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ミステリ小説「大学生がバズり動画を撮りに都市伝説の現場に行ってみた。」第3話

第1話

第2話


3の続き

セツさんの夫で久鼻集落出身であるという老人、久冨ひさとみ武市たけいちは、奥の和室で座布団の上に胡坐をかいていた。彼の前にあるのは巨大な樹木を輪切りにして、そのうちの一枚を天板にしたと思われる低いテーブルで、光沢ある表面の艶の奥には、幅広の年輪が刻まれていた。ずいぶんと立派で高価そうだ。それを言うなら、この部屋の調度品すべてがそうなのだが。
武市氏は妻と同じく、シワだらけでくしゃくしゃの顔であった。頭頂部に髪の毛はもはやなく、白髪が頭部の周囲に薄くかろうじて残っている。白髪交じりの眉毛がもっさりと生え、まぶたが大きく垂れさがっており、眉間には大きなシワが寄っている。
襖を開けて対面した時、不機嫌そうなオーラを感じて俺は内心びくびくしたが、かけられた声は意外にも明るくからりとしていて、妻と同じく歓迎の意を表しているようだった。
……ようだった、というのは、武市氏の訛りがきつすぎて、俺にはほとんど聞き取れなかったからである。
「おゥ、おめえらが東京の学生さんけぇ。とおくからようきたなぁ。えんこしてくれぃ。いまおっかぁが茶ぁ持ってくるけぇ」
香西が「どうも」と頭を下げてから、テーブルのこちら側に用意されたふたつの座布団の左側に座ったので、俺は右側の座布団に座った。正座したのは意図的ではない。反射的だ。
武市氏は白い半袖のポロシャツに灰色のズボン、妻と同じ五本指ソックスという格好で、やはり痩せて小柄な人物だった。さすがにセツさんより背が高いが、それでも一六〇はないだろう。座っているので正確な身長はよくわからない。
視線とジェスチャーで香西に(方言がキツすぎて、意味が分からない)と訴えてみたところ、香西は珍しく察し良く頷いた。
「はじめまして、香西こうさい礼一れいいちです。こちらは同じ大学の小中こなか高大たかひろくん。今日はお時間を割いていただきありがとうございます」
如才なく自分と俺を紹介し、会話をリードし始める。
香西が今回のインタビューの目的を説明し始める隣で、俺はジーンズのポケットからスマートフォンを、肩から降ろし畳に置いていたデイバッグからスマホ固定用の器具を取り出し、武市氏に録画の許可を取った。もちろん投稿動画用だが、研究者がフィールドワークにおいて、記録のためにインタビューを録音したり録画したりすることは珍しくない。正確な記録のためにはむしろ必要なわけで、許可取りにはこちらの理由を使う。
「こんなもんでビデオが撮れるんけぇ。まさかちっこいなぁ。最近の若衆わけえしはごうぎなもんつかうな」
ごうぎ……の意味は分からないが、感心している様子なのはわかった。ビデオとは録画という意味で使ったのだろう。俺にとっては耳慣れない単語だが、親世代までは使い慣れた言葉だと聞く。
いずれにせよ撮影の許可は取れたので、俺は豪華な年輪テーブルの端にスマホ固定用の器具を置き、カメラレンズを武市氏に向けてスマホの角度を調整した。
「うつるんが俺おれだけでいいんけぇ?」
画面に写るのが自分だけとレンズの向きから察したらしい武市氏が疑問を発した。
投稿動画用なので取材対象(武市氏)だけを映せばよいと考えていたが、確かに、記録として動画を撮るという体裁なのだから、インタビュアーの表情や動作も映像に残しておいた方が、取材時の雰囲気がそのまま残せるという意味で自然である。
動画に映った香西の姿は、投稿する時に編集で消せば問題ない
「香西、動画に写っても平気か?」
尋ねると、「構わない」と短く返答があった。
「後で俺のパソコンに送ってくれ。俺も録画が欲しい」
「わかった」
了解してスマホの位置を移動してから、俺は香西の連絡先をメッセージアプリ以外知らないことに思い当たった。しかし、本人が欲しいと言っているのだ。メールアドレスは後で教えてもらえるだろう。
そこへ、買い物に行く支度をしたセツさんが湯気の立つ茶碗を三つ、お盆に載せて持ってきてくれた。年輪テーブルの脇に正座してお茶を並べると、彼女は香西と俺に向かって頭を下げた。
「じゃあ、これからあたしはなっちゃんと買い物に行ってきますけぇ、後はよろしく頼みますね」
俺たちは口々に「こちらこそ」と頷いて彼女を見送る。
それから俺はカメラ機能の画面の録画ボタンを押し、インタビューが始まった。

