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娘のお宮参りで感じた幸せの循環

昨日は、娘ラナちゃんのお宮参り & お食い初めデーだった。鎌倉の鶴岡八幡宮でやったんだけどね、いやぁ、本当に幸せな一日だった~。何が幸せって、妻と娘がいるってのはもちろんのことなんだけど、そんな僕たちのことを見守ってくれている人たちがいて、その人達が幸せそうな顔をしてるってのが、本当に幸せな気持ちにさせてくれるんだ。なんていうのかな、幸せが循環してるっていうのかな。昨日は、特にそれを感じたんだよね。

昨日は、妻のご両親や妹、僕の母が参加してきてくれたんだけどさ、もうね、なんかそれだけですごく嬉しいんだよね。一緒にお参りできることが凄く幸せみたいで、招待してくれて本当にありがとう! だってさ。いや、こちらこそ、ありがとうなのに。鶴岡八幡宮の本殿って50段くらいの階段の上にあるんだけど、エスカレーターとかないから自分で登らなきゃいけないんだよね。僕の母はさ、階段を登りきったところでぶっ倒れてしまったんだ。昨日は暑かったから貧血みたいになったんだけど、母の話を聞いてみると、前の夜に夜中の2時に目が覚めてしまって、それから寝れなくなってしまったみたい。そんな状態で2時間かけて電車に乗って参加してくれたんだ。寝不足で結局、倒れてしまった。でも、それだけ楽しみにしてくれてて、それが本当に嬉しかったんだ。

昨日は、妻は着物を着て、僕はスーツを着て、どこから見ても 

The お宮参り!

って感じの装いだったもんだから、色々な人に「おめでとう!」って声を変えられた。それどころか、

幸せを分けてくれてありがとう!

とまで言ってくれる人もいたんだ。僕たちは、特に何もしていない。ただ、お参りして歩いているだけ。それでも、誰かを幸せをするひとつの要因になっていて、結果、僕たちもさらに幸せを感じる。なんだろうこれ? 誰かを幸せにしようなんて思ってない。ただただ、自分が幸せでいる。ただそれだけで誰かが幸せになってる。その様子をみて、僕もまた幸せな気分になる。もうね、自分と他人の境目がないみたい。僕の幸せが誰かの幸せで、誰かの幸せが僕の幸せ。ここには、わたし、あなたという分離がないような、凄く調和された感覚があったんだよね。『わたし』というおおきな存在の中で、幸せがグルグル渦巻いてる感じ。境目がない幸せっていうのを感じたんだ。

自分が幸せでいる。どいうことが、どれだけ人に幸せを与えて、自分にも帰ってくるのかが、昨日のお宮参りで感じることが出来た。幸せにするとか、幸せになるとか、もうね、そんなこと考えなくていい。ただただ、自分が幸せであればいい。それだけなんだよなぁ。

僕たちは、どうしても幸せになろうとしちゃうし、誰かを幸せにしようとする。だけど、それってさ、前提が『不幸』なんだよね。自分は不幸だと思ってるから、幸せになろうとするし、他の人も不幸だと思っているから他の人を幸せにしようとする。でも、前提が『幸せ』なら幸せにすることも、幸せになることもしなくて良い。というか、できない。だって、既に幸せなんだから、幸せになることはできないよね。それにさ、僕たちは本来は、幸せな存在。だけど、それをすっかり忘れちまってる。

生後3か月の娘を見ていると、本当に幸せそう。本人は、恐らく幸せ、不幸せの区別が無いと思う。自分は幸せな存在だということを全身で表現している感じ。そう考えると、幸せ、不幸せすらもう考える必要がないのかもね。赤ちゃんのように心のままに生きる。それだけで、幸せでいることになるし、幸せに生きることになるんじゃないかな。そうすると勝手に周りに幸せが伝染して、自分を不幸だと思っている人も幸せな状態にシフトしていく。そして最終的には、地球全体に幸せが増幅していって、本当に幸せな星になるんじゃないかな。なんかね、そう思うんだ。

僕はこれまで『幸せ』という言葉にとらわれていたのかもしれない。もう幸せ、不幸せのことなんか考えずに、ただただやりたいこと思うことをやる。それだけでいい。うんそうしよう。

そんな気づきと幸せをいっぱい感じたお宮参りだったよ。

娘よ、これからも元気いっぱいに育っておくれ^^

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