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自己紹介④ 家族の前で笑わなくなった高校時代

高校に入学してまず感じたことは、束縛からの解放感だ。中学に感じていた様々な束縛から解放されたような、実にノビノビとした学生生活だったように感じる。中学校が義務教育だったからか、母親のあれをしなさい、あれはしちゃだめ、がとても多く、それがとても煩わしくて、窮屈だった。常に母親のつくった檻の中にいて、監視されているような、そんな気分だった。しかし、高校に入った時にその一歩外に出たような気がしたんだ。

高校時代、僕の頭の中を占めていたのは、女子にモテること。彼女を作って楽しい高校生活を送ることを夢みていた。高校入学時の僕の身長は160センチにも満たない低身長。やせ型で眼鏡。相変わらずの『のび太スタイル』でやらせてもらってた。そのイメージを何とか変えようと、僕はバレーボール部に入部。中学校の時は、バレー部の男子が人気があったので、特段バレーが好きなわけでもなく、

もしかしたらモテるかもしれない

という不純な動機で入部した。

それから僕の学生生活は、バレーの練習が中心になっていった。まず朝練があり、午前の授業。お昼を食べて、昼練。午後の授業の後は、放課後練習。中学時代にろくに運動をしていなかったから、基礎体力、筋力が僕にはついていなくて、とてもキツかった。おまけに背が低いから、ジャンプしてもネット上から手が出ないのでスパイクも打てない。バレーボールをするにはなかなかハードな肉体だった。でも、やめる気はなかった。中学時代まで僕はキツイことがあると逃げてた気がしてた。それで、後悔するのが嫌だった。もう逃げるのも後悔するのも嫌。動機は不純だけど、バレーボールをやり続けることにした。

僕が目指したポジションは、レフトアタッカー。スパイクをバシッ!!と決めるエースポジションだ。しかし、僕は低身長。ネット上まで手が届かない。そして、この先、身長が伸びるかどうかの保証もない。そこで僕が考えた策は、ジャンプ力を伸ばすこと。ジャンプ力が伸びれば、足りない身長を補えると思った。それからというもの、僕は暇さえあればジャンプの練習をしてた。体育館のバスケットボールのリングめがけて高く飛ぶ練習をしまくった。その結果、高校2年生の4月には垂直飛び88センチになり、最終的にバスケのリングがつかめるようになった。その時の身長163センチ。それでも、レフトアタッカーのポジションに就くことができたんだ。

女の子にモテたい。そんな不純な動機で入部したバレー部だけど、結局、卒業までやり続けた。そのおかげで、学生生活が楽しかった。部活がきつくて、プラス友達と放課後遊びまくって、勉強しなくなったので、学校の成績はたいして良くなかった。けど、中学時代に感じなかった自由を感じた気がする。友達もたくさんできた。友達とご飯食べに行ったり、映画観たり、洋服買いに行ったり、友達の家に泊まりにいったり。卒業して30年経ったいまでも付き合いのある友達もいて。中学の時のような悲しみや怒りを感じた出来事が思い出せない。残念ながら、女の子にはモテなかったけどね。それでも女の子の友達もできたし、とても楽しかい学校生活だった。

しかし、その一方で家族との会話をしなくなってしまった。学校で何があったかとか、そうしたことを一切話さない。友達のことも話さない。そんな状態になっていたんだ。その時の僕は、

親に話すと否定される

って思ってた。高校入学してすぐ位に、僕はアルバイトがしたくて親に相談した。でも、その答えはNO! 理由は、成績が下がるから。成績があがったら欲しいものは買ってあげるから、アルバイトはしちゃだめ。これが親の言い分。でも、それまでの経験上、親のこうした約束は守られないことが分かってた。だからもう、相談することをやめた。僕のやりたいこと、やっていることよりも成績のほうを気にかけるのが本当に気にくわない。だから、必要以上に話すことをやめたんだ。

両親は戦時中の生まれで戦争を体験し、高度成長期を生きてきた。だから、いい学校に行けば、いい会社に就職できると信じている世代だ。ましてや僕の高校入学時はバブル期。経済が盛り上がっている時期で、数年前に父親が起こした事業もドンドン利益があがっていった。勉強が大切だということも分かる。わかるけれども、勉強ばかりではなく、その時にやりたいことをしたかった。それを否定されることが、僕はたまらなく嫌だった。だからと言って、家族が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。好きであるがゆえに、僕のやりたいことを否定してくることへの苦しさがあった。ムカつくし、怒りも感じる。しかし、やっぱり家族が好きなのだ。でも、その時はどうしたらいいかもわからず、自分のことを家族に話すことをやめたんだ。

高校2年生の時、バブルがはじけた。父親の会社に仕事の依頼が来なくなり、父親はずっと家にいるようになった。すぐに景気が回復する。それが父親の言い分。父親は、特に自分からアクションを起こすこともなく、家で仕事が来るのを待ってた。その間、母親は美容師としてお金を稼ぎ、生活を支えてくれた。朝練に行く僕のために早起きして、毎日弁当を作ってくれた。そんな状況でも僕を育ててくれた両親には、本当に感謝してる。でも、僕は愚かにも家族の会話を拒絶した。悩みごとを相談するのは、いつも友達。お金が必要な時にだけ、親に相談する。そんな関係性になっていった。そうしたら、いつの間にか家族の前で笑わない自分になっていた。家の外では、大はしゃぎする。しかし、家では笑わない。そんな自分になっていたんだ。

本当に楽しかった高校生活と笑顔のなくなった家族生活。そんな2つの顔を持って、その後の人生を歩いていくことになる。

大学時代へ続く


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