香西はまず、久鼻集落の土地の現状を知っているかを武市氏に尋ねた。
「そりゃあ当然だんべぇ。あの辺の地所ァ今ァおれんちがせっちょうしてるからなァ。だけんども、そらっことを聞いちゃあ若衆わけぇしがえぇら来てほうぼうとっ散らかして、えれぇ迷惑してらァ」
これをインタビュー後、俺にもわかるよう香西に標準語に直してもらうとこうなった。
『当たり前だよ。あのあたりの土地は今、うちが管理しているんだから。けれど、でたらめを聞いては多くの若者たちが来て、あちこちを荒らして、とても迷惑してるんだ』
……俺も多少の埼玉の方言は知っているつもりだったが、ほぼ分からなかった。
次に香西は、“おたまさま人形”のある廃屋は実在するのかを尋ねた。
「俺おらァ知らねぇな。んなでけぇ屋敷がふんとにあるなら、とっくのまっくにめっけて、ばかが来きてわるさしねぇようにぶっこぉしとくけんど」
これを標準語に直すとこうなる。
『俺は知らない。そんな大きな家が本当にあるなら、とうの昔に見つけて、馬鹿な人間が来ていたずらをしないように、ぶっ壊しておくんだが』
やはり、土地の管理者にとって、“おたまさま人形”の呪いの噂を聞いてやって来る若者は迷惑千万のようだ。
そこで武市氏は腕を組んでため息をついた。続く台詞は長く、しかも香西が珍しく驚いた声をあげたので、俺は武市氏が何を言ったのかと思ったが、直後に香西が説明してくれたところによると、武市氏は“おたまさま”人形の祠を撤去するつもりなのだという。
このときの武市氏の台詞を、父冨弁を標準語に直して再現すると、こうなる。
『でたらめを聞いてやって来る若者が、山道で事故を起こしたり、廃屋に入って怪我しても、正直俺たち管理者には迷惑なだけだ。しかし、死傷者が出るような事故が起こって面倒な事態になるのはごめんだから、原因の祠を撤去しようと考えている。もう祠に来るような元住民の方はほとんどいないし、その人たちからも了承をもらった。もちろん、きちんと御魂みたま抜きの儀式をしてから撤去するつもりだ』
この時、御魂抜きの儀式とは何か俺はわからなかったが、祠を撤去する際に必要な儀式だということは何となく察した。
後で香西から聞いたところによると、御魂みたま抜きとは、神棚や祠を移動・撤去などする際、そこに宿る神様を鎮めてその魂を抜き取る儀式だそうだ。必ず行う必要のあるものではなく、実施するかしないかは関係者の信仰心によるところが大きいという。現在、個人宅内の神棚や個人の敷地内の祠を撤去する際は行われないことも多いらしいが、“おたまさま”人形の祠は集落の人々が信仰していたもの。さらに武市氏自身も信心深い人物のようなので、撤去に際しきちんと儀式を執り行うことにしたのだろう、と香西は説明してくれた。
武市氏は香西が俺に説明し終わるのを待ってから、セツさんの持ってきてくれた茶碗を口に運び、息をついた。
「はァ御魂抜き頼む神社さんもめっけてあるし、これであんきにならあ」
『もう御魂抜きを頼む神社も見つけてあるし、これで安心できるよ』
タレ目のまぶたがさらに垂れて、糸のような目がさらに細くなる。
それから武市氏はまぶたを少し持ち上げて、俺たちを交互に見た。
「おめぇらはこんぴーたに詳しいんだんべ。俺んちで祠はちゃんとくようしてなすから、こんぴーたにそのことを書いてくんねぇか」
『君たちはコンピューターに詳しいでしょう。祠は我々管理者がきちんとしかるべき手続きをしてから撤去するので、それをコンピューターに書いてくれませんか』
武市氏の言う“こんぴーた”とは、おそらくインターネットのことだろう。
俺は武市氏がなぜ俺たちの取材を受けたのかを理解した。
彼は興味本位の人々が集落にやって来る原因である祠を撤去することで、“おたまさま”人形の呪いの噂を根源から断つつもりなのだ。
それを俺たちに広めてほしくて、これまでウェブライターや雑誌記者らから申し込まれても頑なに断ってきたという取材を、今回は受けることにしたのだろう。
「それで噂がなくなることは難しいと思いますが、わかりました。やってみます」
果たしてインターネットに詳しいかは未知数ながら、香西は了承した。

