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『学生時代に頑張ったことは何ですか?』
私の配偶者は、先生をしている。
士業という意味ではなくて、いわゆる「学校の先生」である。
そんな彼と人間の成長について、話をすることが多々ある。
例えば、学校に嘘をついて休みがちな生徒がいれば、その家庭環境の共通点やら
真面目だけど表情が暗い生徒は就活で躓く事が多いが、彼らは他人をどう認識しているのか、とか。
20歳そこそこなんて『自分は何者か』なんて答えのない問いに向き合っている人も多い。大学生・専門学校生はそのモラトリアムを謳歌している。
今日はそんな生徒たちを遠目で見ていて、自分に落とし込むと見えることを書きたいと思う
他人が名前をつける『私』
なんか心の中に常にトキトキしている感情があるけど、私って性格悪いのかな
と悩んでいた時期もあるが、これは他人(友人)に言わせると「芯がある人」らしい。私の知っている『芯のある人』は私のようにちゃらんぽらんではない。
つまり、私は『他人からは芯があるように見える人』なのだろう。
寄り添ってあげるのが優しさだとか言われてるけど、甘やかすとの境界線はきっちり引きたい。私は優しいけど、理解されにくいだけ
これも私。他人(友人)から見ると『厳しい人』となるらしい。私は「厳しく思われがちな優しい人」と自分を定義づける。
私は昔から、まず『私』があって、親やら兄弟やら友人やら地域の人やらと関係が広がっていくイメージなのだが、そうじゃない人もいるらしい。
まず、『周囲の人々』があって、周りの人間が私を形作っていく。そんな自己形成をしている人が一定数いることに驚いた。
学生ならまだしも、大人でもいるのは驚きだ。
(なお、「まだそんなレベルなのぉ?」という意味ではなくて、人間の半数はそういった自己形成をする事実に驚いている。)
内向的、外向的といわれるアレ。
内向的な人は『自分とは何か』を考え
外向的な人は『自分は比べてどうか』を考えているのだろう。
比べる、という日本語に齟齬があっては困るけれど、国語に比べて算数が得意、Aちゃんに比べて私は足が遅い、と内外問わず何かに比べて定義をする
学校教育は学校がするのか?
生徒たちの作文の中には、旦那さんの頭を悩ませるものが存在する。
それは「頑張った=他の人がいい評価してくれるもの」だと思っている子供が多くいることだ。子供とは言ってももう二十歳なのだが。
例えばタイトルのように『学生時代に頑張ったことは何ですか?』と聞かれれば
「部活」「文化祭などの実行委員」「ボランティア活動」しか答えられない。最悪なのは「テスト」だけど。
いいじゃん、「家の皿洗い」だって「靴を揃える事」だって「姿勢よく過ごすこと」だって「健康管理」だって「忘れ物をしない」だっていいじゃん
しかも、
学生時代に頑張ったことは○○です。
最初は△△が上手くいかず、チームもバラバラになっていましたが、それぞれが問題点を挙げ自発的に行動することで、素晴らしい結果になりました。
この経験を糧に、チームの一員として自主性をもって御社に貢献したいと思います。
大抵この構文。
多様性どこいった?
この『学校教育の賜物』のような作文を、どう『個性を伝える文章』にするのか、先生(旦那)は0時過ぎまで添削するのだ。
しかし、振り返ってみると、いや、省みてみると、私だって今『主婦として頑張っていることは何ですか?』と聞かれると、型抜きのような作文を書いてしまいそうだから社会とは恐ろしい。
私ももしかしたら”学校教育”のような教育をしてしまう側の人間なのかもしれない。クソおもんなーおばさんである。
「他人に名前を付けてもらった個性」やら、
「骨格診断とパーソナルカラー診断で似合うって言われた服」は余所行きとしてとっておいて
言葉にするのが難しい『私』を、言葉にせずとも大事にしているのが良いと思うんだよなぁ
ブログにあるまじき言葉にしない結論〆である
*追記
就職したことないゴミの駄文ですので、履歴書等の参考にはなさらないでください
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