな戸籍や証明書で明示化され、認知される家族が「家族」と言えるのだろうか?そんなラディカルな問いを我々に突きつける。
 「憐れみ」によって結ばれたこの「未開家族」はしかし、だからこそ必然的に文明社会と対立せざるを得ない。
 前述したように戸籍といった証明書で文明社会に対し証明できないゆえ、父や母との共同生活は、祖母の年金を頼った詐欺ととられ(半分は当たってるが)父親と息子が生業とする「狩り」は、「万引き」となり、虐待された少女を保護したことは「誘拐」ととられてしまう。
 そんな「未開家族」が、家族として途方もなく美しく輝き、だからこそ我々のアプリオリな認識を揺るがすシーンがある。他でもない花火を縁側から見上げるシーンと、海水浴のシーンである。
 

 花火のシーンでは、軒先から家族全員が灯りがついた屋内から首だけを出し、夜空を見上げる。その姿を俯瞰で捉えるショットだ。周囲の団地は静まり殺伐とした雰囲気さえ感じる。四囲の暗闇の中、灯りによって楕円形に浮き上がった家の縁側から、楽しそうに花火を見上げる家族。(しかし、実は花火は我々にもそして彼らにも、遂には見ることができず、その打ち上がる音だけが響くのだ!)まるでそれは、広い宇宙の片隅に漂う宇宙船のようだ。文明社会から捨てられた者たちの乗る、小さな小さな宇宙船。それは中心から周縁へと疎外された者同士が寄り集まるシェルターのようにも見える。
 そして、真夏の海で楽しそうにはしゃぐ彼ら。まるで最後の家族旅行となるのを予感しているかの様に、彼らは心ゆくまで団欒を堪能する。家族で波打ち際で手を繋ぎ、一斉に跳躍する姿を、どんな感情にも収斂できない表情で見守る老婆初枝。母性の爆発。圧倒的な美しい映像群に、途方に暮れてしまう。しかし、破綻は突然訪れる。それは初枝の死とともに始まる。
 初枝はこの「未開社会」にとって精神的、経済的な支柱であり、象徴である。毎月決まった年金が支給され、別れた旦那の家族からも慰謝料のようなものを受け取り、住居の立ち退きを迫る地上げ屋にものらりくらりとやり過ごす。そんな強かな現実感もある一方で「孫」たちから甘えられ慕われる。そんな彼女の死によって「未開家族」の奇跡的とも言える均衡が崩れる。それはこう言ってよければ「文明化」の波が押し寄せたからである。

 初枝が残した僅かな遺産を見つけて喜ぶ父と母。それを冷めた目で見る息子。これまで彼が万引きを繰り返したのは、父親からスーパーにある商品は誰の物でもないと教わったからだ。それは、誰にも迷惑をかけない、賃借が発生しない関係だ。失敗すれば自分がその責任を負う。「憐れみ」から家族に庇護されている彼は「狩り」=「万引き」することによって負い目(負債)を返済していたのだ。
 しかし、祖母の死によって予想される経済的逼迫は、それまでの「狩り」=「万引き」では凌いでいけるものではない。父は万引きから車上強盗(他人の物を盗む)に手を染め、「狩り」から「貨幣」を重視するようになる。「狩り」から「貨幣」の移行は即ち「未開家族」から「文明家族」の移行を意味する。

 「貨幣」以前の「未開家族」に於いて、「目的」とそれを実現するための「手段」は、同一人によって実行されていた。「手段」→「目的」の一連の過程は自分が管理、制御し、可視化されていた。
 しかし、「貨幣」がその共同体で流通し、力と信用を持つことによって「目的」と「手段」のうち、「手段」が自分以外の他人によって代理されてしまう。我々文明社会とは、「目的」を成就するための「手段」を、自分の預かり知らない他人に代行させ、その対価として一定の「貨幣」を支払うことによって成り立っている。汚れ仕事を経済的、場所的弱者に代行させ、搾取することによって、だ。
 
 だが、息子はそれが我慢ならない。その理由は定かではないが、おそらく、先天的狩人の直感が、資本主義的欺瞞を鋭く看破したのだ。だからこそ根源的で生理的な文明社会に対する嫌悪感を覚え積極的にそこから離脱する。
 祖母の隠し財産を前に狂喜する父母の姿を見て、彼は「未開家族」の終焉と、「文明社会」の訪れを敏感に察知する。だからこそ、警察に故意に捕まり、彼ら家族の元を去るのだ。彼の補導によって「未開家族」の存在が世間に露顕する。

 「文明社会」たる世間は、常識や良識を振りかざし、この「未開家族」のいびつさ、不快さ、嫌悪感を口にし、糾弾する。
 しかし、「文明社会」たる世間が吐くどんな言葉も、この「未開家族」の本質を捉えることなく虚しく空転する。その象徴的なシーンが検事と母親とのやりとりである。二人の会話は全く噛み合わずちぐはぐなままに終始する。
 少女の虐待からの「保護」は、前述したように法のもとでは「誘拐」となる。「未開家族」の中で、のびのびと暮らした少女が法のもと被害者となりあまつさえ擬似(しかし本当の)家族から再び引き裂かれてしまう。過剰たる「未開家族」と対比し、この「文明社会」の根本的貧しさと欺瞞性が二人の会話の上で露顕される。
 二人は同じ母語たる日本語を話すが、全く異質な価値観を有している為、まるで異人同士が話しているような印象さえ受ける。そしてこの尋問のシーンで、映画はまたしても過剰な何かを画面いっぱいに放出する。

 検事が母信代に対し、少女が両親のもとに帰ったが、また連れ去られた家族のところに戻りたいと口にしているが何故かと問う。それを聞かされた信代の表情の、仕草の素晴らしさ。髪を何度もかきあげ溢れる涙を手の平で不器用に拭う。この言葉を超えた豊かさ。娘を失った悲しさともとれるし、娘の言葉でかりそめにも二人のあいだで親娘愛が生まれたことに喜びを覚えた表情ともとれる。
 海水浴のシーンで初枝が見せた豊かさと過剰さに共通するものがある。我々はこの表情を、仕草を形容する言葉を未だ持たない。

 ラストシーンでは少女が両親に邪険に扱われ、あのベランダで佇む。視線の先は「未開家族」と出会った道だ。また自分を「未開家族」へと連れて行ってくれる誰かを虚しく待っているかのようだ。そしてその眼差しは、「血」と「証明書」を重視し、形骸化した我々文明社会に突きつけられた非難であり問いかけでもある。


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