「僕は“おたまさま”人形に興味を持って今日こちらを訪ねたので、祠の撤去は仕方のないことかもしれませんが、残念ですね」
香西が表情を曇らせて言った。こいつがこんなに長い台詞をしゃべるなんて珍しいな。
武市氏はその言葉を聞いて、垂れ下がっていたまぶたの皮膚を少し持ち上げた。小さな目の奥が、興味深そうに光ったように見えた。
「“おたまさま”は集落を荒らしに来る馬鹿どもがかんげえるみてぇな、おっかねぇ神様じゃねぇよ」
「はい。人形を受け取ったり貸し出したりしていたということは、“おたまさま”を信仰している方は人形を家に持ち帰って、少なくとも一定期間は家に置いていたんですよね。ということは、家に祀られる神様のような存在だったのではないですか」
武市氏は驚いたようにさらにまぶたを持ち上げ、小さな目で香西を直視した。
ほぉ、と感嘆する。
「おめぇ、てぇしたもんだな。ごうぎな大学で勉強してるだけあらァ」
武市氏はそこで、よっこらせ、と言いながら座布団から立ち上がった。
おらがこうしゃくぶつより、おめぇらがアレ読んだ方が早かんべ。今持ちに行くから、ちぃっとばかし待っててくんな」
こちらが聞き取れないほどの早口で言って、武市氏が襖を開けて和室から出ていく。
立ち上がった姿は短躯ながら、思っていた以上に頑強な体つきを感じさせた。腰は曲がっていないし、半袖からのぞく腕は細いながらも、日にけて、しっかり筋肉がついている。歩き方も危なげなく、年齢に合わない敏捷さすら感じさせた。
「アレって、“おたまさま”についての文献があるのかな。俺が調べた限りでは見つからなかったけど」
香西が座ったまま体をねじり、閉じられた襖を眺めながら言った。
やはり普段よりも台詞量が多くて長い。こいつ、いつもはどれだけ台詞量を節約しているんだ。
と同時に、俺は香西がなぜこんなにも“おたまさま”人形の呪いの噂に前のめりになっていたかを理解した。彼は呪いではなく、“おたまさま”人形そのものに興味があったのだ。
そういえば難解な内容で有名な講師の『民俗学』の講義を面白いと評する奴だった。
「香西、“おたまさま”人形みたいな貸出? する人形の風習を、他に知っているのか?」
香西は俺の質問に振り向いた。長いまつ毛の切れ長の目の奥がキラキラ光って見えた。
「人形を貸し出す風習は知らないけど、手作りの人形を祈祷師のところに持って行って、祈祷をしてもらってまた家に持ち帰る風習は東北にある。その人形はオシラサマと呼ばれるんだけど、“呪い”の噂の元になったネット小説を読む限り、“おたまさま”人形の造形とオシラサマの造形がよく似ているんだ」
香西は次々と言葉を繰り出し、俺に介入する機会を与えない。
「東北一帯にはオシラ信仰という民間信仰があって、これは柳田国男の『遠野物語』で有名になった信仰なんだけれど、オシラサマはその信仰のいわばご神体で」
“おたまさま”人形の呪いの噂のどこが気になるのかを以前尋ねた時、香西がそれを説明すると二時間はかかるといった理由が分かった。というか、実感している。ヤバいスイッチを押してしまった。
このスピードとこの台詞量で二時間……俺はあの時の自分の判断に拍手を送りたい。
既に脳みそのキャパシティを超えた情報量が俺の耳に流れ込んでいるが、香西が話を止める様子は全くない。
「オシラサマも“おたまさま”人形も、いわゆる姉様あねさま人形の系列につながると思うんだけれど、姉様人形って雛人形の元でもあって……」
その時、襖が開いて武市氏が和室に入ってきた。やや変色した紙を束ねた、冊子のようなものを左手に持っている。
「アタマの方がおっ欠けちまったが、二十年ぐれぇめぇに『久冨集落の歴史』を集落出身で大学に行った若衆わけぇしがまとめてくれたもんだ。これに“おたまさま”のことが載ってらァ」
どっかりと元の座布団で胡坐をかくと、武市氏は香西に冊子を渡した。
表紙含め、冊子の最初の数ページが破れている。“アタマの方がおっ欠けちまった”とはこのことだろう。冊子を開いたまま何か重いものを上に置いてしまい、むりやり冊子を引っ張り出したら重いものの下敷きになっていた表紙側の数ページが破れて取れた、といったところか。
香西が受け取った冊子を俺にも見えるようにテーブルに広げてくれたので、俺にも冊子の内容が読めた。
冊子の後ろに近いページに、『“おたまさま”について』と題された文章がある。

