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森喜朗の差別発言を擁護する人達へ

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 会長 森喜朗の差別発言を擁護する人達が後を絶たない。彼らからすると、「何をちょっとした失言で外野がギャーギャー騒いでいるのか。SNSは本当にみっともない。森喜朗先生の功績に目を向ければ、実に些細なことなのに。」という心理だろう。

長年仕事を一緒にしてきて、自身が尊敬する上司が、もしあなたの手を刺したら、あなたは「上司の功績に目を向ければ、実に些細なことなのに、何を痛がっているのか。自分はほんとに身勝手だ。」と思うのだろうか。上司の功績と眼の前の被害は別物として扱うのが、現代社会の常識である。もし上司の功績が眼の前の被害に何ら影響を及ぼさないとすると、それはヤクザの世界の常識である。オリンピックの組織がヤクザの組織の論理で動いているとすると、オリンピック組織を反社会的勢力に近づけることになる。つまり、森喜朗の差別発言を擁護することは、論理的にはオリンピックを反社会的勢力化させることになってしまう。そのことを理解した上で、それでも森喜朗の差別発言を擁護する人はJOCやIOCに果たして何人いるのだろうか。

また「ちょっとした失言だけで、人を非難するのは間違っている」という心理も森喜朗養護者達は持っているだろう。言葉とは本質的に軽いものである。ちょっとしたものである。アドルフ・ヒトラーの命令を忠実に実行したアイヒマンが「ユダヤ人を50万人ガス室に送ったよ」と言ったとしても、その言葉はちょっとしたものである。実際に50万人をガス室に送る膨大な作業と比較すれば、言葉とはちょっとしたものである。しかし、膨大な作業を生んだ素の要素とは、アドルフ・ヒトラーのちょっとした言葉、思考である。もしそのちょっとした言葉、思考がなければ、ユダヤ人が大量に虐殺されることにはならなかった。現代では、シリアで国民の1/3が政府によって虐殺されるか難民になっている。その膨大な被害も権力者のちょっとした言葉、思考によって生み出された。

つまり、言葉の些細さとその後の膨大な結果の因果関係を理解できない人は、絶対に権力者になってはならないのである。森喜朗も安倍晋三も菅義偉もまともに勉強をせずに、実体験だけで権力者になった人達である。言葉の重みを理解せずに、腹芸とコネという自身の半径10mの経験だけで権力を得た人達である。日本の権力者になるということは、半径1000キロの出来事を自分事として考えることである。半径10mのことしか自分事になっていない人間が、飛行機を駆使して世界中の権力者に会ったとしても、半径2万キロの思考ができるようになるはずがない。

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 会長は、世界中のアスリートがどういう生活をしていて、何を考えているのかを把握する必要がある。もちろん森喜朗にできるはずがない。世間に晒せない利権を貪ることしかできない人間に会長をさせた段階で、東京オリンピック・パラリンピックの命運は既に尽きていたのである。コロナとは無関係に。

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