“おたまさま”について

“おたまさま”とは久鼻集落に伝わる火除けの守り神である。かつて集落の“おたま”という娘が火事で焼け死んだ。娘の非業の死を悲しんだ両親は娘に似せた人形を作り、神棚に供え祀った。その後、集落の多くの家が被害を受けるような山火事があっても、その家だけは無傷であった。神棚に祀られた娘が家を守ったのだと考えた集落の者は、同じような人形を作って娘の家の神棚に供え、後に自宅の神棚に祀った。こうした家は山火事が起きても、その被害を受けることがなかった。
こうして娘は“おたまさま”と呼ばれる火除けの守り神となり、集落の者は年に一度、“おたまさま”に似せた人形を作っては娘の家の神棚に祀り、その後家に持ち帰って自宅の神棚に飾るようになった。やがてその習慣は近隣の集落にも広がり、一年間家を守った“おたまさま”人形は役目を終えた後、娘の家に納められるようになった。娘の家は村はずれに祠を作り、人形をこの祠に祀った。後に、人形は一年間祠に祀られてから、火除けの文字の書かれたおふだとともに貸し出されるようになった。この風習は昭和年間半ばに集落に電気が通るまで続き、現在でも集落の数戸はひそかに“おたまさま”の貸し借りを続けているらしい。

“おたまさま”人形について

“おたまさま”人形とは、和紙や布に綿を入れて丸い頭を作り、同様に細長い棒状の胴体も作って、頭とくっつけ、専用に拵えた着物を着せた手作りの人形である。
“おたまさま人形”を借りる風習のある家の者は、毎年初夏にこれを作って、昨年借りた一体と火除けの文字の書かれたお札ふだ、オボシメシ(お礼の品)と共に集落の特定の家(“おたまさま人形”を貸し出していた●●家:“おたまさま”の実家と推測されるが、現在家名は不明)に持っていく。そしてまた別の一体と、お札を借りて帰っていく。借りられた“おたまさま人形”は、一年間神棚などに供えられ、家を守るとされる。一年後、借りた“おたまさま人形”にお礼、オボシメシ、自作した新しい人形を●●家に持っていき、また新しい人形と交換してもらう。

“おたまさま”人形の祠について

返却された“おたまさま人形”の祀られている祠は●●家の敷地から離れた村はずれの小屋の近くにあり、村はずれに向かう道の脇には「コレヨリ先一切ノ火器ノ持込ヲ禁ズ」と書かれた看板が立っている。 “おたまさま”は火事で亡くなっているので、火を怖がるからだという。“おたまさま人形”のやり取りは祠の近くの小屋で行なわれていたが、それゆえにやり取りは明かり(火)が必要ない昼間に限られていたらしい。集落に電気が通った後も、夜は祠に近づかない風習は残ったという。

「ふたつ質問してもいいですか」
冊子の文章を読み終わった後、香西が武市氏に尋ねた。
「おゥ。俺でわかるんならな」
香西は左手の白い人差し指で、広げた冊子の文章の一部分を指した。
「『現在でも集落の数戸はひそかに“おたまさま”の貸し借りを続けている』……どうしてひそかになんでしょう。表立って貸し借りしてはいけなかったんですか」
武市氏は左手でポリポリと顎をかいて、思い出すように首を傾げた。
「そいやぁ、なんでだんべぇか。俺の小せぇ頃はまだ集落の半分くれぇの家が人形を貸してもらってたらしいけんども、それを口に出すのはいけねぇことだった。そういう決まりがあったんだんべぇ。人形を借りるとき、集落のもんにはできるだけ見られちゃいけねぇ、よそもんには絶対に見られちゃいけねぇ。そうおせえられたな」
おそらく、武市氏にとっては当たり前のことすぎて、疑問に思わなかったのだろう。
香西は右手の指先で顎のあたりを触りながら、
「オシラサマ信仰も集落の中だけ、信仰する親族だけの儀式があって、外に漏らすのはタブー視されているところもあるらしいから、それと同じかな……」
香西は右手人差し指で顎の先を何回か叩いてから、今度は左手で違う箇所を指さした。
「『集落に電気が通った後も、夜は祠に近づかない風習は残った』というのは、どういう意味ですか。たとえば懐中電灯を使えば、夜に祠に近づいたとしても、それは火ではないから“おたまさま”は怖がらないはずです」
「おめぇ、りくつをいうなぁ」
武市氏は感心したように香西をまじまじと見た。
わりいけんど、その理由もおれは知らねぇよ。けんど、あの辺は夜は真っ暗になるけぇ、なるべく近づかねえにこしたことはねぇべ。小せぇ頃は、よおっぱりして祠に行ってみぃ、熊に遭っておっちんじまうぞ、っつっちゃあ脅されたもんよ」
「えっ熊出るんですか?」
予想外の単語が出て反射的に尋ねた俺に、武市氏はその疑問に驚いた様子で、
「あったりめぇだんべ。熊は昔っから山にいるもんじゃねぇか。最近はハクビシンやらアライグマやら、特定外来生物っつうんまで山に棲むようになっちまって。ここらの畑も、昔はイノシシが出たもんだけんど、今荒らすんはハクビシンかアライグマっちゅうはなしだべぇ」
「ハクビシンやアライグマ……」
頭の中に大学の講義で扱われていた、外来種による生態系への悪影響や農作物被害についての内容がよぎる。社会問題は、都会よりも地方に先に現れると習ったが、本当だ。
少子高齢化と公共交通の貧弱さによる交通弱者の増加、野山に棲み着いた外来生物による農作物被害……。
「ものすごく勉強になる……!」
呟くと、隣の香西が無表情で一言。
「勉強しに来たんだから、当たり前だろう」
それはそうなのだが、そうじゃないんだが。
その時、玄関の方角から「ただいまぁ」とセツさんの明るい声が響いた。奈津子さんとの買い物から帰ってきたらしい。
続いて奈津子さんの「お邪魔します」という声が届き、がさがさと荷物を運ぶ音がする。
「ちょうどおっかぁらもけえってきたみてぇだし、お開きにするかァ」
武市氏は香西と俺を交互に見た。どうやら取材を終わりにしたいようだ。
「あ、はい。どうもありがとうございます。いいお話が聞けて良かったです」
頭を下げて礼を言う俺の横で、香西が抜け目なく尋ねる。
「またお聞きしたいことが出てきたら、こちらにお伺いしてもかまいませんか」
「そりゃかまわねぇけど、俺で役に立つかねぇ……」
武市氏は、最後に香西の質問に答えられなかったことが引っかかっているらしい。
「わからないならわからないと答えてくれていいんです。それがまた、手掛かりになりますから」
まっすぐに目を見て伝える香西に、武市氏は呆れたように首を回した。
「おめぇのりくつは、頭がこんがらかるなァ」

買い物同行の依頼を終えた奈津子さんと合流し、久冨家を辞した、予定としては旧久鼻集落を実際に訪れる予定だった。しかし、香西はその前に市立図書館に行きたいと言い出した。
「図書館で、何か調べるの?」
奈津子さんが尋ねた。
久冨家の広い庭を出て、駐車場に向けて道路を少し歩く。周辺の一段高い位置に、畑や雑草が勢いよく生えた空き地が続いている。本来は傾斜地である土地に、土を盛って周囲をコンクリートで固め、平地を作っているのだろう。実際、足元の道路はゆるやかな坂道になっている。
日差しは父冨到着時より和らいでいる。しかし日光に温められて、盆地に滞留している空気は蒸され、今が最高に、暑い。
香西は汗ひとつかいていない涼しげな表情で答えた。
「新聞の地方版。父冨で起きた交通事故を調べたい」
「それならスマホで検索できない?」
「いろんな新聞を網羅的に調べたいんだ。図書館なら各社の新聞記事のデータベースに無料でアクセスできる」
奈津子さんは手に持ったハンカチで額の汗を拭ってから、肩をすくめた。
「今から図書館でそんなことしてたら、久鼻ひさはな集落に行くのが夕方になるわよ。帰り道は夜になっちゃう。うちはお父さんとお母さんが、礼一くんとお友達を、首を長~くして待ってるのに」
香西はそれを聞いて言葉に詰まった。
相変わらず鉄面皮ながらも、気まずそうな様子なのが分かる。
半日ほど一緒にいたので、俺も多少は彼の無表情の中から感情を読み取れるようになったようだ。
「じゃあ明日。明日、図書館に行く」
「構わないけれど、私は明日、一日中仕事よ。父冨の女の子が地元アイドルになって、商店街でデビューイベントするの。そのお手伝い」
香西が目に見えて意気消沈する。
駐車場に着いた奈津子さんはハンカチとともに持っていた車のキーを操作し、軽ワゴンのドアをリモートで開錠しながら、困ったように笑った。
「礼一くん、免許証は持ってきた?」
「去年アパートに置いてきたら、ものすごく怒られたから持ってきた」
気のせいか香西が拗ねているような声を出す。
それにしても香西、免許を持っているのか。確かに父冨のような車社会では自動車運転免許は必須だから、彼が持っていても不思議ではない。香西を見ても車を運転するイメージは全く浮かばないが。
「じゃ、明日はこの車を運転していいわよ。私、使わないから。明日の現場までは所長の車に同乗させてもらうし」
「そうなん? 助かる。ありがとう」
香西が方言らしい言葉を口にするのを初めて聞いた気がする。それにしても、身内に対しててらいなく礼を言う男である。
香西は助手席に乗り込みながら、唐突に、後部ドアを開け車内に足をかけている俺に呼びかけた。
「小中は明日、ネット上の“おたまさま”人形の呪いの体験談を調べてくれ。実話形式の小説じゃなく、投稿者本人が実際に体験したと思われるやつだ」
俺は香西が突然声をかけてきたことにも、俺に頼みごとをしてきたことにも、その内容にもびっくりした。びっくり三連発はさすがに心臓に悪い。
「“おたまさま”人形の呪いには興味がないんじゃなかったのか?」
「さっきまでなかったけど、気になってきた」
その返答に運転席に着いた奈津子さんが苦笑した。
「礼一くんの悪い癖が出たわね。気になると、気が済むまで突っ走っちゃうのよ。ごめんね、小中くん。嫌なら断ってくれていいのよ」
「嫌ではないです。付き合います。香西が何を気になってるのか、気になるので」
奈津子さんは、今度は嬉しそうに笑った。駅で会った初対面の時と同じ、花のほころぶような笑み。
「じゃ、久鼻集落に行くわよ。久冨さんちの前を通ってそのまま道なりだから、迷いようがないんだけど、けっこう急カーブが多いから、覚悟してね」
奈津子さんは軽ワゴン車のエンジンをかけて、発進した。

第4話
https://note.com/newyamazaki85/n/n370baf184e80


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